2009年05月19日

虚しさが・・・・・

何がしかの思いがあって、再開したはずのこのブログでしたが・・・

この時代になって、ぽつりポツリと昔を語っても一体なにになるのだろうか?
ふとこんな疑念がわいて、続けてゆく元気がなくなっています。

このまま閉めてしまおうか、今そんな心境になりかかっています。

樺太や千島列島がどんなであったか、先人たちの営みの軌跡をたどることはとても重要なことだと思ったのでしたが・・・・・・・


それもこれも現在の情況を知らされると、一度に気力が萎えてしまいました。
何しろ、領土の5割引バーゲン論とやらが、すでに日本外交の公式な方針であるかのような様相です。

政治家が、歴史に名を残したいために何かをするのを止めることの出来る国はない、と言います。
学者や評論家は、後になってからその功罪を云々するにすぎない、と。

今の日本では、国民は「北の島がどうなろうと、そんなの関係ねえ」なのでしょうか?

翻って、いまさら自分は一体何を書こうとしているのか。
誰に語りかけようとしていたのか・・・・・・
どっと虚しさに襲われています。



ところで、沢山の読者からのコメントが寄せられた人気ブログを見る度に、少し羨ましい自分に気づきました。
逆に細々とでも続けてきて、コメントが書かれないブログなどは、存在価値がないのではないか?
もしかしたら、虚しさの正体の一つはこれだったのかも知れません。






























タグ:虚しさ
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2009年04月29日

昭和の日つれづれ

今日は「昭和の日」ですが、つい20年前までは天皇誕生日でしたね。

それを知らない二十歳前後の世代が、テレビに沢山出ている時代ですから、「昭和も遠くなりにけり」と言われるのも時間の問題ですか?

裕仁親王(崩御後追号して昭和天皇)がお生まれになったのは、1901年4月29日ですからまさに20世紀元年ですね。
年号でいえば、明治34年になりますか・・・・・


前にもいった歴史を遡行する探偵癖で、年表を開いているとなかなか楽しいものです。
前年に起こった義和団事件(北清事変)が報道映画になって、これが日本のニュース映画の最初だとか。

関東地方金融恐慌、それが関西にも波及、と?
前年には、東京にペスト流行なんてのもあって、現在の金融恐慌や豚インフルエンザ騒ぎに照らすと、規模こそ違うものの人間の営みはいつでも繰り返しですかね。

かっては、若者の誰もが読んだ国木田独歩の「武蔵野」が出たのもこの年。東京郊外の武蔵野の自然が、みずみずしい筆致で描かれていましたが、それが今の渋谷界隈だとすると昔日の感どころではない思いがあります。
そして、与謝野晶子の歌集「みだれ髪」が・・・・・・

あの与謝野馨財務相のお祖母さんだということは、どなたもご存知のことでしょう。祖父鉄幹も歌人、その孫のイメージとはちょっとそぐわない気がするというのはおいといて、改めて感じたことがあります。
それは、遠い昔と思いがちな明治でさえ、こうしてまさに地続きで継がっているのだということ。

昭和なんぞは、まだすぐそこにあることになりますよね。
でも、陸奥の平成生まれにさえ「昭和顔」と馬鹿にされかねない?昭和人にとっては、内心穏やかでないご時世かもしれません。

昭和の日にちなんで、昭和史にもどります。

昭和17年6月にアリューシャン列島のアッツ、キスカの両島を日本軍が占領しました。
これは緒戦で日本が米英の艦隊を壊滅してしまったので、日本海軍としては大きな標的がなくなってしまった。
そのために、海軍としての次の作戦計画を急遽ねらなくてはならなくなったことに関連するようです。
そのときに海軍軍令部から出たのが、米軍がアラスカ伝いに千島から攻め込んでくるかもしれないという想定。

千島で見張るだけでは覚束ないということで、警戒線を拡げるための攻略だったのですね。多分、図上だけの作戦計画では?
それというのも、予想をはるかに超えた気象条件の厳しさに、補給も援護も困難だと言うことが出来したのでした。「そんな島に、部隊を送り込む奴があるか」という声が、軍上層にあったとか。

占領とはいうものの間違ってもその島を手に入れようとか、ましてアラスカ方面から攻め込もうとかいう意図などは皆無だったわけですね。
米軍側は仰天して、あわててカナダを通ってアラスカに抜ける軍用道路を作りましたから、もしかすると二島攻略はかえって薮蛇だったかもしれない?
ではなぜ、大きな犠牲を払ってそんなことをしたのか。

開戦のときに、すでに敵の本土空襲を予測して山本五十六司令長官が、東太平洋深くに警戒線をしいて、見張りの船(漁船)を派遣したことは、前に第23日東丸のことでふれました。
現代と情報通信がまったく違う当時としては、敵の攻めてくるのを一瞬でも早く察知するためには、出来るだけ相手に近いところに監視点を置く必要があったのではないでしょうかね。


このアッツ島は、昭和18年5月に米軍の逆上陸にあって、北海守備隊は司令官山崎保代大佐以下2500余名が「玉砕」しました。
あの戦争で、玉砕という言葉が使われた最初でした。

昔は、年長も幼年もいつも一緒に遊んだりしてましたから、アッツ島玉砕のことは子供の間でもさざなみのように伝わりました。
通りで遊びながら、あの時初めてふとかすかに胸のうちに不安を感じたのをはっきりと覚えています。
あれが昭和18年だったとすれば、自分は幼稚園児だったのですが・・・・・


わたくしごとはともかく、昭和の日にふと頭に浮かんだのは、次のエピソードでした。
陸軍の参謀総長かだれかが、昭和天皇にこのアッツ島守備隊の最後を上奏したときのこと。

昭和天皇は追悼の姿勢をしめされたあとで、
「最後までよくやった。このことを伝えよ」
と、言われたそうです。
参謀総長は、すでに無線機も破壊されてしまっていることを申し上げると、陛下は次のように・・・・・・

「それでもよいから電波をだしてやれ」



無線機が壊れたから打ってもムダ、というのは心無い並の人間の考えることでしょう。

この、北の空に向けて放たれた無電のことは、大分後になってどこかで読んだのですが、いまでも折にふれてよみがえる昭和天皇の思い出です。






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2009年04月27日

北を睨んで


樺太に初めて配備された陸軍が、第七師団の連隊だったといいました。
衛戍地の名をつけて旭川第七師団と書きましたが、日本陸軍(正式には大日本帝国陸軍)では師団や歩兵連隊をただの番号だけで呼んでいましたね。

で、この第七師団のことを、北海道の人々は「北鎮部隊」と呼んでいたそうです。北の鎮守に当たる頼もしい郷土部隊として、畏敬と愛情をこめてそう呼んだのでした。
陸軍誕生時には6師団編成で、一から六までは日本を6つに分けた軍管区と同じで、例えば第一師団は東京というように決められていました。
そして、明治時代だけでも12の師団が順次増設されるのですが、その最初の師団がこの「七師」だったのです。
道民が誇りにしたのも、むべなるかなかも知れませんね。

郷土部隊といいましたが、師団の各連隊は地元の出身者で編成されるのですから、郷里の若者の集団に他ならないわけです。
例えば、二年後に創られた金沢の第九師団でいえば、福井・富山・石川の北陸三県で徴募されました。
ちなみに、当時は国民皆兵ですから、健康な男子であれば二十歳になればみな徴兵検査を受けたわけです。いわばそれが一人前の男になった、という通過儀礼。

そんなわけで、日本陸軍の常設師団は、今風に言えば完全フランチャイズ制のようなもの。
しかも、自分の息子や孫たち、あるいは父親や兄弟たちが所属しているわけですからね。同じ村、隣町、そして後には父子二代で参加していた・・・・・
一言で軍隊と言うものの、当時の国民と「兵隊さん」との距離は今では想像もつかないほど、近しいものであったことも事実でしょう。
郷土ゆかりのものを応援する心理は、今のスポーツなどにも通じませんか?

大分脱線しましたが、またいつもの悪い癖で、文字通りの四方山話。
あっちにいったり、こっちにいったり、脇道寄り道で、こどものお使い噺、お笑い下さい。

でも、こういう時代の空気というものを知っておくのも、歴史のあれこれに触れるときには大切かもしれませんよ。
例えば、、映像や写真で見る戦時中の出征兵士の見送り風景。村をあげて町内中で、時には熱狂的に送り出してるように見えるのはなぜだったのだろう?
時代の教育のせいとか強制されたからという説明では、腑に落ちなかったものです。でも、郷土部隊を応援するような気持ちだったと聞いたときに、そうだったかのと納得した覚えがあります。


終戦時に、北海道から千島・樺太を守った第五方面軍司令官の樋口季一郎中将は、元は金沢第九師団師団長でした。
この樋口中将も、なかなかの経歴を持った人物ですが、それはまたおいおいに。

ちなみに、旭川第七師団は終戦時まで日本国内に残ったただ二つの師団の一つでした。
そのため戦後、動かざる師団ともいわれたようですが、それは師団司令部が帯広に移されただけで北海道を離れなかったことによります。
隷下の連隊は、例えばノモンハン事件で有名な悲劇の須見部隊、ガダルカナルで全滅した一木支隊などと、常に陸軍のスーパーサブのような役割を担わされて、あちこちに投入されていたようです。

しかしそれでも師団としては常に定置して五十年間、北方を凝視し続けたということは、それだけロシア(後にはソ連)の脅威への備えをおろそかに出来なかったということでしょうね。
一方で海軍は背に腹は代えられずか、第五艦隊のほうはすべてレイテ方面に抜かれました。
大分前に書いたレイテのくだりの西村艦隊も志摩艦隊も、あのオルモックの木村昌富少将も、みな北方艦隊だったのですが・・・・・

明治以来の常設師団で、最後まで残ったもう一つは四国善通寺の第十一師団でした。その初代師団長は、日露戦争の203高地で有名な乃木希典でした。

























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2009年04月23日

国境への道


蟹工船の時代には、海軍の駆逐艦などが北方の漁場を警護していた、と書きました。

当時はすでに、日本は英米に比肩しうる海軍大国でした。
その強い海軍が守っていれば、北は安全だと考えられていました。
その証拠に、対米戦争が始まる前までは、のんびりした樺太に陸軍は一人もいなかったのです。
北緯50度のソ連との国境警備は、樺太警察の警官が当たっていました。

昭和16年12月8日に日米の火蓋は切られたわけですけれど、昭和14年の日英東京会談が決裂して、アメリカが日米通商航海条約の破棄を通告してきたあたりから、英米の対日圧力は強まって来ていました。
昭和15年9月には、昭和天皇が大反対だった日独伊三国同盟が紆余曲折を経て成立します。(この三国同盟もそこにいたる歴史の経緯を探ると、思いもかけない世界の動きの裏側まで見えてきて、そこで演じられる人間ドラマの面白さはもしかすると上質の芝居や小説をしのぐかもしれませんが・・・・・・・)

それで、その昭和15年頃になると、日米間の雲行きをみてか、樺太の国境線を越えてソ連のスパイがどんどん入ってきたそうです。
警察力だけでは?と言うことで、旭川の第七師団から一個連隊を割いて派遣したのが、樺太に陸軍が(つまり日本軍が)駐屯した最初だったのですね。

国境線は120キロもあったのですが、そこを守るのに先には国境守備警官隊だけでした。そして、連隊が入ってからも、国境に一番近い町である古屯(ことん)にわずかに一個大隊だけ配備されています。
ちょっと不思議な気がしますが、樺太の地理的条件を知ると疑問が氷解します。

前回ちょっと触れた国境まで続いている中央道路ですが、これがやっと二車線の未舗装道路だったのです。
道路の東側を幌内川が流れていて、川岸が平らでも右岸12キロ左岸8キロがツンドラ地帯で通行不能。
逆に言えば、凍土地帯の中を川が流れていて、その流れに沿って道路がつけられたわけですか・・・・・
そして道路と川の両側には七、八百メートルの山脈が連なってるというのです。
地図上の国境が120キロあっても、国境から南下するには幅十メートル内外の一本道しかないわけですね。

これを知ったとき、私の頭にすぐに浮かんだのは、あの「箱根の山は天下の険、・・・・・」という小学唱歌でした。
歌詞の中にあった、「一夫関に当たるや、万夫もままならず」というくだりです。
うねうねと続く羊腸の小径にある関所は、何人で攻めてきても一人で充分ということですか。
さしずめ樺太の国境も、同じような「地の利」を持っていたのでしょうね。
「この道路を確保しておけばよい、防衛計画といっても、まことに単純で気楽なものでした」
師団参謀長が後年、そう述懐したのもうなずけます。

ちなみに、昭和13年に女優岡田嘉子が共産党員の杉本某と越境してソ連に入ったのもここだと言います。
逆に言えば、それだけのんびりした時代だったとも言えるかも知れません。往年の松竹の大スター岡田茉莉子さんは、この国境を訪ねたことはあったのかな?などと、あらぬ想像にまで脱線していました。

ところで樺太は、いまの関東地方一都六県を合わせたよりも広かったとか聞いた覚えがあります。
調べれば、すぐに分かるのでしょうが、漠然とそんなに広く感じなかったのは、あるいはメルカトル図法による目の錯覚だったのか・・・・・


その樺太の守りも、開戦の翌年である昭和17年には樺太混成旅団になっていました。つまり、一個連隊から旅団規模まで拡大されていました。そして、それはほとんどすべて米軍に備えていたのです。











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2009年04月21日

忘れられた戦場


千島列島・樺太など、北海道の北がどうなっていたのか?

そのことを知らなければ、北方領土問題もなんだか他人事で済んでしまうかも知れません。
あるいは、聞き流して忘れられるのかも?

戦時中も、北が戦場になったのは、アリューシャン列島のアッツ・キスカ両島の戦いのあとは、終戦直前の樺太国境での戦闘だけでした。
流氷や濃霧に閉ざされ凍土地帯の広がる北の厳しい自然が、軍事行動をも阻んだのかも知れません。その意味では、忘れられた戦場といってもいいでしょうか。国民の目は、どうしても激戦の続く南方に向けられたでしょうから。


そしてあの八月に、樺太で2000人からの犠牲者が出ましたが、そのほとんどが終戦後に上陸したソ連軍によるものだったのです。

懸案のまま60余年経った北の四島も、終戦後になってから不法に占領されたわけでした。

「ボクシングにたとえれば、言わば試合終了のゴングが鳴ったあとで、グローブをはずしているところをボコボコに殴られたようなもんだ」
そう表現した当事者がおりました。

いわばどさくさまぎれに強奪されたという事実を、当時の日本人は胸に噛みしめて我慢したのですね。
巨大な暴漢の前には、手も足も出ない弱者の悲哀をいだきながら・・・・
その代わりに、ロシア人に対する不信感だけが残りました。


先に厳しい自然と言いましたが、温暖化の進んだ現在とはかなり様相が違うようですね。
グーグルマップが、リアルタイムなのかどうか良く知りませんが、4月の初めに衛星写真画像を見て驚きました。
いたるところ緑が多くて、高緯度でも雪や氷が少な過ぎるような・・・・
ツンドラ地帯とか、永久凍土というものは、もはや消えてしまったのでしょうか。北極海の氷が消えると言うのも、悲観的予測の域を超えてもはや現実になってるのかもしれない?

昭和の北方の地理的条件を考える場合、現在とはまったく違うものを想定しないといけないでしょうね。


北方領土で問題となっているのは四島だけなのですが、なぜ樺太から話を始めようとしたかといいますと、日本本土でソ連と国境を接する唯一の場所ということ。昭和20年8月に起こったことは、先ず樺太から始まったからです。

その樺太に上陸しようとして、なぜこんなに時間がかかっているのか。
実は、樺太のことを書こうとして、困ったことに気づきました。
どんな場所でも少し詳しくそこを説明するには、地名が必要になります。例えば、

 敷香から、気屯、古屯を経て国境まで中央道路を・・・・・

と書いたとします。これを読んだ人は何のことやら分からず、それこそキョトンとしてしまいます。
現在、旧樺太の地図などないわけですから、調べようもありませんしね。

こんなときに、書物なら略図が入ります。略図さえあれば・・・・・


白状しますと、見よう見まねでブログの真似事をしておりますが、器械のことはちんぷんかんぷん。
もし、自分で書いた略図でもブログに取り込めたら、などと悩んでおります。
こんなブログでも読んでくださる方の中に、どなたか教えてくださる奇特な方はいらっしゃいませんでしょうか。









posted by shuuin at 16:08| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月16日

樺太天国

当時、太平洋戦争末期には、「樺太天国」という言葉があったそうです。

樺太は空襲もなく静かで平穏な毎日ですから、内地から親類縁者を呼び寄せるものも多かったと言われます。いわゆる疎開ですね。

昭和20年になると、内地は連日どこかが空爆を受けていました。
たとえば六大都市はのきなみ、大空襲の被害にあっていますね。
神戸や名古屋などの軍需工場のあったところは、とくに執拗に狙われました。
大阪も名古屋の翌日に、死者・行方不明4600名以上をだした大空爆をうけています。(以後、何回も何回も・・・)
六大都市では京都だけが、大空襲は免れましたが、西陣や太秦などに小規模ながら被害をうけています。
ただし、京都は原爆投下の第一目標であったことは、前にこのブログで少し詳しく?書いた覚えがあります。

なぜこんなに、六大都市の空襲について書いたのかと言うと、当時の人々の感覚の中にあった六大都市の概念が、今とは大分違っていたからです。
なんと云ったらったらいいのか、いわばそれが日本の顔とでもいうか、・・・・・・
とにかく、それらの都市が灰燼に帰すというのは、いわばこの国の表門や玄関が壊されているような、そんないたたまれない不安をみんなが感じていたのです。

無論、地方都市も同じように、それぞれの大空襲を受けています。
カーチス・ルメイが豪語した“焦土作戦”のことは、前に触れましたね。
「日本の都市はなくなる。後は攻撃目標として線路ぐらいしか残るまい」


樺太の人々が樺太天国といったのは、本土の人々の苦労に比べたら申し訳ないほど平穏無事であることを、そう表現したのですね。
もともと樺太は第一次産業で栄えたわけですから、食糧や燃料が逼迫し始めた本土とくらべれば、ありあまるほどの食糧・燃料事情でした。
その意味でも、天国と思えるほどの豊かな平和郷だったわけですね。
樺太はアイヌ語からきた呼称ですが、「草の島」という意味だとか。
寒冷地だけれど、昔から自然豊かな緑の島だったのかも・・・・・
(ポーツマス条約で、再び還った樺太も日本の本土ですから、本土と呼ぶのは正確ではないかも知れません。瀬戸内海の島の人が、本土に渡るというのと同じ類の表現ですね。内地というのもおなじで、樺太が外地だということではありません。)


樺太と北海道とは、船便が唯一の交通手段でした。
その意味では、北海道と本州との連絡もそうですね。
「青函連絡船がやられたら、それこそ大事だから」
この言葉に出会って、はっとしました。
航空機や青函トンネルなどのある時代と、連絡船の持つ重みがまるで違ったわけですよね。
それで、樺太・北海道間でも稚内に師団を置いて兵1万で宗谷海峡を守っていました。

まだ、樺太にたどり着けませんでした・・・・・・












posted by shuuin at 19:49| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月14日

樺太

今、サハリンと呼ばれている樺太をはじめ、歯舞、色丹、国後、択捉の北方四島を語ろうとすると、やはり大雑把にでも北太平洋の地図を思い浮かべる必要がありますね。

北東のアラスカからベーリング海に延びているのが、アリューシャン列島。
このアラスカは1867年に、アメリカがロシアから買収したところでしたよね。江戸で篤姫の激動の年に、アメリカはこんなお得な買い物をしていたわけですかね。
ベーリング海を挟んでアラスカの反対側にカムチャッカ半島。その南端から根室まで続くのが千島列島ですね。

なんだか、小学生に地理の説明をしてるようで気が引けるのですが、自分の頭の整理をしているのだろうぐらいに、読み飛ばしてください。

根室の先に突き出したノシャップ岬に続くのが、歯舞諸島ですね。一口に北方四島と云いますが、歯舞は水晶島、塩津島、多楽島など小さな島の総称。その先に、色丹島があります。
根室と網走の境に突き出しているのが知床岬。歌の文句にもある国後島が、二つの岬に抱かれるようにして根室沖に横たわります。

知床半島の付け根からオホーツク海にそって、北海道で一番長い海岸線?が、北端の宗谷岬まで続きますね。
途中に有名な網走がありますが、網走の名が人口に膾炙したのは多分あの映画から。昭和30年代後半から40年代にかけて、高倉健主演で公開された『網走番外地』シリーズ。氷祭りや流氷まつりはあとからだったのでは?なんて、またまた昭和の思い出脱線・・・・・

ところで真面目な話にもどって、稚内だか宗谷で「日本最北端の地点」という標示をみましたが、なんで?そうなるのかいつも気になっていました。これは、公的にどこかが認めているのかどうか。
択捉島のほうが北ではないのか?
観光のためだとしても、外国人の目にも触れるわけだからまずいのではないでしょうか。自ら、北方領土を諦めてるように見えかねません。

択捉島は、北方四島の中でも最大の島です。
昭和16年12月、真珠湾に出撃する山本五十六提督の聨合艦隊の艨艟が秘かに終結した単冠湾はこの島でしたよね。

そして宗谷海峡のすぐ北に、樺太があります。
樺太とロシアの沿海州の間の海峡を発見したのが、間宮林蔵でした。
あの伊能忠敬に学んだ探検家のことと、間宮海峡の名は戦後もしばらくは「小学生でも知っている」類のことでしたが、今はどうなのでしょうか?

その昔、樺太は幕府の直轄地だったことも、今は忘れ去られてしまっているかも知れません。

サハリンは何世紀も前から、ロシアの領土だったと思っている人が多いのではないでしょうか。
一般のロシア人たちも、今ではそう思っている人間が多いのではないか、そんな気がします。
等閑視していると、歴史はとんでもない方向に解釈されてしまいかねませんからね。

次回には、昭和20年の樺太に上陸してみたいと、思います。












昭和20年8月の樺太から、話を始めるとしたら
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2009年04月13日

北方領土

この前の「TVタックルSP」のなかで、北方領土にふれた場面がありました。
大竹まことと一緒に、四島返還に熱心な野党議員の一人が、島を視察?するというので期待しましたが・・・・・
実際に船は出ましたが、遠くに島の姿を望んだだけでオシマイ。
あの海が根室と国後にはさまれた野付水道だったのでしょうか。

スタジオの討論の中で、「千島樺太交換条約の原点にまでもどるべきだ」、と主張した議員がいました。
それがどうも共産党議員らしかったので、驚くと同時にちょっと不思議な気分になりました。
あれは、議員の個人的見解なのか、それとも共産党の意見なのか。
共産主義は、ソ連がいわば本家本元で、日本共産党もその結びつきが切れていない?
彼らのロイヤリティーはロシアにあるのでしょうから、ロシアに物申すことなどありえないはず?
それとも共産党に対する認識を、改めないといけないか?

世界恐慌ともいえる経済不況で、若者の間で小林多喜二の「蟹工船」ブームが起こって、共産党入党が増えていると聞いています。


その蟹工船の時代、あの北の海は日本だけの漁場に等しかった。
その日本の蟹工船やその他の漁船群は、帝国海軍の駆逐艦に守られて安全に操業していたのですね。
今、ウニやカニ、数の子など、殆どすべて「ロシア産」を食べさせられているわれわれ日本人を思うと、隔世の感があります。


日本政府は、今年も「北方領土の日」の前後だけほんの申し訳程度に、政府広報のスポットCMを流しました。
本来ならば、もっと継続的に国民の啓蒙をすべきだと思いますが、どうもその気配はないようです。
もしかしたら、政府や外務省は国民にそっと忘れていて欲しいのではないか?、そんな見方もあるそうです。
面倒なことは、先送りしてそっとしておくほうが無難だとでも?

そして、ずっとそれが続いたために、国民の大半が北方領土がなんなのかまるで知らない状態だというのですが・・・・・・

すべては忘れ去られて、うやむやに消えて行く。

何年か前に、ロシア側が、「日本国民はなんにも言っていないじゃないか」、と云っていると聞きました。
裏を返せば国民の声の高まりというものが、相手国にとっても一番強いメッセージになるのでしょうか。

TVタックルの影響でしょうか、翌朝みのもんたが、嘆かわしいバカな発言をしたことがニュースで流れました。


それやこれやで、昭和史を呟くものとしても、昭和20年8月の樺太・千島でなにがあったのかを、少し克明に追ってみたくなりました。
何度か、書こうとしてやめたものを、今度こそ。
















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2009年04月12日

日々の移ろい



日々の移ろいの速さに、今更ながら驚き、呆然となす術もなく立ちすくんでただ消光している自分が情けない。


前回、横浜大空襲に触れたときに、幼年期に覚えたままに戦闘機をカーチスと書いてしまいましたが、P51はグラマンでした。
たしか若い番号のPはカーチスでしたので、ついそのまま・・・・
あの頃には、「豚鼻の」グラマンに代わっていたのでしたか。

ちなみに厚木海軍飛行場には、陸軍の第十飛行師団麾下の二式陸攻「屠龍」「鍾●」もいたんですね。
それが陸軍高射第一師団と連携して、防空に死力を尽くしていたわけですね。空中戦の最中に、味方に当たらないように、高射砲で打つわけですから大変ですよね。
第一師団は、京浜地区中心に本州東部担当でしたから、横浜にいたのは連隊長樋口忠治中佐指揮する第117連隊だったそうです。

日本の陸海軍の航空機につけられた、「隼」とか「飛燕」だとかいう呼び名は、報道用の愛称だったのですね。型式番号で呼んで通じるのは、関係者だけというわけ。
ところで、●は九に首です。「しょうき」ですが、昔は五月人形にも鍾き様を飾ったのでは?
我が家の床の間にも、もじゃもじゃに髯を生やして、冠をかぶって剣を佩いた、大きなショウキ様が強そうに睨んでましたが。
余談ですが、人形の長い剣が実際に抜くことが出来て、ちゃんともろ刃の形をしてるので、こっそり抜いて遊んだものでした。
それほどに子供にも親しまれ、子供を守ってくれる強い大将軍だからこそ、陸軍戦闘機の愛称にもされたのでしょうね。
それなのに、なぜ漢字変換ができないのか?と、変な気がします。
でも、今ショウキ様を知ってる人は殆どいないなどといわれると、なんにもいえなくなります。

焼夷弾を調べようとしたら、あの時代のといっても高々60年余り前のことに過ぎないのに、実際のディテールになるとすでに時代考証が困難になっていることに気づかされました。
日々の移ろいの速さは、まさにその速さでさまざまのものを消し去っているのかもしれません。

時代の様相が、塗り替えられて伝えられても、もはや仕方がないのでしょうか?
年上の方たちに、もっと沢山聞いておけばよかった。いくつになっても、そう思います・・・・・・


一昨日、両陛下のご成婚記念の報道が少しだけ流れました。
報道関係者の無知から来る、あるいは意図的な?言葉遣いの杜撰さに、憮然とすることもありました。
昭和20年のあの頃、今上陛下は皇太子殿下として、学習院のご学友たちと日光に疎開して、ふだんの授業を受けておられました。
終戦の後で東京にもどられても、ご両親である天皇・皇后両陛下とお会いになれたのはずっと後のことでした。
確か赤坂離宮に入られても、そこから皇居に行くことは許されずに、長くさびしい思いをされたはずです。
そのことを知っているだけに、ご一家でそろって過ごされる道を択ばれての喜びの深さを、さぞかしとひとしおに感じました。

あのご成婚があった年が、昭和34年・・・・・・
今の人々が、昭和を懐かしむ糸口にしている?あの「続・三丁目の夕日」の年なのです。
映画のなかの昭和とは、だいぶ違う昭和が報道写真に映っていましたね。三丁目のような下町は確かにあったでしょうけど、目抜き通りはすっかりスマートな姿だったといったのはその意味だったのです。
ちなみに私はあの日、大学は休みだったかそれとも抜け出したのか忘れましたが、行列の人ごみは避けて、親戚の家でテレビで視ていました。

ところで麻生首相は年齢からすると、あの年学習院大学に入っているはずですが、経歴の卒業年度はだいぶ後のようですから違うのかな?


あれやこれや、日々の移ろいはとどめ様もなく、まさに光陰は矢の如くに飛び去りますね。
今日もまたかくて終わんぬ、やんぬるかな。












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2009年04月07日

焼夷弾が違っていたのか?

一年半も休筆したものを、また続けてよいものかどうか、ひたすら迷っていました。
ただなぜか、不思議なことにアクセスがゼロになる日はないみたいで、削除されずに残っておりました。
もともとが、年寄りの独り言のようなもの。聞いてくださる方が一人でもあれば、それだけ十分じゃないのか。
そう思い直して、また少しづつ続けてみようかと思っています。
どうかよろしく、お願いいたします。


昨年の三月、TBSだったかのドラマで、東京大空襲を扱ったものがありました。
テレビドラマが、歴史をどこまで再現できるものかは知りませんが、昭和20年(1945年)3月10日に、朝日新聞が「帝都暴爆」と報じた、あれだけの事が起こったのだと知らせる効果はあったはずです。

あの夜空のことは、遠く横濱の街に住む幼年の目にも胸の痛むような記憶として焼きついています。
隣近所の大人たちが皆、家の外に出て東の空を見上げながら、息をのむようにして佇んでいました。
遠い空が赤々と燃えて、一面に茜色に拡がる光景・・・・・
「東京が燃えている」
誰かの呟きに、さざめくような気配があっても、誰も声を発しませんでした。
大人に混じって、子供もいたのですがみんな無言。


ところで、あの空襲の主役?ともいうべき焼夷弾が、ぱらぱらと降ってくるさまをテレビで視た時に、「なんだこれは?」と叫びそうになるほど驚いたことを覚えています。

焼夷弾はあんなに小さくはないし、空中でばらばら散らばったりしなかったぞ。
今のテレビ局の連中が、昭和を再現するとすぐこんなことになるのか、と。

ところが、今年の3月に某紙でどこかの大学教授が東京大空襲について書いている記事に、「M96油脂焼夷弾」というものがやや詳しく説明されていました。
それによると、ゼリー状のガソリンを入れた野球のバット半分ほどの小さな筒を鉄バンドで束ねたものを投下して、それを空中でばら撒いたのだとか。

そうだったのか?
だとすると、昭和20年5月29日の横濱大空襲とは、爆弾の種類がまったく違っていたことになります。

でも、なぜ今までその違いについてだれも言わなかったのだろう。
あるいは、寡聞にして知らなかっただけなのか?


横浜大空襲は、東京とは違って五月晴れの真昼間でした。
もしかすると、この頃になると日本の防空力がますます弱ってきたことが分かっているので、舐めてかかって白昼堂々だったのかもしれません。
上空から、B29が黒い物体を次々に投下しているのを、崖に掘られた防空壕の前で覗いて、たしなめられたのを覚えています。
空襲警報中に子供が外に出ては、カーチスの機銃掃射や、空中戦の金属の裂片がいつ落ちてくるか分からないので危険なのです。
あの破片をなんと呼んだのかもう忘れましたが、大人が見せてくれたそれは、指ほどの大きさのものでもぎざぎざな上に剃刀の刃のように鋭かったり、兇々しいものでした。子供に当たれば、まず即死だといわれました。

横浜大空襲のことは、ちょっと置いておいて、焼夷弾というものの記憶をたぐります。

横浜に落とされた油脂焼夷弾は、とにかく大きくて重そうでした。
そして、焼夷弾は不発がとても多いといわれていました。
そのせいか、大人たちの間では、焼夷弾はそれほど恐くないというものもいたようです。

瞬間に爆発する本物の爆弾は恐いけれども、延焼目的の焼夷弾は直撃さえ受けなければ、命は助かるということだったでしょうか。

なにしろ大きくて重いものですから、日本建築の木造二階建てだと瓦屋根を突き破って床下にまで届くといわれてました。
近所でも軒屋根を抜かれて、土間に大きなすり鉢状の穴が開いたけど、不発で助かった者もありました。
初期消火がうまくいって、小火ですんだなどという話も・・・・

いつだったか、そんな不発弾の一発が、住宅街の道の真ん中に置かれていました。
誰かが運んだらしいのですが、大人でも一人では運べそうもないほど重そうな、太くて大きな褐色の筒状の物体。その先のほうから、なにかどろっとした液状の油のようなものがはみ出していました。
燃料にするとよく燃えるんだ、とかだれかがいっているのが聞こえました。
周りの者はみな、今にも爆発するのではないかと心配顔に、でも恐いもの見たさに遠巻きにして。

あの時、にやっと笑って油を抜いていた男の人は、爆発物のこと分かっていたのかどうか。
今考えても、ちょっとぞっとします。みんな数メートルの近さにいたわけでしたから。
自分がなぜそこに居合わせたのかも、今となっては遠い記憶です。
いつも友だちと遊んでいる道ですから、たまたまそれを見たのかも。

それで、とにかく私の知っている米軍の焼夷弾は、太くて長い代物でした。バットより長くて、何本分も太くて、重そうでした。
あれが多分、50キロ油脂焼夷弾だったわけですね。

あの中に、何十キロものゼリー状のガソリンが詰まっていたわけですか。
そして、わずか68分の攻撃で、ミナト横浜の市街地の34%を一面の焼け野が原にしてしまった。
投下焼夷弾量は、東京の1.28倍、43万8576発だった。
このことは、今回はじめて知りました。死者の数も東京がはるかに多かったから、空襲の規模もはるかにひどいものだったのだろうと、漠然とそう思っていたのかも知れません。
あの「空の要塞」と、今思えば諦め半分?そう呼んでいたB29も倍近い517機も来たんですね。P51が101機。
P51は、たしかカーチスという戦闘機で、キィィーンという独特の音がしたことを思い出します。
その音が聞こえたら、すぐに物陰に逃げ込めと大人たちから教えられていました。警報など関係なしに一機だけが飛来して、機銃掃射をしかけてくることが、時々ありましたからね。

ところで、あの日の日本軍も、必死の戦いをしていたのですね。
いま厚木基地と呼ばれる場所に海軍航空隊がありましたが、そこから零戦や雷電、第十飛行師団の屠龍などが迎撃していたのだそうです。
あの時、防空壕の前の土塁の上に立った男が、まっすぐ頭の上を振り仰ぎながら、叫んでいたのを思い出します。
「あつッ、やってるやってる。・・・・がんばれえー・・・・あっつ、やられたァァ・・・」
空を見上げたいけど、小さな子供は出してもらえません。それよりも、撃墜された飛行兵のことを思って、なんともいえない悲壮な気持ちでうつむいていたのを、昨日のことのように思い出します。
あの日ぽんぽんと聞こえた高射砲の陣地は、久保山だったのでしたか。
それであのあたり一帯、丘の上まで猛爆を受けたわけですか。
でもこれらの航空隊と高射第一師団の奮戦で、B29を7機撃墜し、そのほか175機に損害を与えたとか。
語られることもなく、名もなく歴史の中に消えていったこういう方たちも、本土を守ろうと死力を尽くして懸命に一矢を報いようとしたのでしょうね。



ほんの何百メートルかの差で、焼け残った町に住んでいただけでした。同じ町内で、一丁目、二丁目が焼けてなくなり、三丁目が焼け残った。そんなところがあちこちにあった時代でした。
ゆくりなくも横浜大空襲の記事を読んでいたら、いまだに溢れるものが止まらなくなりました。
来月には、64回目の5月29日がやってきます。















posted by shuuin at 19:44| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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