2007年02月27日

怪傑黒頭巾と宮本武蔵

初耳だったが、今日は「新撰組の日」だそうだ。
150年たっても沖田総司たちの名が、若者の口にのぼるのはほほえましかった。
まあ歴史をひも解いてゆけば、おそらくは毎日が何かの日にあたるかもしれない、などとふと思った。

で、いまから71年前に過ぎない昭和16年2月26日、大雪の帝都で陸軍青年将校による叛乱がおこった・・・

「暗い」といわれた世相は本当は?
で、1月の出来事だけみて昨日は暮れてしまったのだが、さしずめあの時の東京なら、今日は戒厳令下で赤坂山王ホテルに篭った反乱軍との対峙が続いている最中である。
海軍はすでに横須賀の水雷戦隊の陸戦隊を、芝浦に上陸させていたが、土佐沖にいた聨合艦隊の第一艦隊を東京、第二艦隊を大阪に向かわせた。
そして27日1600、第一艦隊は東京湾で艦を横に並べて、全砲門を市街に向けた。
戒厳令が下されたら、当然の処置とはいえ赤坂方向といえば宮城も近いし、戦艦や重巡の艦砲が発射されてたら・・・
なんてまるで状況は違うけど、映画「亡国のイージス」を連想したのは不謹慎ですかね。襲われた中の岡田首相、齊藤内大臣、鈴木侍従長が海軍の出ですから、憤慨しきりだったかも知れない。


高垣眸の「怪傑黒頭巾」が雑誌「少年倶楽部」に、吉川英治の「宮本武蔵」が朝日新聞にそれぞれ連載が始まったのが前の年で、世間の人気がたかまっていた時代でもある。尾崎士郎の「人生劇場」が喝采をされて、内田吐夢監督で映画化され封切られたのが2月13日だった。
流行った歌や、映画を見ても時代はまだ十分元気だったようである。

一言で「暗い時代」でかたずけるには惜しいほどの、豊穣な過去があったのですが・・・


ラベル:黒頭巾 人生劇場
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2007年02月26日

ヒドクサムイヒ226

このところ寒のもどりで、寒い日が続く。

毎年2月26日になると、真っ先に頭に浮かぶのは「二二六事件」という言葉なのだ。そして雪・・・
まだ生まれる前の出来事でも、やはり昭和前期の子供だからかもしれない。
日本史の年号では、このタイトルのように口にして覚えた。
こうして記憶した年号は多分、死ぬまで忘れないだろうなと思う。

この日記ともつかない独り言だが、自分では『昭和史の天皇』というすぐれたノンフィクションの読書日記のつもりで書いている。実は、現代日本人が誇りと自信を取り戻すために、読んでおくべき書物の一つだと思うからだ。
これからの未来を担う若い人には特に読んでもらいたい。
この国がどうなってゆくのか、憂えているすべての人に読ませてあげたい。
第一、読んだことによって今の世界が、国際情勢がすっきり見えてくる。なにがどうなって、こうなってるのか、まるで謎を解くように判然とする。そういうことだったのか、とついひとりうなずいてしまうことうけあいだ。
多分発見の連続になるだろう。
実は、首相や閣僚いや政治家や財界人、世代を問わず読んでみるべきだ、とさえ思う。目からうろこを落してあげたい・・・

で、『昭和史の天皇』では太平洋戦争の時代が語られるから2・26は出てこない。それで今日は別のことについて。

昭和前期のこの時代を、「暗い時代」というキーワードでくるんで終わりにするのが現今の歴史観らしい。
そこで、昭和11年(1936)の1月、2月の出来事をちょっと並べてみる。

1月4日(土)年賀電報300万通で前年比倍増。
  5日(日)北海道、社台牧場が購入した英競走馬ステーツマン号が横浜に到着。
  8日(水)東京の円タクは12年で10倍増。
 12日(日)同志社大学隊、厳冬期の樺太国境踏破に成功。
 13日(月)日劇ダンシングチーム、初公演。
 14日(火)北海道三井砂川炭鉱で爆発事故、24人死傷。
 15日(水)日本、ロンドン海軍軍縮会議脱退を通告。
       プロ野球名古屋軍結成(以降2月15日の金鯱軍まで続いて7球団に)
 16日(木)松竹、蒲田撮影所閉鎖、大船撮影所を開所。
 17日(金)昨年の奈良大仏殿入場者113万人余。
 18日(土)千葉の東京湾岸が20キロにわたり氷結。
 19日(日)国際学生スキージャンプで日本4位までを独占。
 20日(月)警視庁消防部、救急自動車と119番通報の業務開始。
 22日(水)豪雪で北陸本線潟尾トンネルで雪崩、除雪作業の80人が生き埋めに。
 23日(木)東京市で流感の死者続出、196人に。
 25日(土)横山隆一「江戸っ子健ちゃん」、朝日新聞連載。
      (9月に「養子のフクちゃん」に改題)
 27日(月)日比谷公会堂でシャリアピン独唱会。
 28日(火)仙山線で雪崩のため列車転落、死傷60余人。
 29日(水)フランソワーズ・ロゼー主演「ミモザ館」封切。
 30日(木)東洋紡など紡績資本が続々華北進出と。
 31日(金)東京五輪会場、神宮外苑に正式決定。

いやー時代が見えますねぇ。それにしても、寒い冬だったんですね。東京湾が一部凍ったとか・・・。人気漫画フクちゃん養子だったんだ。
東京市の時代は、警視庁消防部だったんですか。119は戦前からあったんですね。








ラベル:226 国際情勢
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2007年02月25日

「じじいはじじい、俺は俺」

いわゆる栗田艦隊(正式には第二艦隊)が、乾坤一擲の出撃をしてまもなしに、重巡2隻を沈められ1隻を無力にされたのはなにか象徴的な気がしないでもない。

しかしこれはすでに歴史の答えを知ってる、後世のわれわれが感じることなのかもしれない。

沈没した愛宕と摩耶、それに高雄と鳥海の四艦は兄弟艦だった。
正式には一等巡洋艦高雄型とよばていた。
あの五列縦隊の左2列目を、愛宕・高雄・鳥海は一列になって進んでたわけである。
ちなみに摩耶は、右2列目を重巡妙高、羽黒に続いていたから、鳥海の右4キロを並走していた。
摩耶の後ろに、戦艦大和、武蔵がいたのである。

愛宕が雷撃されて艦隊は一斉に回頭する。敵潜のほうに船首を向けることで、後続する魚雷をかわす確率が高くなる。
だが、たまたま運悪く摩耶が別の潜水艦の射線に入ってしまったのだ。
当たりどころ悪く、火薬庫が爆発してあっという間に轟沈してしまった。

この時より、4ヶ月前のあのマリアナ沖海空戦で損傷した麻耶は横須賀にドック入りしていた。
そのとき東郷良一中尉が颯爽と乗艦してきたそうである。
東郷平八郎の孫にあたるが、海兵時代から武勇伝、神話にことかかない快男児であったらしい。あれは悪一といわれたとか・・・
甲板士官として下士官・兵に絶大の人気があったそうだ。
そして彼もまた摩耶とともに死んだ一人になった。
その彼の口癖が、ブログのタイトルである。

その摩耶の生き残りたちを、武蔵が救っていたのだが・・・
ラベル:大和
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2007年02月24日

愛宕と摩耶が・・・

駆逐艦は正式には軍艦ではなくて、艦艇と総称される場合の「艇」に分類されます。

大日本帝国海軍の時代には、「軍艦」の艦首には菊の御紋章が輝いてましたが、駆逐艦には付いていなかった理由もここにあります。

こんな余計なことに触れたのは、『昭和史の天皇』の中で次のようなくだりに出会ったからです。

 >駆逐艦以上の軍艦だけで、アメリカ側は167隻、これに対 して日本側は栗田、小 沢、志摩、西村艦隊を合わせても63 隻、三分の一の数だった。だから、・・・

この『昭和史の天皇』は、戦記ではなくて昭和の戦中の出来事をあらゆるジャンルにわたって、そこに生きて携わった人々の様々な証言から紡ぎだしていこうとした本のようです。

ですからここでも、「米側のレイテ戦史」も書かれています。

十二巻目まで読み進んで、初めてであった小さな誤り?
でも一般の読者には、駆逐艦は軍艦でしょうからこれでいいのかも・・・。
で、ひとつ気になることが、アメリカではどうなのだろう?何かカテゴリーあるのか?とか。
駆逐艦はもとより潜水艦の天敵ですから、デストロイヤー(破壊者)と呼ばれてますが、ほかにtorpedo-boat の呼称も。訳すと魚雷艇ですか、やっぱり「艇」なのかも。

だいぶ横道にそれましたが、ブルネイ出撃からのくだりは第二艦隊(いわゆる栗田艦隊)参謀長小柳富次少将の証言ですからかなり詳細です。精度も高そうですしある種の臨場感も感じられます。
ちなみに、わたしはそこの記述から、五列十七隻の略図が描けました。

六キロ後方から、戦艦金剛以下の第二群がやはり五列で続きます。
警戒序列ですからジグザグ運動をしながら進みます。巨大な戦艦や重巡が旗旒信号で、一糸乱れず一斉に回頭するのですから、もしそれを空から眺めたら壮観だったでしょうね。
もしかして運命の神様はそれを眺めていたのか?などとあらぬ想像を・・・

夜になってパラワン水道に入って、ジグザグ運動中止。それとともに、旗艦愛宕が敵潜水艦の無電を傍受し始めます。はやくも発見されたと判断せざるをえない。
0520、全部隊に警告を発信。
「作戦緊急電発信中の敵潜水艦の感度きわめて大なり」
0530、速力をあげてジグザグ運動再開します。

そのとき突然、愛宕の右舷に大衝撃があり被雷します。
瞬間、艦長が「面舵いっぱい」とさけびます。

艦船の舵は、車のハンドルとは違って効くまでに少しタイムラグがありますね。
愛宕が右を向くまえに、ドシン、ドシン、ドシンと三回震動があって、旗艦はフワーッと止まってしまったそうです。魚雷を4発一度にくらったのですが、時に0630。
23分後、重巡愛宕は海中に消えます。

愛宕のすぐ後ろの高雄もほぼ同時に、2発くらって停止。
0652、摩耶被雷、火薬庫爆発して轟沈、0656・・・

このときの2隻の敵潜水艦が、実はレイテ海戦の運命を決めてしまったともいえるのですが、それは戦後になって初めてわかったことでした。

そして、わずか4分で海の藻屑と消えた悲運の重巡摩耶。
その摩耶と、日本海海戦の東郷平八郎元帥をつなぐ運命の糸があったのですが、ごぞんじですか?








ラベル:東郷平八郎
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2007年02月23日

シブヤン海を・・・

戦艦武蔵が沈んだシブヤン海を、いまはグーグル・マップで航空写真で見られるんですねえ。

何か不思議な感覚にとらわれます。
レイテ海戦(比島沖海戦)の行われたフィリピンの海が、そこに浮かぶ多くの島々とともに、俯瞰できるのですから・・・

この複雑な多島海を、抜けて進んだのか、と。

武蔵艦長の遺書のことで、感銘を受けたのでそれを書いておきたかったのですが、いきなり武蔵沈没よりも、そこに至るまでの艦隊の行動もとどめておきたくなりました。

昭和19年10月22日、0800にブルネイを出撃。
(海軍はどこでも24時で標時します。午前午後昼夜がいらない分、なれると便利)
晴れ、海上静穏。
本隊の隊伍は、5列2軍の対潜水艦警戒航行序列とし、速力18ノットで一路北上する。

対潜警戒というとすぐ輪形陣を想像しますが、実際には海峡の幅とか深さで変えるわけですね。
それにしても、5列だったとは知りませんでした。

この前方の一群十七艦のうちに、大和も長門もそして武蔵も入っていたのです。
栗田健男司令長官の旗艦愛宕は二列目の先頭です。


ところで、海軍では駆逐艦は軍艦ではなかったのですが知ってますか?
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2007年02月20日

桶狭間の戦いとレイテ

戦艦武蔵といえば、あの戦艦大和の姉妹艦である。
いまでも、多くの日本人の記憶にある名だと思うのだが、もはやそうではないかも知れない気もする。

かって聯合艦隊の旗艦も勤め、あの山本五十六の遺骨を祖国に運んだのもこのフネであった。

帆船時代をふくめて、世界海戦史上空前といわれるレイテ戦で、シブヤン海に沈んだ。
昭和前期の歴史を語るとすれば、いやおうなくレイテ戦にも武蔵にも触れなければならない気がする。

戦記物が嫌いとか、戦争の話は聞きたくないという言葉をよく耳にする。私自身現代史は傷口がいえてないようで、そっと避けてきた。でも、桶狭間の戦いや関が原の戦いぬきで戦国時代が語れないように、太平洋戦争を無視して昭和を語れないはずだ。

そして昭和前期、つまり終戦以前を知らずに日本も日本人も語れないのも自明の理だ。

阿修羅のような戦いをして、武蔵は力尽きる。延々九時間戦ったのだ。海水に漬かりながらなお、「行き足」をとめない武蔵という無機質の鉄のフネそのものの末期に、涙が止まらなかった覚えがある。艦にも命があるような、気がしたのかもしれない。

少しこの武蔵のことを、書いてみたいのである。
ラベル:武蔵 レイテ戦
posted by shuuin at 18:24| ☔| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月16日

自己犠牲ということ

人命救助のために、殉職された「交番のお巡りさん」がいらした。多くの日本人の祈りも虚しく、訃報が伝えられた。

誠実な人柄のにじむ顔をみて、思わず涙がこみ上げてしまった。
「人生はまさに不条理の一語につきる」のか。
天も時に非情である。
人知れずご冥福を祈るほかない。

中学時代の恩師が、口癖にいってた言葉を思い出した。
「人その友のために命を捨てる。これ以上大いなる愛は無し」

先生は口癖だから、なにかの合いの手かそれこそ呪文のように連発された(と、わたしは記憶してる)。
子供心にあれこれ真剣に考えたものだった。

子供たちになにを教えようとされたのか、その真意をうかがおうにも、恩師もすでに鬼籍に入られた。
年月もまた非情である。
またそれが有名な言葉であることを、だいぶ後になって知った。
出典がわかったのだが、ちょっと失念してでてこない。
時間というものは、人の脳にも非情である。

自己犠牲という言葉とともに、すぐに脳裡に浮かぶことがもう一つある。
さきの太平洋戦争のときの、マリアナ沖海戦でのできごとである。
母艦から発進した攻撃機のしんがりの一機が、突然反転してまっすぐ海に突っ込んだ。艦橋はもとより見送ってる全将兵が何事が起こったかと喫驚した。
そして次の瞬間、自分たちの艦が潜水艦から魚雷攻撃を受けていることがわかった。味方の一機がなにをしたかを悟ったのだ。

一番最後に飛び立った操縦士は、上空から自分の艦にむかう雷跡を見つけてしまったのだ。無電を打っても間に合わない、その刹那にみずから魚雷に向かって突っ込んだのだ。

もっと若いときに、果たして自分がその立場だったらとっさの瞬間に躊躇なくそれができるか?と自問したことがあった。
「自己犠牲」の言葉とともに、必ず思い浮かべるエピソードである。


ラベル:自己犠牲
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2007年02月09日

歴史の必然

「戦争は歴史の必然だったかも」という考えがよぎった。

朝、洗顔していて脈絡もなしに頭に浮かんだ。
とくに、戦争のことを考えていたわけでもない。
私の脳はときどき思いがけないことをする?

歴史上に起こった出来事は、すべて必然なのかもしれない。
いや、歴史の偶然というのもあるか?

『昭和史の天皇』もやっと十二巻目にはいった。
あの有名な<捷一号作戦>についての巻である。
知らない人でも、レイテ海戦とか栗田艦隊あるいは神風特別攻撃隊のことを耳にしたことはあるはずだ。
それも知らなければ、もはやもぐりかガイジンだろう。
戦艦「大和」が主砲をはなって戦ったのも、この時だ。
僚艦「武蔵」が阿修羅のごとく戦って沈んだ作戦である。

レイテ湾にマッカーサー船団が殺到した翌日、作戦下令。

この捷一号作戦発動の事態に直面して、一番深刻だったのは海軍航空隊であったという。なぜなら直前の台湾沖航空戦で、力及ばずに戦力消耗して基地航空隊を喪っている。その上、戦果誤認いや大誤認とでもいうべきまちがいをおかしてしまった。
大戦果が虚報であったことで、統帥の判断が狂ってしまう。
その「責任感がひしひしと海軍航空隊全将兵の胸をつつんだのである」。

 さきに、この作戦は”特攻的”と書いたが、海軍航空隊が
 さらに一歩進み出て、はっきり”特攻”に踏み切ったのは、
 この果たし得なかった責任感からであった。特攻的という
 のは、まだ九死に一生の期待が残っているが、特攻となれ
 ば、身を十死に投ずるものである。これを指揮するものの
 立場からいえば、”統帥の外道”である。それを上も下も
 問わず、彼らが敢えて断行したのは、この痛切な責任感以
 外のなにものでもないだろう。

これを後世、無謀だのバカだのと非難するのは易い。
ただ、「負いたる責任感」に思いを致してから語るべきではないだろうか。
戦争が悪であるのは、わかりきっている。
ただその一言で切って捨てたら歴史はわからずじまいである。

物事は結果がすべてであるといえるのか?
たとえば、算を乱して無様に逃げ惑って全滅しても、死力を尽くしてなお力およばず全滅しても、全滅という結果は同じである。
はたしてそうか?まったくおなじなのか?

「いかに戦ったか」それが大事ではないのか。
勝負事やスポーツで、勝ち負けだけがすべてなのか?
実はほんとうは戦い方こそが、大切なはずだ。
戦争とスポーツが同じだといっているのではない。
○か×かの例にあげただけだ。


勝った、負けたは外国人にまかせておけばよい。
ただ日本人の末裔ならば、外国人がいう歴史しか知らないであれこれいわれたり、それにこたえ返しているだけでは、あまりに情けなくはないか。

日本人の血を意識するならば、自分たちのルーツのすぐそこにあった歴史をもっともっと知る必要があるのではないか。なにかこの頃しきりにそんな気がする。
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2007年02月07日

『残留孤児』って

残留孤児訴訟とかの判決がでた、という記事を見た。

『残留孤児』と聞くたびに、戦後はまだ終わってないの感を深くする。
ちなみに裁判のほうは、すでに日本に永住帰国してる人たちのことだ。

これとは別に、ちょっと前に中国残留孤児が一時帰国していた。
小さなニュースで、話題にもならなかった。
歳月の流れは、時に人の心も癒すが、ある意味では非情である。
関係者が高齢化し、故人もふえていることだろう。
肉親が判明したとも聞かなかった。

この孤児たちに、ぜひ読ませてあげたい本があった。
孤児たちの両親たちが、どのような状況でどんな心情で幼い愛児たちを捨てなければならなかったのか。
本当のことを、知らせてあげたかったのだ。

どこかに投書しようと真剣に考えた。しかし、
孤児たちの年齢を見たとき、それが不可能なことを悟った。
かれらは日本語を読むことができないからだ。
つくづく年月は無情である。

『昭和史の天皇』のなかに、〈開拓団の人々〉という章がある。(この本は章だてをしてないが、一般書における章名だけがある)
そこに、終戦で瞬時に流亡の民になってしまった在留邦人たちの生々しい記録が残っている。
祖国日本に誰かが伝えなければと、必死で逃げのびた人たちの証言である。

着の身着のままの日本人の、衣服や食べ物まで略奪しようとまるでハイエナの群れのように襲ってくる支那人たち(今の中国人のこと、当時Chinaの日本語訳はシナ)。
不謹慎なことだが、女子供連れの幌馬車隊をインディアンの大群が囲む場面を連想してしまった。

その極限状況の中で多くの親たちが、次々に子供を殺してゆく。
不憫だけれど、無惨な目にあわせるよりいっそ自分の手で・・・
小説や映画ではない、ノンフィクションのもつ真実の迫力に不覚にも涙がとまらなかった。

でも、不思議と当時の日本人は誰一人、祖国を恨んだりしてないですね。それは軍国教育とかそんなものとは一切かかわりのない日本人の血ですかね。
日本人であるというDNAかな〜
誰もが富士山を愛するような無償の愛で、国を愛したんですね。
母国とはよく言ったものです。
運命共同体の母親に「償いをしろ」なんてまず普通の人間は言わない。他の国は知らないが、少なくとも日本人はね。

裁判の結果に、不当判決と叫んでる「帰国残留孤児」に衝撃を受けたのは、それが全部中国語だったからだ。

中国語でしゃべり中国語で考える。もしかして考え方も生き方ももはや中国人というべきなのか?

氏より育ち、昔の人がよく言った諺が頭をかすめた。




ラベル:残留孤児
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2007年02月05日

北方領土

この何日か、テレビコマーシャルで北方領土を扱ったものが映る。

メディアの話題になるインパクトはないが、スポットCMとしては上質である。静かで上品だ。

ただし、やっと今頃かという感じがしたけれども、それでもこうして多少でも国民の関心を高めることができれば、と思ったりもした。
こういう働きかけは、根気よく持続しなければ意味がない。

ところで北方領土がなにか、知らない日本人がますます増えている。
そして知らないから無関心である。
国民の無関心なことは後回しにするのも、役人や政治家の習性だから知っていたとしてもそのままにする。金や票にならないことに精力を傾けたくないのは、人情なのかもしれない。

今年になってから、北方海域で漁船の拿捕が続いている。
そのことにしても、マスコミの報道のしかたはじめ、国民の関心にいたっては、一片の浮気報道の類の芸能ニュースに及ばない。

深く北方領土にかかわる問題であるのに「国民の声」はあがらない。
ひそかに喜んでいるのは、ロシア当局だけだろう。
日本国民は何も言ってないではないか!と。

多くの日本人は、ロシアと日本の関係に無知である。
ナブラチロワとプーチンは知っているけどそれだけ?

「昭和史の天皇」の第六巻に、「樺太」という項がある。
昭和二十年八月十五日の終戦の詔勅で武装解除した樺太に、ソ連軍が攻め込んできた。
いわば戦後というべき日々に軍人や住民が殺された史実が、生き残った人々によって語られている。

こんな歴史があったのか。目を見開かされる思いで読んだ。
なお「北方領土」という項は第七巻にある。



ラベル:北方領土
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