2007年03月31日

過去の歴史


救助された「武蔵」の乗員はどうなったか?

駆逐艦「濱風」「清霜」によって25日13:53に、コロンに入港。

マニラ湾外に、傷ついて自力で引き返した重巡「妙高」がたまたま泊まっているの見つけて、被服などをすこし貰ったとか・・・

重油の海で泳いだら、脱ぎ捨てるしかないですよね。
「濱風」の甲板で、裸足で太陽に照らされると熱いので、みんなで日陰の側に移る。小さな駆逐艦でそれをやったら艦が傾いてしまって危険です。とうとう最後には駆逐艦長の厳重注意でやっと収まったとか。
海の男たちの子供みたいな、でも笑えないエピソードですね。

マニラに千数百人が上陸したら、軍機のこともさりながら、宿舎も大変ですね。
で、負傷兵だけマニラ病院に収容して、残りはコレヒドール島にあがれと命令されます。

このことについても、戦後、「武蔵」が沈んだことを隠すためにひどいことをしたなどといわれてます。
当人たちは、別に冷たいあしらいともなんとも思ってなかったようです。

敗戦後の一時期は、手のひら返しに、軍を非難するのが流行りました。
軍に関することは、すべて非難攻撃することが正しいとされてた時期があったのです。

きたない表現ですが、ミソもクソもいっしょにして、とにかく日本軍が悪い。悪いことは全部軍のせいにする、とかね。
真実を知ってる人や、心ある人は口をつぐむしかなかったことも多かった。
そのことが、いまごろになって歴史問題だ、教科書問題だに尾を引いてることも多々あります・・・・・

ちょっと、わき道にそれてしまいましたが、話をもとに戻します。

あの難攻不落のコレヒドール攻略は、『昭和史の天皇』に詳しいですが、陥落させてからはそのまま空っぽだったみたいです。

ですから「武蔵」の生き残りは、加藤副長のもとで加藤部隊として、何もすることがなかったそうです。しばしの休憩?
それで毎日、シブヤン海戦の戦訓を検討しあったのだそうです。
口々にでた敵機来襲の時間やなにかの証言を、加藤大佐がメモしていた、と。


「濱風」の乗組員は乗組員で、26日13:53にコレヒドール島に揚陸するまで、気の休まるときはなかったそうです。
24日の朝から、ずっとだったんでしょうね。


ところで沖縄戦でのことが昨日今日報道されてますね。
沖縄の戦いがどんなものだったか、若い人たちはほとんど知らないでしょうね。
その詳細を知るには、『昭和史の天皇』の沖縄の章を読まれるといいですね。
イデオロギーとか、左右の思想とかに関係のない、ありのままの史実をまず読まれることです。そこから自分で考えればいい。

過去の昭和史を捨ててきたから、いま様々な問題が起きて困惑してるわけです。

そのつどきちっと自信を持って反論したり、説明するだけの知識を持っておかないと、はなしになりませんから。





posted by shuuin at 19:52| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月30日

不条理な死

カミユを引き合いにだすまでもなく、人間の死は不条理なものですね。

必死の戦場では、その不条理さはなおさらであったかもしれない。

運命の岐れめは、誰にもわかりはしないですから。


あの緒戦に潜水艦の奇襲をうけて、一弾も撃つことなく轟沈した悲運の重巡「摩耶」。
当たりどころが悪くて、爆発してあっというまに沈んだのですが、そのわりに救出された生存者も数百人いました。

約300とも400とも記録によって違いますが、4本も被雷して瞬時に沈没した状況下では、かなりの数では?
ちなみに「摩耶」の定員は996名。

前に書いた東郷元帥の孫の東郷中尉は、戦闘部署が中甲板の前部でした。その場所の下で爆発したわけですね。

「『愛宕』雷撃された!」で、「戦闘配置につけッ」がかかったとき、上甲板から駆け下りたといいます。
私室から上甲板に駆け上がる主計長の大尉が、ラッタルですれ違った、と。
「オス!」「オス!」

戦場の男たちの会話に、これ以上のものはないかも・・・
海軍兵学校の挨拶がこれですね。

それ以後東郷中尉の姿を見たものはなかった、とこれは生き残った海兵の後輩が語っています。
戦闘部署が一発目の爆発したところで、即死だったであろう、と。

助かった者が、比較的多かったのは、おそらく戦闘配置で甲板の砲座などにあがっていたからでしょうね。そのまま、海に放り出されたわけ・・・・・

もっとも、機関や機械の担当で下にいた人たちは、犠牲になりました。

秒単位で艦が傾く中でも、「摩耶」艦長大江賢治大佐は「総員退去」を下令しています。
そして、自らは艦と運命をともにしました。

その朝七時ごろ、スクリューをゆっくり空転させながら、真紅の軍艦旗をはためかせながら、「摩耶」は海に消えたそうです。

軍艦旗を下ろすまもない、倉卒のことですね。
フネに命があるのなら、重巡「摩耶」にとっても不条理な死かも。


ともかく、あたりの艦が救助したものは全員、「武蔵」に移されました。
そしてその「武蔵」沈没の前に、「島風」に移乗しましたがその後どうなったか?
このときの移乗者はある書物には607名とあります。「武蔵」の負傷者も含まれているのかもしれません。

とにかく、その後「島風」は艦隊復帰を命じられたから、かれらはそのままレイテ湾口近くまでいって、海戦に参加してるはずですね。

幸い「島風」は、その後「大和」らとともに無事ブルネイに帰投しています。

サマール沖海戦と呼ばれるその戦いでは、味方の救助を果たした駆逐艦までが沈められて、文字どうりもろともに海に消えて生存者なしのフネもありました。

さまざまな運命、死はやはりどこまでも不条理なもの、なのかも知れません。


ところで、ふと見たウイキペディアの「摩耶」の項に、一分で轟沈し、生存者は2名、とありますが、一体どういうことなのですかね。

まあ、辞書といいながらも、いい加減な記述に再三出くわしていますけれど・・・・・








タグ:不条理
posted by shuuin at 18:32| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月29日

被害担任艦

戦艦「武蔵」が被害担当艦であったか?

そのことについて、いくつかこれはと思わせる事実があるので、それについて書いておきたい。

そもそも日本海軍に、そのようなものがあったのかということになると、正式にそんな決まりがあるわけもない。

しかし、駆逐艦が「楯になれ」というようなことは当然あったっし、そもそも艦隊の諸陣形はまわりのもので大将を守るようになっている。


で、「武蔵」の場合だが、やはり特別な理由があったような気がする。

それはやはり、艦体のずばぬけた大きさと関係がある。
つまり、敵の標的にされるのは「大和」、「武蔵」の二艦だけといっても過言ではない。

案の定、敵はその時(最初の空襲)、「武蔵」だけに的をしぼってきた、と。

シブヤン海での栗田艦隊の輪形陣を描いてみるとよくわかる。

時計の長針のえがく円の上に7隻の駆逐艦、短針の円の上に4隻の巡洋艦と二隻の戦艦「武蔵」「長門」。
針の中心の上に「大和」。

中心艦というのは、攻撃するのがむずかしいそうである。

なぜなら、中心艦の頭上に至るまでに、一番外側の駆逐艦とか、二番めの輪の戦艦や重巡と交戦しなければならない。
中心艦より外側にいて、しかも「大和」と同じ勢力をもった「武蔵」を狙うのが理にかなった戦法になる。

で、このことは当然、出撃前からわかっていた。

そこで輪形陣の艦の位置なのだが、「武蔵」は「大和」の右後方で、これはリンガ泊地にいたときから、決まっていたはずである。

しかも艦隊の進む方向からいえば、敵機のやってくる側に占位してたのではないかとさえ思う。
敵は必ず、太陽を背にしてやってくる・・・・

艦隊司令部と「武蔵」艦長は、それを承知していたのではなかったか?

艦長の遺書の最初に、「なんとなく被害担任艦になりえたる感ありて云々」とあるのは、そのことではないだろうか。
これは、偶然そうなれてせめてもの慰めになる、というふうにも取れるが・・・
その任務だけはかろうじて果たせたようだ、という報告のような気がしないでもない。

「濱風」の兵長の手記にこんなことが書かれていた。

捷一号作戦発令の10月17日のリンガ泊地でのことである。

第一遊撃部隊(いわゆる栗田艦隊)の各艦は直ちに出撃準備にとりかかった。
各艦が不急品や可燃物の陸揚げと燃料補給に、あわただしく働いているときのこと。「武蔵」だけが外舷の塗装作業をしてるのが見えたそうである。
「濱風」乗組員たちは、ふしぎに思いながら、何のために今頃あんなことをしているのだろうと話し合った、と。

21日夜までに準備を完了して、ブルネイで夜明けの出撃を待つ各艦は、長い間の猛訓練(のちにリンガ百日の猛訓練と語り草になった)で、艦がよごれてくたびれて見えたそうである。

その中で、「武蔵」一艦だけ新造艦のようにきわだっていたのは、異様であった、という。

猪口艦長が単に、自艦の門出に晴れ着をきせただけなのだろうか?


ここで、旗艦「愛宕」が沈まなければ中心艦は「愛宕」になるわけだが、その場合「大和」は左後ろの「長門」の位置につくはずである。
二艦が並んだとき、「武蔵」が目立つ必要があったのではないかという気がしてならないのだが・・・

さらに、「大和」に将旗二本立てるのは異例というなら、「武蔵」を選ぶほうが普通である。通信設備は「武蔵」も同じなのだからなおさらだ。

どうも栗田司令長官の交代艦は最初から「大和」に決まっていたようである。
したがって、「武蔵」が矢表に立つたわけである。
この兄弟艦の役割は、つとにきまっていた。人間ならさしずめ、弟が兄の使命のために犠牲になるということになる。


ところで、猪口艦長の「武蔵」での勤務の日の浅さを取り上げて、操艦を云々するむきもあるが、それはまったくの的外れという気がする。




 * このブログを読んでくれる方が、いるのだろうかと
   不安になってます。コメントでも書いてくださいま
   せんか?お願いします。












タグ:標的
posted by shuuin at 18:04| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月28日

同期の桜

10月30日、セブ基地。

米軍のレイテ島タクロバン上陸後10日目。
陸では守備隊が奮戦してるときである。

レイテ湾に群がる敵艦船をねらって、つぎつぎに特攻隊が出撃していた。
猪口力平大佐は、その指揮のためマニラから、セブ島の前線基地に来ていたのである。

その日の夕方、6機の戦闘機が到着したのを、ピスト(指揮所)から見ていた。
整列して隊長に申告してる者をみたら、それが大佐の甥であった、と。
つまり彼は、「武蔵」艦長猪口敏平大佐の長男、智中尉である。

懐かしい叔父の姿を見つけて、そばに来て報告したという。

「岩国から今日クラーク(飛行場)に着いたら、すぐにセブに進出しろといわれて、いま着いたところなんです」

海兵72期、卒業して大半が航空隊に、促成修業で半年で少尉任官、この10月に進級して中尉。第二航空艦隊所属の戦闘百六十五飛行隊。

そんな話をしたあとで、
「おやじは、どうなったかな」
と、ぽつりといったそうである。
「そりゃ、艦と運命をともにしたろうよ」
「そうかな」と、やや力を落とした声でいった、と。

そういえば、「武蔵」が沈んだシブヤン海の上を、彼は今日飛んできたはずだ、と叔父はそのとき思ったそうだ。

暗くなったので、宿舎につれて帰ったが、どうせ二人とも長くないいのち・・・
だが、叔父は甥に特攻隊になれともなるなとも、いわなかったそうである。
特攻隊は志願が建前、こんなときにそれに触れるのはよくないと思ったからである。

二人は何も触れていないようだが、この日は兄であり父である猪口艦長の初七日にあたっている。


数日後、タクロバン飛行場に敵機が80機ほど集まっているとの報告が入る。

11月3日未明を期して、百六十五飛行隊の12機出撃決定。

猪口大佐は暗いうちからピストに出ていたが、少し遅れて智中尉がやって来たという。急いで飛行服に着かえると、始動している戦闘機にむかって走った。まもなく、機は暗闇の中を次々に離陸して行く・・・

出発したはずの、分隊下士官が帰ってきて報告した。
「分隊士が、『俺が行くから替われ』といわれましたので、私は残りました」

この分隊士官こそ、智中尉である。
叔父の力平大佐は、このとき初めて、この日の出撃メンバーに智中尉が入ってなかったことを知ったという。

これは映画のシナリオではない。紛れもない歴史のひとこまなのである。

運命のドラマはまだ終わらない。

敵の防御放火の曳光弾があがると、暗ければセブから見えたという。それを見て、奇襲がうまくいったんだなと思ったが・・・

山を越えたとたん、待ち伏せの対空砲火で全滅したと、血まみれで帰った一機の報告で判明する。

「兄の死後、ちょうど十日目、父の死に場所にそう遠くないところで、彼は二十歳の生涯を閉じたことになります」

おやじの弔い合戦だと思っただろうか、などと猪口中尉の胸中を忖度することなどとてもできない。

その出撃の朝、叔父甥は言葉を交わすこともなかったのだろうと思う。私事は半句もなし、であったのだろう。


この猪口智中尉と、あの「摩耶」で死んだ東郷良平中尉が、同じ海兵72期であることに気がついた。


二人は靖国の桜の同じ一枝に、咲いているのかもしれない・・・
ふっと、そんなことを思った。

今年は靖国神社にいって、花を見上げてみようかな。





















タグ:戦闘機
posted by shuuin at 19:18| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月27日

散る桜 残る桜


「武蔵」の猪口敏平艦長が、薄暗い艦橋で遺書を書いていた時、
悪天候で艦隊援護の特攻機を発進させられず切歯扼腕していた人がいた。

その第一航空艦隊先任参謀、猪口力平大佐は猪口艦長の実弟であった。
ルソン島マバラカットの基地は、地図の上ならシブヤン海のすぐそこにある。

余談だが、海兵ではチョコビン、チョコリキの愛称をもらった兄弟だそうである。

無論ともに互いの部署で、最善を尽そうとしていただけだからお互いのことを知る由もなかったであろう。

同じ戦場に親子、兄弟が云々の例も実は枚挙にいとまがないかもしれない。

それでもなお、運命のドラマを見る思いがする。

翌25日になって、「武蔵」の沈没を知ったという。

 
 兄は、ふだんがふだんだから、艦と運命をともにしたな、
 とは思ったけれど、とくになにも感じませんでしたね。
 それよりなによりも、わたしには責任を持たねばならない
 特攻隊の指導があったし、当面の戦況が戦況だし、
 われわれも間もなく死ぬんだと思っていた。
 まあ、兄のほうがひと足先に行っただけだというふうな
 感じ方でした。


「散る桜、残る桜も、散る桜」の心境とはこのことか?

兄弟が最後に会ったのが、シンガポールでの捷一号作戦打ち合わせのとき、甲板上での5分ぐらいの立ち話だったそうである。

遺書の手帳は、後にマニラで見せてもらったという。
そして手帳は、海軍省に渡って、江田島の教育参考館に納められたのだが、戦後に行方がわからなくなった、とか。

終戦の時の、海軍兵学校の校長は栗田健男中将だった。江田島で一体なにがあったのだろうか?
あるいは占領軍が、どうかしたのだろうか?

実は、猪口兄弟の運命のドラマにはまだ続きがあるのである。

昭和19年10月30日のセブ島で・・・・・ 






タグ: 手帳
posted by shuuin at 17:26| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月25日

男の勇気

艦長に託された手帳を、油紙に包んで胸ポケットに納めてから副長加藤大佐は軍艦旗などの始末をさせた。

そして、上甲板の三番砲塔に総員を集めて退艦のことを話す。

 「皆よく頑張ってくれたが、もはや武蔵を救うことはできぬ。
 退艦して、各員自由行動をとれ」


左傾した艦の、右舷から逃れたものが助からなかった、と。
艦側にびっしりついた牡蠣のせいで、滑ったり足を傷つけると泳げないという。
左舷に、跳びこんでも巨艦が転覆したため、渦に巻かれて海中に没したものが多かったと。

転覆して沈没するのはあっという間だったそうである。

見守っていた駆逐艦「濱風」が、あわてて避退するほどの大渦巻きだったと、救助にあったった乗組員が語っている。

「武蔵」は、やはり巨大な戦艦だったのだ。
造船所の船台を滑りおりる進水式で、海水がちょっとした津波をおこして、付近の民家が浸水したという秘話を思い出す。
たぶん予測をこえる出来事だったのだろう。
当時、「武蔵」のことは極秘であるから、話が広まらないように苦心があったのだとか・・・


実は、沈没のまえの19:09に「濱風」は、猪口艦長から、
「至急左舷に横付けせよ」の、命令を受けている。
なんとか、横付けをしようとしたが、海上はすでに闇でしかも「武蔵」の傾斜も加わって、果たせなかった、と。

重油の海にもがく仲間を助けようと、二隻の駆逐艦の奮闘は八時間続いたそうである。

夜になって風波がたかまって、漂流者たちが散らばって余計に困難がくわわっている。(曇天、風向北、風速9〜13メートル)
潜水艦警戒で移動しながらの救助作業。曇り空では星明りすらない。

「濱風」艦長前川萬衛中佐は、果敢にも探照灯照射を決断している。海戦で傷ついた艦を処理するために、敵潜が集結してるはずの海面である。
人命救助のために、自己犠牲をかえりみない男の勇気に、脱帽する。

「濱風」は副長以下准士官以上44名、下士官兵860名を収容。

定員の3倍の人員で、艦内は超満員。居住区を遭難者に明け渡して、砲塔内でゴロ寝したとあとで乗組員が語っている。

「清霜」でも、同じような状態であったろう。

かれらは皆、日本海軍という運命共同体の一人一人であったのだな、とふと思う。

海の藻屑と消えた人たちは、今年も靖国の桜の下で祖国の春を見ているだろうか。












タグ:勇気 靖国
posted by shuuin at 18:48| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月22日

猪口艦長の遺書

その全文を書き留めておきたい誘惑にかられる。

私情にわたるものは、微塵もないのに驚かされる。

 
  十月二十四日
  予期の如く敵機の触接を受く。・・・・
  遂に不徳の為、海軍はもとより全国民に絶大な期待を
  かけられたる本艦を失ふこと誠に申し訳なし。

この言葉につづくのが、

  唯本海戦に於いて他の諸艦に被害殆んどなかりし事は
  誠に嬉しく何となく被害担任艦となり得たる感ありて
  この点幾分慰めとなる。

つまり、敵の襲撃が「武蔵」に集中したことで、艦隊全体の被害が少なかったことを、せめてもの慰めだと・・・

続いて本海戦(米側呼称シブヤン海海戦)の、対空射撃の威力発揮が不十分であったことを、「各艦とも下手の如く感ぜられ自責の念に堪へず」、申し訳なし、と謝っている。
猪口艦長が、海軍きっての砲術の大家として、多くの教え子を育てたことから出た言葉であろう。
教え子たちの拙きは、師である自分の責任である、と。

  どうも乱射がひどすぎるからかえって目標を失する不利
  大である。遠距離よりの射撃並みに追い撃ち射撃が多い。

被害大となると、どうも口やかましくなるが、それも不徳の致すところで慙愧に耐えない、と謝っている。が、これらのことは次にはこのことに注意せよという、砲術の先生としての教訓であろうか。
艦長が遺書を書くときの状況を考えれば、驚嘆に値する。

そして、最初に主方位盤が使用不能になったことは大打撃であったと述べて、
  
  主方位盤はどうも僅かの衝撃にて故障になり易いことは
  今後の建造に注意を要する点なり。

なお、これから先の海軍の建艦への留意点を、書き残しているそのプロフェッショナル魂に敬服するのほかない。
航空魚雷のこと、敵機の戦法など戦訓を簡潔に綴ったあと、

  最後迄頑張り通すつもりなるも今の処駄目らしい。
  一八五五。
  
暗がりで思うように書けないと・・・

  最悪の場合の処置として御真影を奉還すること、軍艦旗
  を卸すこと、乗員を退去せしむること、之は我兵力を維
  持したき為生存者は退艦せしむる事に始めから念願。
  悪い処は全部小官が負ふべきものなることは当然であり、
  誠に相済まず。
  我斃れるも必勝の信念に何等損する処なし。
  我が国は必ず永遠に栄え行くべき国なり。
  皆様が大いに奮闘してください。最後の戦捷をあげられ
  る事を確信す。

そのあと戦死した英霊を慰めてやりたいこと、「武蔵」の損失が大きいことで、味方の士気への影響まで気にかけている。
そして、これまでの恩顧を謝し、私ほど恵まれた者はないと日ごろから感謝に満ち満ちていた、と。

  始めは相当ざわつきたるも、夜に入りて皆静かになり
  仕事もよくはこびだした。
  今機械室より総員志気旺盛を報告し来たれり。一九〇五
  
「武蔵」沈没の三十分前・・・
乗組員たちの様子が髣髴として、胸を衝かれる。


私事は半句もない。

加藤副長の写しを引用した記者がそう書いている。

猪口艦長の遺書の手帳の運命は・・・






タグ:責任
posted by shuuin at 18:10| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月21日

艦長の遺書

沈没の一時間ほど前に、猪口艦長が遺書をしたためるのを、加藤副長は見ていた。

すでに、あたりは薄暗く、手帳にボールペンの走り書きであった、と。

当時、ボールペンはハイカラな筆記具だが、戦前に特務艦の艦長時代に、アメリカに行ったときに買い求めたものだったそうである。

「副長、これを聯合艦隊司令長官に渡してくれ」
そういってその手帳を差し出した。
艦長が、海軍の伝統に従うつもりだ、と察した副長は、
「私としては艦長のお供をさせていただいた方がいいです」


猪口艦長は、副長に生きて乗員のめんどうをみてくれと頼んでいる。戦没者のことも忘れずに考えてやってくれ、と。

「フネと運命をともにするのは、艦長だけでたくさんだ。総員を集めて、退艦を命令せい」


昭和の戦争でも多くの艦長たちが、艦と運命をともにしている。
このことについても、若い人から「陛下の艦」だから責任云々という発言を聞いて、絶句したことがある。

もしそうならば、沈没に際して退艦した艦長はどうなのか?退艦者もかなりいる。
その選択は全く本人の意思であったはずである。

それとはべつに、艦と運命をともにするという行為は、必ずしも日本人だけのものではなかったような記憶がある。

従容として死を選ぶのは武人の本懐である、という滅びの美学が確かに存在した時代である。
同じ死ぬならば、尊厳ある死を望むの人は今でもいるはずだ。

戦国時代の武将たちが、とくに一城の主が「城を枕に討ち死にする」という話は、かって日本人にとってはごく当然のこととして受け入れられていた。
いろいろな書物、雑誌だけではなく、講談や浪曲で耳にして、芝居や映画で目にしていた。

「軍艦の艦長は神である」というのは、帆船時代の英国海軍の言葉だが、一艦の艦長はいわば一城のあるじであった・・・

ふっと、軍艦行進曲の文句がよみがえった。このマーチは世界的にも名曲の一つとか? その一節にこうある。

「浮かべるその城、日の本に・・・」

                       (つづく)










タグ:遺書
posted by shuuin at 17:43| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月19日

不思議な定め

瀕死の「武蔵」の南にシブヤン島がある。
その北岸に乗り上げる指令もきたようである。

が、すでにどうにもならなかった、と。

猪口艦長は、いわば便乗員である「摩耶」乗員だけでも先に移そうと「島風」に横付けを命じている。
いよいよというときは、まず預かっているものたちを先に助けようとする、律儀で古風な日本人気質を感じてしまう。

大半の乗組員が移乗したのだが、一部のものはなお「武蔵」の応急手当を手伝うために残ったという。

この間、17:15に栗田艦隊は再反転して、再びレイテに向かって進むことになる。

「濱風」が「島風」に代えられたのはこの間のことである。
ふたたび、艦隊がUターンをしたのだが・・・

実は「濱風」は、至近弾を受けて少し損傷していたのだ。
それを知った栗田長官が、無傷の「島風」を艦隊に呼び戻したわけである。

暮れなずむフィリピンの海を、艦隊の後方を離れて、「武蔵」の停止する海面に引き返す「濱風」。
戦列にもどるべく、第二水雷戦隊の艦隊先頭に航る「島風」、それぞれの乗員の思いはいかばかりだったか・・・


そこから、「濱風」が僚艦「清霜」とともに「武蔵」の警護に当たることになる。

後に、この駆逐艦は自分の旗艦である戦艦「金剛」の、そして潮岬沖での空母「信濃」の最後を看取り救助することになる。
その「濱風」は、あの沖縄特攻とよばれる天一号作戦に「大和」に従って出撃。「大和」に先駆けて沈んだ。

実は航空母艦「信濃」は、大和型の3番艦を空母に改装したものだった。
つまり、駆逐艦「濱風」は、日本海軍の三つの巨艦すべての最後に直接かかわったフネということになる。
偶然だとしても、なにか不思議な定めのようなものが感じられないだろうか。



posted by shuuin at 15:19| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月18日

男の責任感

敵の最後の空襲での、直撃弾の一発目が防空指揮所に命中、下の第一艦橋で炸裂した。
航海長仮屋実大佐、「摩耶」副長永井貞三中佐ほか戦死。
猪口艦長は背中に負傷し、応急処置で包帯ぐるぐる巻きで第二艦橋に降りた。その第二艦橋も足元はすでにえぐられていた、と。

航海長の代理は通信長と決まっていたそうで、三浦通信長が急いで下から艦橋に・・・が、途中に爆撃で負傷。
血まみれになりながら、艦橋に上がってきた姿を加藤副長が目にしている。
これもまた、戦場における男の責任感なのだろうか。

ところで、「大和」の艦橋にいた小柳参謀長の言葉では、栗田司令長官が15:00にコロン湾泊地への後退を命じた、とある。
とすれば、五次目の空襲を受ける直前である。
コロン湾は「愛宕」「摩耶」が沈没したところに近く、「武蔵」の位置からははるか後方である。もしこれがほんとうなら、まだ動ける限り、「武蔵」が沈むわけないと艦隊司令部も思っていたのではないだろうか?

「島風」「清霜」を護衛につけて・・・
この「島風」については、様々な戦史や戦記で誤記が目立つようだ。実際に、「武蔵」の救出に当たったのは「濱風」と「清霜」だったのである。

大体、戦史戦記で駆逐艦の名前があげられることはまれで、「そのほか駆逐艦○隻」という記述になっているのが多い。
その果たす役割の多さにもかかわらず、まるでスターの付き人扱い?とでもいうか。

「武蔵」のまわりでも、戦場ならではのエピソードがあったようだ。
はじめ、重巡「利根」と駆逐艦「清霜」が護衛につく。
この二艦は、第1部隊の後方を進んでいた鈴木義尾中将の第2部隊、「金剛」中心の13隻の輪形陣からぬかれたのである。

その後、「武蔵」の様子を「大和」艦橋から遠望するかして、第1戦隊司令官宇垣纏中将が、栗田司令長官に進言した、という。「武蔵」の心もとない様子に、さらにもう1隻の駆逐艦の増派を。
それで栗田長官の送ったのが「島風」だった。

実は長いこと、なぜ「島風」を選んだのかが謎で、頭の隅で引っかかっていた。艦隊の先頭を航る高速駆逐艦を、わざわざさいたのはなぜか?

答えはひょんなところでわかった。
実は、15:30に栗田艦隊が反転したのである。
全艦隊左一斉回頭、針路290度(真西より20度北)、引き返すとみせて空襲をさけたとか・・・

二つの輪形陣がそのまま、向きを変えたわけである。それまでの何時間かの間に、艦隊と「武蔵」の間はかなりひらいていた。
しかし、「大和」の艦橋は遠望がきく。
「島風」が送られたのはこのときであった。艦隊の先頭にいて、ほとんど動きの止まった「武蔵」に一番近い駆逐艦・・・

先のコロン湾云々は無電のやり取りだろうが、「島風」のことは記憶違いであろうか?

18:20 栗田長官は、「武蔵」の警戒を「島風」に代えて「濱風」に命じた。
「濱風」の数奇な運命が始まるのだが・・・






タグ:責任感 運命
posted by shuuin at 15:01| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。