2007年03月01日

再びレイテの海に・・・

レイテ沖海戦については、戦後の米軍による占領時代からさまざまな戦記や、戦記の類が活字になっていたようだ。

現在のネットの上でも、まだまだかなりにぎやかなようである。

レイテ湾突入の主力部隊である第二艦隊の旗艦が、なぜ重巡「愛宕」だったのか?
通常、艦隊に戦艦がいる場合は、戦艦が旗艦に選ばれるのが普通である。通例と違うからさまざまな憶測もでてくるらしい。

で実際はどうだったか?、栗田健男以下司令部はやはり戦艦大和を旗艦として希望し、聯合艦隊司令部に上申している。そしてこの願いは却下されている。

「愛宕」の機動力を生かして作戦遂行せよ、というのが日吉の聯合艦隊司令部の命令であった。
その真意のほどはわからないが、いわゆる司令長官が先頭に立って突撃せよとの督戦の意味があったのかもしれない。

それはともかく、重巡愛宕は前から栗田の旗艦であったし、第二艦隊自体がそもそも重巡艦隊だったのである。
捷一号作戦の第二艦隊に第1戦隊として、「大和」「武蔵」「長門」の三戦艦が加わったのは、第一艦隊の生き残りが配属されてきたという事情があった。
その第1戦隊司令長官は、あの山本五十六聯合艦隊司令長官の下で参謀長をつとめた宇垣纏である。
その宇垣中将は初めから「大和」に将旗を掲げていた。

いまさら他に乗り換えろと、命令するのもどうか・・・
そんな遠慮があったかどうかは定かではない。しかしあったかもしれない、という気はする。


そして、「愛宕」が沈没したことで、結果旗艦は「大和」になる。
そして、大和には2本の将旗が翻ることになるのである。

これは異例のことだったとか・・・

ラベル:旗艦
posted by shuuin at 17:44| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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