2007年03月17日

死力を尽くす

「武蔵」「大和」の艦体が、いわば二重構造のようになっていたことは、あまり知られてないかもしれない。

同じ戦艦でも、大和型とよばれるこの二つの巨艦は、単に大きいだけではなく、ほかにも優れた装置をそなえていた。

それがボタンひとつで作動する注排水装置だった。
いったん水がはいりこんでも、すぐに排水できるしかけである。
フネの前部と後部に注排水指揮所があり、内務長が傾きを監視してすぐに傾きを直す。
「武蔵」のこの優秀な装置が、4,5回目の攻撃によってきかなくなってきた。

復元のための度重なる注水で、艦首部が水面下にもぐり左に傾いてくる。
「後部兵員室右方、人力でホースで注水ッ」と副長は命じた、と。
最後まで死力をつくすのが、海員魂なのかもしれない。
海軍に限らず、海の男たちだけがもつ船乗りのこころ。

この間にも、甲板上では銃爆撃によって、機銃員や弾薬係の半数を失いながら、なお対空砲で抗戦していたのだ。
ちなみに、記録では18機の敵機を撃墜している。

そして、先に救助されてた「摩耶」の乗組員たちが、「武蔵」のいたるところで、欠員を補いながらともに戦っていた。

15:15、空襲、敵約75機が「武蔵」に集中。
      魚雷11本、直撃弾10発、至近弾6発・・・

公刊戦史に、「水柱林立、爆煙、砲煙同艦を包み、まさに阿修羅の断末魔であった」とある。
この最中でも、「武蔵」の対空砲火は激しく応戦して6機撃墜しているのだ。

わずか6機だけかと笑う人もいるかもしれない。
が、ほぼ絶望的状況の中で死力を尽した根性に、敬意を表したくなる。

傷ついた「武蔵」には、ずっと重巡「利根」と駆逐艦「清霜」が護衛として付添っていた。

どんなに苦しんでいても、救助の手をだすわけにはゆかない。
ただ見守るだけだ。いつも護衛にあたる艦の乗組員の心中はいかばかりだろうと思うのだが、忖度するにあまりある。

「総員退艦」で飛び込むか、沈没で投げ出されてからしか救助できないのだから。
そして自らもまた、対潜対空の警戒と戦闘をしなければならないのだから。

公刊戦史の記述は、付添った艦の乗員の見たものだったのかと、ふと思った。








タグ:根性 排水
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2007年03月16日

偶然の一発が・・・

ふたたび「武蔵」が死闘するシブヤン海にもどる。

「武蔵」が、最初に魚雷をくったとき、一発や二発受けたって
「蚊が刺したくらいのものだ」と思っていた、と。

防御指揮をしていた副長、加藤少佐の言葉だが、おそらくほとんどの乗組員もそう思っていたはずである。速力が落ちるわけでもない。

結局、5回にわたる延べ300機の雷撃や爆撃で、左舷に15本、右舷に8本の合計23本の魚雷と、16発の直撃弾を受けてしまう。

一艦の受けた被害として、空前の数だとおもわれるのだが、
「これくらいの被害でも、普通なら『武蔵』は沈みはしなかったろうと思う。負け惜しみではなく、そういう軍艦なんです」

ちなみに防御指揮とは、「右舷○○被雷、浸水・・」の報告に、左舷の対応箇所に「注水して復元を図れ」と指令する重要な役目である。
46サンチ主砲こそが「武蔵」の命なのだが、艦が傾いたらこの主砲が撃てない。だから、即刻艦を水平にしなければならないのだ。

その被害をもっとも知る副長が、致命傷になった偶然の一発がなかったら、「武蔵」は沈まなかったという。

場所は左舷中央、一発目の魚雷で外壁が壊れた。しかし次にパイプがいっぱい通っている層があって、それがこわれることで魚雷の爆発力を吸収してしまう。だから内壁には少しの影響もない。
そういう設計になっていたのだ。

しかし、偶然にもその開いた穴に二発目が入って、スーッと内壁に届いて破壊してしまった。
狙って当たるものではないそうだから、全くの偶然・・・

傷口からは海水が流入するが、それが機械室やカマ室だったらフネは身動きできなくなる。

仮に一発ずつ、「武蔵」の全身に平均に当たったとしたら、
「それこそ満身創痍だとしても沈みはしない、そういう構造のフネでした。巡洋艦なんかなら、一発ぐらいで沈みます」

この副長の言葉で思い当たるのが、米軍側もやはり驚いたらしいということ。
あれだけの命中弾をあたえても、すぐには沈まなかったことを戦訓にして、後の「大和」攻撃の戦法を変えたとかいう。


少しちがうが、「長門」もやはりその不沈艦ぶり?で、ずっと後に米軍の舌を巻かせたことを思いだす。

あ、レイテ海戦でこの「長門」も、「武蔵」の左横で「大和」の左後を守って最後まで栗田艦隊で戦いましたね。






















タグ:不沈艦
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2007年03月07日

閑話休題

レイテ沖海戦を書いていて、だんだん詳しくなってしまうのは、何故なのだろう?
ふと自分でもわからなくなったりします。

この海戦にこだわりだしたのには、ふとした動機がありました。

それは、ある歴史が好きという若者がいった言葉でした。
「あの頃はもう厭戦気分がひろまっていて・・・」
だから、上から言われていやいや戦ってた云々。やる気がないから、負けた。上は上で戦略や作戦が駄目だから負けた。

それを聞いた時には、ショックでした。心無い言葉という以前に、あまりに歴史を知らなすぎる。
死者たちがもし聞いたら、血の涙を流して悔しがるだろう、などと思ったほどです。

神風特攻が始まったのもこのときですが、それについても様々な
忖度がなされています。
死者たちは語れないのですから、後世の人間が様々に憶測し推理し忖度してゆくしか方法はないのですが・・・
それには、前提として淡々とあるがままの歴史を知り、そこで起こった出来事の検証がなければならない、そう思います。

近年、ますますかまびすしくなっている近隣諸国(特定の二、三の国ですが)の昭和の日本に対する非難にしても、肝心の日本人が自国の歴史、その近現代史を良く知らないので、言われっぱなしになってるような気がしてなりません。
向こうが主張する「歴史」とかに、反対か賛成で議論してる類のことがずっと続いている、みたいな。

なんとなく思い込みで、あるいは思い込まされて、謝ったり認めたりしてしまう。これは政治家だけでなく国民みんながそうなってしまっているようです。

世代が交代してるのは各国すべてでしょうが、戦後生まれの指導者たちが政権に就いたとたん、とんでもない史観で発言・要求してくるのは前から感じてます。
要するに知らないのですから、平気で何でもいえるわけです。

日本人全体が、もういちど昭和の歴史と日本人を見直してアイデンティティを見つけないと、日本が滅びてしまうような気さえしてきます。
昭和戦前・戦中の歴史を、後ろめたさで目をつぶるのではなく、きちっとつなげてゆく、それが大事だと思います。
それは右翼とか、戦争賛美とかと全く違う次元のことです。
日本人がなくしてしまったら、誰が日本の歴史をつたえるのですか?

市井の片隅で、無力な自分が憂国の思いにかられているのがなぜなのか、わからなくなりますけれど。

話がそれましたが、最近ネットで『「武蔵」は巨砲を撃った反動で沈んでしまったと聞きましたが云々』というのを目にしました。????
何かの冗談にしても?

当時の日本の建艦技術は、そんなにやわではなかったのですよ。
自信を持ってください、ご自分たちの祖先に。
「武蔵」は不沈艦でした・・・
posted by shuuin at 18:04| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月06日

魚雷が26本、直撃16発が・・・

不沈艦といわれた戦艦「武蔵」を襲うのですが、先に触れた第一波に続いて敵の攻撃機は五波の雷爆撃を繰り返しました。

この第一波襲撃で、「武蔵」の前にいた重巡「妙高」のスクリューが一本やられ速力が出せなくなりました。
艦隊行動がとれないから、単独でブルネイに帰します。
これ以上駆逐艦をさけないから、護衛なしです。
たまたま、「妙高」が第5戦隊旗艦だったので司令官らは「羽黒」に旗艦を代えて移乗します。
敵機の襲撃の合間に、敵潜情報のたびに一斉回頭をしながらですから、戦場の乗組員の働きはわれわれの想像を超えるものがあります。

12:03 第二波、30機。

攻撃は「武蔵」に集中。「武蔵」が死にもの狂いで、左右に回避運動をしながら勇戦奮闘しているのが、「大和」から見えたそうです。時々、巨艦が水柱におおわれて、見えなくなったと・・・

魚雷3本、命中爆弾2発、至近弾多数。艦首が下がって、速力22ノット(約40キロ)で遅れだします。

昭和17年8月15日に軍艦旗を掲げた「武蔵」に、11月から副長として乗艦、最後まで4代の艦長に仕えた加藤憲吉大佐がこの艦の末期を見届けています。

副長は戦闘中は第二艦橋で防御指揮をとるのだそうですが、被害状況を一番わかる立場といえるかもしれません。

かって欧州を親善訪問した日本の軍艦がありましたが、その独特の司令塔・艦橋構造物の美しさに、ヨーロッパの貴婦人たちが魅了されたというはなしがありました。
あの艦橋ってどうなってるのか?

一番上、主砲指揮所。
二番目、戦闘指揮所。(露天つまり屋根無し)
三番目、第一艦橋。(猪口艦長はここで戦闘指揮)
四番目、第二艦橋。(加藤副長はここで防御指揮)

「大和」なら司令部のみなが第一艦橋にいたわけでしょうね。
森下艦長のほかに、栗田中将、宇垣中将、小柳少将ほかが・・・

「武蔵」の艦内では全乗組員が一つになって敵と戦いながら、愛する自艦を守ろうと文字どうり死力を尽くしていたはずです。
それどころか、艦隊任務を果たそうとなおも前進をつづけていたのです。

そのなかには、先に轟沈した「摩耶」の乗組員400名もいたのですが・・・
posted by shuuin at 17:00| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月05日

武蔵は大和の右後方に・・・

栗田中将直率の第一部隊は、戦艦3、重巡6、軽巡1、駆逐9の19隻で出ましたが、シブヤン海で接敵序列の輪陣形を組んだときは、14隻になってました。(傷ついた「高雄」は「朝霜」「長波」が護衛して、26日04:00、ブルネイにたどりつきました)

「大和」中心にその外側を、前が「能代」、右前方2時の方向に「妙高」、4時方向に「武蔵」、6時方向真後ろが「羽黒」、8時方向が「長門」、10時方向に「鳥海」がそれぞれ占位します。
さらに、その外側を0時方向に「島風」、1時「早霜」、3時「岸波」、5時「沖波」、7時「浜波」、9時「藤波」、11時「秋霜」の7つの駆逐艦が守ります。
想像つきますか、大和からぐるっと360度見たら、30度毎に味方の艦が見えるわけです。

対空序列ですが同時に潜水艦の魚雷からも、旗艦は守られているわけですね。
大和のまん前に第2水雷戦隊の旗艦軽巡「能代」、つまり外側の駆逐艦たちの親分がいて、その前に「島風」がいます。

「島風」がこの艦隊の一番先頭にいることになります。この「島風」が実は日本海軍最高速、最強力の駆逐艦です。
速力39ノット、一度に15本の魚雷を発射する雷撃力を持っていた艦なのです。
ちなみに機関出力が75000馬力、「大和」の半分です。
排水量2600トン足らずですから、重さは大和の24分の1にも満たないのに。
小型車にスポーツエンジン載せてる感じかも?

細かい記述が続きますが、実は今ネット上にも誤ったものがたくさんあるのが気になるので、なるべく正確にと思っていますので、読んで下さる方はお許しください。
お気付きのことがありましたら、ぜひコメントをお願いします。


posted by shuuin at 19:12| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月04日

航空機と軍艦

「水上部隊にとって空襲ほどいやなものはない。猛牛と毒蜂の群れのケンカみたいなもの、ケンカにならない」

もとはといえば、山本五十六が編み出した戦法ですが、2,3年の間に逆手に取られてしまった。
戦法は一度使えば敵味方とも学ぶわけで、これは現代のスポーツの世界でも同じことかも。受け止め方で、学習の差は出ます。

わかっていても行かなければならない戦場もあるわけで、第二艦隊も内地を出る前、全艦槍ぶすまのように対空火器を積んでいます。海軍工廠は全力で改装工事をしています。

攻撃を受けた栗田艦隊が、主砲、副砲、高角砲、機銃を一斉に撃ったのを参謀長いわく、
「まるで、ジョウロで‘火の水’まくみたいに撃ちましたが・・・」

「三式弾」というのは、戦艦の特殊対空焼夷弾として開発された
もので、上空で爆発すると小さな無数の弾が散らばる。今のクラスター爆弾みたいなものかな?
まえに、ガダルカナル島を砲撃したときのがこれ。

そういえば、戦艦「金剛」「榛名」のガ島砲撃も山本五十六聯合艦隊司令長官の発案でしたね。やむにやまれぬ命令だったが、実行戦隊の司令官が栗田健男で、戦艦による陸上攻撃という前代未聞の命令を拒んだ。
山本長官が「自分が行く」といったことで、まわりが止めるのに困ったということがありました。

この戦法で学んだのは、またも米軍でした。
帆船時代から、戦列艦は陸の攻撃は避けるものでその役目は砲艦のものでした。
ガ島でかなり飛行場に被害を受けたアメリカは、すぐにこの戦法が有効なことを知って採用したわけです。レイテ上陸でも、ノルマンディでも。
沖縄や硫黄島(いおうとう)の上陸前の、すさまじい艦砲射撃の威力を、後に日本人はいやというほど思い知らされますね。
ちなみに、このとき栗田司令官が攻撃予定を早めに切り上げたために、作戦の目的は中途半端に終わったのですが・・・

あのときの「金剛」「榛名」は、いま栗田艦隊の第二部隊として「武蔵」たち第一部隊の6キロ後方を続いて進んでいます。

人にも艦にも、歴史の因縁みたいなものを感じてしまいますが。











posted by shuuin at 15:36| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月03日

敵機は武蔵に集中す

ともかくも栗田艦隊は、再び陣容を立て直して北進をつづけます。

この作戦の全体では、第三艦隊(小澤)、第五艦隊(志摩)、それと栗田指揮下の別働隊である第3部隊(西村)の四つの艦隊が呼応するのですから、大事なのは時間ですね。(実際には第六艦隊=潜水艦隊も参加してましたが・・・)

つまりレイテ湾突入のX日が決まり時間が決められたら、すべての艦艇の行動は、例えば給油の段階からすべて逆算して起こすことになる。
ここで悲しいのは、「燃料の関係で長時間高速で走るわけに行かないから」という言葉がよく出てたことです。

最初に内地からリンガ泊地向かうときから、潜水艦を振り切るための高速航走まで控えたほどですからね。
高速続けると現在の車でさえ燃費食いますね。それと、巨大戦艦でさえ潜水艦を振り切る高速はもっていたわけです。

出鼻をくじかれた栗田艦隊も、最初から覚悟してたことだから別に気落ちはしなかったそうです。
重巡3隻は、無事な「鳥海」とあわせて栗田長官直率(第4戦隊)でしたから、痛いけれどもまだ想定内の出来事。
ちょっと不謹慎ですが、例えてみると一回の表にいきなり満塁ホーマーくらったけど、まだ勝負はこれからという心境だったのかな。

23:20 ミンドロ海峡にて、南東に変針。
06:30 対空戦闘用の輪形陣を組む。
08:10 敵の艦上機3機を発見。(偵察機に見つかった)
      全艦隊に警報、24ノットに増速。

10:00 「大和」の電探が東方に敵大編隊を捕捉。
10:20 第一波、30機、約20分間。

武蔵、右舷後部に魚雷一本をうける。
このときの震動で、主砲方位盤が旋回不能になったのが武蔵にとっての不運、痛手でした。
全主砲の一斉射撃ができなくなったとか。

対空砲火としての「三式弾」が思うように射てないとなると、身を守る武器がなくなったような・・・
それだけでなく、肝心の主砲が斉射できないと戦艦としての威力が減殺されてしまう。

この後、傷を負った「武蔵」を獲物をねらうハイエナのように敵機が群がります。








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2007年03月02日

旗艦を替えて

「駆逐艦を呼べ」
栗田長官の旗艦変更の決断は早かったという。呼ぶまでもなく、直衛駆逐艦「岸波」「朝霜」がスーッと近づいてきた、と。
傾斜した甲板を滑り降りて海中に逃れた小柳参謀長は、かって開戦前にこの「愛宕」の艦長だった。それだけに乗員たちが戦う前に艦と運命をともにするのかと、断腸の思いがあったと語っている。

艦隊司令部は士官一人がいなくなっただけで、全幕僚が「岸波」の甲板で顔を合わせたそうである。

ところでレイテ沖海戦では、多くの艦長が自艦と運命をともにしているが、「愛宕」の荒木艦長は退艦してのちに水雷学校教頭になっている。
「謎の反転」で歴史に名を残した栗田司令長官が、帰投してすぐ兵学校校長になっているが、実は小柳富次参謀長は水雷学校校長になる。陸に上がっても「愛宕」の仲間は一緒だったことになる。人間関係の不思議というべきだろうか?

駆逐艦の貧弱な通信設備では、艦隊の指揮はとれないということで、しばらくは「大和」の宇垣中将に指揮をとらせながら、敵潜のいる海域から逃れて前進を続ける。
沈没から8時間後の13:00頃、並走していた「岸波」を「大和」に近づけて移乗をすることに。波による駆逐艦の揺れで難作業になり、16:23までかかっている。

どんな小さなことでもその現場では、プロフェッショナルたちの目に見えない苦労があるものだが、まして戦場ではなおさらであったろう。

「艦橋にあがって、栗田さんが苦笑しながら『うまくやられたよ』といえば、宇垣さんも『長官これからですよ』というようなやりとりがあって・・・」
と参謀長が語っている。

かくして艦隊司令部と戦隊司令部が同じ艦橋で、仕事をするという珍しいことが出来した。
「武蔵」「長門」に直接命令するのは宇垣司令官であるわけで、
普通は戦場で事故があって、旗艦を変えるときは、戦隊司令官の旗艦以外を選ぶのが慣例になっていたという。

あえて「大和」を選んだのは通信設備が優秀だったからだと、参謀長は証言している。戦場が広大だから他の艦隊との連絡が肝心だから、と。

通信の問題はこの作戦では、後に大きな謎を残しているが・・・
ちなみに、このあと二つの輪形陣を組む栗田艦隊では、ほかに「能代」「妙高」「金剛」「矢矧」「熊野」の各艦が将旗を掲げていた。

タグ:旗艦 通信
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2007年03月01日

再びレイテの海に・・・

レイテ沖海戦については、戦後の米軍による占領時代からさまざまな戦記や、戦記の類が活字になっていたようだ。

現在のネットの上でも、まだまだかなりにぎやかなようである。

レイテ湾突入の主力部隊である第二艦隊の旗艦が、なぜ重巡「愛宕」だったのか?
通常、艦隊に戦艦がいる場合は、戦艦が旗艦に選ばれるのが普通である。通例と違うからさまざまな憶測もでてくるらしい。

で実際はどうだったか?、栗田健男以下司令部はやはり戦艦大和を旗艦として希望し、聯合艦隊司令部に上申している。そしてこの願いは却下されている。

「愛宕」の機動力を生かして作戦遂行せよ、というのが日吉の聯合艦隊司令部の命令であった。
その真意のほどはわからないが、いわゆる司令長官が先頭に立って突撃せよとの督戦の意味があったのかもしれない。

それはともかく、重巡愛宕は前から栗田の旗艦であったし、第二艦隊自体がそもそも重巡艦隊だったのである。
捷一号作戦の第二艦隊に第1戦隊として、「大和」「武蔵」「長門」の三戦艦が加わったのは、第一艦隊の生き残りが配属されてきたという事情があった。
その第1戦隊司令長官は、あの山本五十六聯合艦隊司令長官の下で参謀長をつとめた宇垣纏である。
その宇垣中将は初めから「大和」に将旗を掲げていた。

いまさら他に乗り換えろと、命令するのもどうか・・・
そんな遠慮があったかどうかは定かではない。しかしあったかもしれない、という気はする。


そして、「愛宕」が沈没したことで、結果旗艦は「大和」になる。
そして、大和には2本の将旗が翻ることになるのである。

これは異例のことだったとか・・・

タグ:旗艦
posted by shuuin at 17:44| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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