2007年04月29日

昭和82年


今年から今日が「昭和の日」になりましたね。

かっては、昭和天皇のご生誕の日であるから「天長節」と呼ばれていました。
敗戦という歴史がなければ、さしづめ「昭和節」でしょうか。

で、わたしの雑記ノートの表紙を見たら、今年は昭和82年。
断っておきますが、いくら昭和の人間だからといって、いまだに昭和の年号を使っているわけではありませんよ。
ただ自分の読書の便宜のために、西暦、平成の年号と併記してあるだけですが。


いまから62年前の終戦の年、国民を気遣われて憔悴された昭和天皇が、皇后様とお二人でご不自由に耐えられた日々のご様子を、最近になって知りました。

今上陛下が皇太子時代の、学習院での日光疎開の生活・・・・・

東京大空襲で宮城内でも宮殿が焼けたこと・・・・・

何よりもあの大空襲の焼け跡に、煙と死臭の立ち込める中、自ら市中を見てまわられたことなど、露ほどもしりませんでした。

宮中のお文庫というのは、コンクリートでできた湿気の強い、陽の射さない、防空壕のことだったんですね。

そんなあれこれを、いまの国民はほとんど誰も知らないのではないですか?

これを読んでから、ジョン・ダウワーの「敗北を抱きしめて」を読み返したら、いかにでたらめな記述に満ちているかに驚きました。
ま、最初から生年からいって、それほど歴史に通暁してるはずがないとは思っていましたけれど。
でも、アメリカではいまや日本通の学者でとおっているようです。
現に東大教授の誰か(ナンジャパですが、名前がわかりません。中?韓?)が、テレビで何度も「ジョン・ダウワーはこういってます」と、決め手?として引用していました。
だれも、気づかずにいるといつの間にか定説として一人歩きするんですね。

また、話がそれましたが、歴史というのは誰かの説だけでなしに、様々な角度から読み取っていかなければならない、ということでしょうか。

その時代を生きたいろんな人の言葉をきくというようなことができれば、理想かもしれません。

単なる懐古ではなくて、過去を探訪することで未来が見えてくる。
頭の中の車に乗って、Back to the future です。さしづめ今日の行き先は、昭和20年の東京・・・・・







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2007年04月27日

疲れた脳で


昭和史を読むことから、レイテ戦に深入りしてしまったわけですが、レイテといえばフィリピンの島の一つです。実はこの比島での戦いが、太平洋戦争の天王山であるといわれていました。
くしくも、米軍側のマッカーサー司令長官も、ここでの戦いをそうみなしていました。まさか、マッカーサーは天王山などとはいわないでしょうが、日本側と同じようにここで勝負が決まると考えたわけです。

ところで、マッカーサーがフィリピンに特別にこだわったのには、個人的な理由があったのですが、あまり知られていないようですね。日米開戦で、ルーズベルトに呼び戻されて司令長官になるまでは、彼はマニラホテルに住んで比島の元帥として、いってみれば植民地総督的に君臨していました。実はフィリピンは長くスペインの植民地だったのが、1898年の米西戦争でアメリカの植民地に代わっていたわけです。
マッカーサーは、父親の代からフィリピンに多くの利権、つまり私有財産を持っていたといいます。

比島を奪還することは、自分の財産を取り戻すことでもあったのですが、そう考えると有名な言葉も意味深く感じられますか?

 I shall return.

マッカーサーの執念と、彼我にいわれていたものの正体の一部は、案外こんなところにあったかもしれません。


それはともかく、ここで敗れたら終わりであるという認識があったればこそ、日本軍はとにもかくにも陸海空総力を挙げて、すべてをつぎ込んで戦おうとしたわけです。

米軍側の史料や、その他をつきあわせればつきあわせるほど、あのときの栗田艦隊の反転が、非常に重要な意味をはらんでいたということがわかってきました。
一提督の判断云々というだけではない、歴史のターニングポイントといってもよいほどの出来事だったのだ、そう思えてきました。

戦後、栗田健男が、海軍省記者クラブの伊藤正徳の質問にだけ答えています。
「なにしろ命令なのだから、その命令を守らなかったのは、軍人として悪かったというほかはない」
「考えて見ると、非常に疲れている頭で判断したのだから、疲れた判断ということになろう」
三日三晩ほとんど眠らなかったあとだから、身体のほうも脳のほうも駄目になっていただろう、ともいっています。

疲れて闘志を失ったのかもしれないし、あるいはレイテ湾の輸送船などに向かう気は、最初からなかったのかもしれない、そんなことをふと考えました。

帰途のシブヤン海のことと、帰りの燃料のことを心配していた、といいますから、同じ日々に陸で、あるいは空で戦っていた多くの将兵たちとは、明らかに違っていたようですね。




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2007年04月24日

もうやめて帰ろう

そう思ったかどうかは、分かりません。

それこそ、後からまわりがいくら推し量ろうと分析しようと、そのときの栗田第二艦隊司令長官の本心は分からないままです。

ただ、ひとつだけはっきりしてることがあります。
まわりがなにを進言しようと、すべての判断決定は司令長官だけののものである、ということです。
これは、陸海軍問わず、あるいは軍隊というものがそうなのかも知れませんが。
わかりやすくいえば、たとえば幕僚全員が左といっても、実戦現場の司令長官が右といえばそれで決まるということです。つまり合議制ではないから、意志決定はあくまで司令長官だけが持つ特権であるということ。

戦争というものも、結局は個人の問題に帰するのか、と考えさせられることがよくあります。戦争を歴史と言いかえても、おなじかもしれません。
それはともかく、司令長官とはそういう権限を持っているだけに責任は重大ですし、人を得ていたかどうかで局面も左右されることになりますね。


レイテ湾での栗田艦隊の反転が、謎といわれて歴史に定着しているのは、当の本人が戦後長く沈黙を守ったままでなくなったからです。
その沈黙が、サイレントネイヴィーの伝統に従ったとか、黙して語らずの美徳にてらして、褒められたりもしてます。
敗軍の将は兵を語らず、とも。

でも、これって部下の落ち度をあげつらって、敗因を部下のせいにする卑怯をいさめたものであって、この場合はちょっと違うのではないですかね。部下たちにあたる各艦はみなよく戦ってますし、落ち度をとがめる出来事は起こってませんから。
明かさなかったのは、本人の判断や考えですから。黙秘権の行使?とまでいったら、いいすぎですか。

ちなみに、このレイテ海戦に参加していた第五艦隊司令長官志摩清秀中将は、逆にこの戦いのことを後世に残すのも指揮官であったもののつとめだと思う、と語っています。

人はそれぞれの人生観で生きるものだから、それを尊重してそっとしておく。栗田健男に取材拒否された記者は、たしかそのようなことを書いていました。

ま、栗田健男の名誉のためにいえば、沈黙することで嘘の言い訳だけはしなかった、ということでしょうか?

しかしそのために「謎」は残ったし、それによって栗田健男の名は歴史に残った、というわけになりますか。


                  



ラベル:栗田健男 敗因
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2007年04月23日

謎の反転

戦史、戦記、あるいは体験談を読んだり聞いたりしているときに、いつもふと気にかかることがあります。それは、記録に残されることもなく、消えていった無名の将兵のことなのですが。
時には後まで、その出来事が心に残ったりすることもあります。

たとえば、たしかレイテの帰途だったかに、戦艦「大和」が急回頭したあおりで、随伴していた駆逐艦の甲板からあっというまに波にさらわれていった一乗組員がいた・・・・・・

レイテの沖で栗田艦隊が戦っているときも、そのレイテ島の地上では日本陸軍の第16師団が、次々上陸する米軍と戦っていたのです。
実は、10月20日に米軍が上陸してから、この16師団との連絡がいっさい取れなくなって、軍は困っていました。
つまり通信不能になっていたわけですが、これは米軍の艦砲射撃や爆撃もさることながら、20日の台風の被害が大きかったらしいとか。
様子が不明では、作戦がたてられませんから、マニラから参謀がレイテ島にわたります。
そのときの参謀が進む道すがら、道路脇にひとりまた一人と、電線を引っ張りながら死んでいる通信兵の遺体があった、と。

この今となっては無名の通信兵の一人一人は、弾の飛んでくる中で、勇敢に自分の本分をつくして戦っていたに違いありません。
それはもう命令どうこうのはなしではなくて、ただ自分の職責を果たす、通信兵としての誇りだけだったのでは・・・・・・

波にさらわれた水兵も、人知れず路傍に斃れた通信兵も、きちんと靖国神社に祀られているだろうか?ふと、あらぬ心配をしてしまいます。


ところで、レイテ湾口に迫って、サマール沖で敵の空母艦隊を追撃していた栗田艦隊は、突然戦闘を中止して反転します。
太平洋戦争史で、いや世界の海戦史上でも有名なあの「謎の反転」です。

09:10「逐次集まれ、大和、九時の位置ヤヒセ四了」発令。
位置は暗号だとか。参謀長の進言に即座に栗田長官が応じた、と。

「大和」が、戦場から遠ざかったために、様子が分からなかったのが原因だったようです。巡洋艦隊から適宜適切な戦況報告が来ないなどと参謀長がいう始末。でも、前方で懸命に敵艦隊と接触中の巡洋艦の方では、まさか、「大和」「長門」が反対に走って、はるか遠くにいるなんて思わないのでは?
電話機のつながりもわるかったとか。

とにかく、2時間の追撃で、各艦がかなり分散していたので集まるのにも、2時間かかったそうです。

一般に、陣形を組み替えたり隊伍を整えるときは、艦隊が敵に対して弱味を見せることになります。このときは、こちらが中止しても敵は攻撃の最中ですから、たいへんです。
「鳥海」「筑摩」「鈴谷」の重巡3隻が、自沈するに至ったのもこの間のことでした。

『ここで不思議なことが起こった。09:29、わたしは日本軍の攻撃をかわすことに専念していたが、艦橋ちかくの信号員の叫ぶのを聞いた。
「畜生、敵は逃げてゆく」
わたしは自分の目を信じることができなかった。しかし、事実はその通りだった。自分の脳裡に、この事実をしみこませることは困難だった。最善の場合でも、間もなくわたしは泳いでいることを予期していたからである・・・・・』

追われていた敵の司令官の言葉が、「謎の反転」の状況をいみじくも表している。
ほかでも、「ひやーっ、敵は引き返してゆくッ」と叫んだのが記録にありました。
オオ、ジーザスとか、オウマイゴッドとでも叫んだかな?

この歴史的な出来事は、もう少し検証しないといけないかもしれません。







ラベル: 反転 無名
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2007年04月21日

その場その場の命令で

この日記は、独り言だし四方山話ですから、話があちこちに飛ぶことが多いのですが、昨日のテキストをのせた後でふと気になったことがありました。

それで、古い雑誌を探してみたら、なんとありました。

偵察機と書いたのは、正しくは「零式水上観測機」、通称ゼロ観。
複葉の水上機だった、と分かりました。
そして、記憶の隅に引っかかってたその手記の筆者が、「大和」から最後に飛び立った飛行士だったとは・・・・・

私の中だけで起こっている偶然に、ひとりで黙って驚きました。
ま、誰にもよくあることかもしれないけれど、これも歴史を読んだり調べたりするときの、快感のひとつかも知れません。

それにしても、まだまだ知らないことがありすぎる。
人生、いくら時間があっても足らないかもしれない。
あと百年、本を読み続けたとしても、読みたい本は残っていそうな気も・・・・・


ところで、サマール沖で「大和」から飛び立った2機は、なんと無事に水上基地に帰っていたのでした。

かれらは、後甲板の搭乗員待機室にいて、「大和」の世界最大の巨砲がびりびりと艦体を震わせて撃ちだしたのを、頼もしい思いで聞いていた、とか。
実は45サンチ主砲ではなく、副砲で射っていたはずですが、それでも十分に轟音が轟いたかも。

弾着が判定できないらしく、観測機の発進が決められた、と。
08:14に今泉中尉機が出発。上空には敵機が乱舞しているので、生還は期し難く、中尉は見送りの整備員と固い握手を交わしてから、カタパルトで打ち出されていった。
やはり、決死行ですね。30分後に、「敵戦闘機の追撃を受けている」と報じたまま、連絡が切れたそうです。

08:51に、手記の筆者である安田飛行兵曹長が飛び出します。
ところが、スコールと積乱雲で敵艦の影も形も見えなかったとか。
味方の巡洋艦と駆逐艦の列ばかりが見えた。4,5機の戦闘機に捕まって銃撃され、雲の中に逃げこむ。それを繰り返しながらやっと、雲の切れ目から逃げる敵空母らしきものを発見、打電と同時にまた襲われて・・・

5,6発被弾して翼がふらつくようになり、超低空飛行で敵の目をくらませながらセブ島へ・・・
だが、敵機の数の多さからそこは危険と判断して、ミンドロ島サンホセ基地に向かうことにして、12:00になんとか着水。
そこに、今泉中尉機も還って来たといいます。二人そろってマニラ水上基地に帰投します。

それから3日間は無線封止もあって、「大和」の所在がわからなかったとか。10月30日、残存艦隊がブルネイに帰ったのが分かって、基地にかけつけ帰艦できたそうです。

かれらはベテランの飛行士だったからこそ、こんなことができたのでしょうね。
安田飛行兵曹長は「甲飛2期」とあります。甲種飛行予科練習生といえば、七つボタンの予科練ですか。その2期生といえば昭和13年に入ったわけで、まだ少尉任官制度ができる前、制服も水兵服の時代だったはず。ただ、十分訓練された、腕っこきの搭乗員だったはずです。

支那事変は巡洋艦「鳥海」で、大東亜戦争になって戦艦「比叡」でハワイ、ジャワ、スマトラ、インド洋、ミッドウエー、南太平洋海戦の各作戦に参加。そして、「大和」に移ったといいますから、ずっとゼロ観乗りだったのでしょうね。カタパルトで打ち出されるのも、熟練をようするのかな。それと、機種による慣れとかもあるのかもしれない。
「ついに、一度も観測機として役立つ機会に恵まれなかった」
という言葉が、印象にのこりました。

昭和20年2月、安田飛行兵曹長は「大和」を離れて六三一空に転勤を命じられます。特攻機「晴嵐」の操縦員になったけれど、出撃前に終戦になって、・・・・・

「晴嵐」!これってあの晴嵐?六三一空は第6艦隊(潜水艦)の飛行隊です。伊400、羽根をたたんだ飛行機を積んで、カタパルトで射ちだす世界初の潜水艦・・・
有泉司令官→真珠湾の特殊潜航艇→晴嵐大隊長は海兵72期の・・・伊400という大型潜水艦の建艦技術が、現代の原子力潜水艦をうみだした、などなど。
頭の中に次から次へと、いろいろなことが押し寄せてきてとまらない。


>「戦況が不利になっているのはおぼろげに知っていたが、われわれ下士官兵には、艦隊作戦の全般は知らされず、その場その場の命令に従って戦うだけにすぎなかった」

そして、かれらはみな自分の役割を果たして、仲間のために最善を尽して戦ったのでしょうね。











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2007年04月20日

偵察機を射出

「大和」と「長門」が、そっぽを向いて走るはめに陥ったことを、「大和」の艦橋にいた宇垣纏中将は、こういってます。
「きわめて不運だった」

この宇垣中将の、レイテ戦の回想を読んでみたいと思うけれど、中将は終戦の日に沖縄に、特攻機を飛ばして自決してしまいましたから、それはかなわぬ夢。
畢竟、後の栗田司令部のあれこれは、小柳参謀長や大谷参謀の言葉によるしかありません。

で、二戦艦が雷跡を見つけて回避したのが、07:54。
重巡たちに突撃を命じてから、わずか24分後のことでした。
「大和」はそれ以後、ついにこの敵の姿を目にすることは、なかったそうです。無論、追撃戦に加わろうとしたのですが、スコールや敵の展張した煙幕のせいで、目視できなかったといいます。
その戦況を見ようとして、栗田長官は偵察機を飛ばします。

偵察機を飛ばす、なるほどと読み流してしまいますが、これってまさに一種の特攻と同じですよね。
いったん飛び上がったら、帰れない。近くには基地もなければ、味方の母艦がいるわけではないでしょうしね。

非情の命令ですし、必死の偵察になります。100%の死を覚悟したかも知れません。

カタパルトから飛び出してすぐに『敵針路、南東』を報告、そのまま消息を絶ったそうです。
「大和」は、その方向に電探射撃を行います。

そして二機目の偵察機も飛ばします。実はこれが大和の持ってる最後の偵察機だったのですが、この機はすぐに消息を絶ったそうです。
実はこのときは、敵の艦載機や陸上からの攻撃機が、わんわん飛び回って、必死で戦艦「金剛」「榛名」はじめ4隻の重巡戦隊の進撃を食い止めようとしてる最中ですからね。無防備な偵察機では、ひとたまりもなかったでしょう・・・・・

そっぽに向いて反れなかったら、こんな必要もあるいはなかったかもしれませんね。違う戦いがあったのかも。

このあと、かの重大な決定がなされたのですが、そのこととも微妙に関係している気がします。あの、北に走らされたことが。

そして、実はこのとき上空からは、敷島隊の特攻機が突っ込んでいたのです。それがまさにこの戦場だった。

関行男大尉率いる最初の神風特攻隊です。






ラベル:偵察 煙幕 特攻
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2007年04月17日

戦艦二隻は真北に走る

今日読んだある本に、こんな記事がありました。

筆者の方が、かってレイテ島に慰霊の旅をされたときに、フィリピン人のガイドの方に質問されたそうです。

>「日本の観光客がたくさんセブ島に来るので、向こうに見えるレイテ島では、八万人もの日本の兵隊さんが戦死されたのですと説明しても、多くの人は黙祷するでもなく、ただ眺めているだけ。一体、日本の教育はどうなっているのですか?」

言葉を失いますね。・・・・・

中国人の口から、大岡昇平の「レイテ戦記」も読んでないのか?
お前らアホか、といわんばかりに歴史に無知であることを面罵されて、一言も返せない日本の若者をみて、涙が出たこと思い出しました。

言われたくないですね、外国の人に。
秘かに知性を疑われ、軽蔑の目でみられているかもしれない。


作家大岡昇平が、レイテを書いたことをきかれて、こんなことを言ってます。(大岡は輸送隊の補充兵としてレイテに行ってます)

>「われわれ兵隊仲間としては、弔うには、お墓に行って花束をささげる、涙を流すというようなことより、何かわたしとしては、戦場のことを書いて、その状況を再現するということ・・・・・」

「レイテ戦記」は文学ですけれど、戦史とか戦記とか書くことが、墓標に花束をささげる行為であるとすれば、それを読むこともまたささやかな花を手向けることになりはしないか?
もしかして、このブログでもシブヤン海に、白い菊を一輪捧げられたかと・・・・・・

10月25日の日出は06:27
(海軍用語では日の出のことは、ニッシュツ)
海峡を抜けるときは、千メートル間隔の単縦陣、抜けたらすぐ夜間接敵序列。いちいち陣形を組み替えるのですが、十隻でも大変で一時間半かかったそうです。そして日出一時間前には対空接敵序列すなわち輪形陣に・・・
各艦が「大和」を基準にして、ずっと輪になろうと動いていたときだそうです。南東はるか水平線すれすれに、飛行機がみえた。
そして、マストが、飛行甲板が、空母に飛行機が発着艦してるのが、次々に見えてきたわけですね。

「恨み重なる敵機動部隊を捕らえたのだから、ついに大願成就、レイテ突入なんか後回しにして、この敵に突っかけてゆくのは海軍軍人として当然」
小柳参謀長の述懐です。

「全力即時待機」(突撃用意)
「130度方向に変換」(各隊一斉130度方向に変針)
「展開方面110度」(味方艦隊の進むべき方向)

矢継ぎ早に下令。実際の「大和」艦橋の命令です。このほうが臨場感がありますよね。ちなみに、よく映画でも出てくる「○○度」ですけれど、コンパス、つまり羅針盤の目盛りの通りですから、0度を真北にして、ぐるっと360度時計回りに方向がすぐ分かりますね。
130度は南東よりやや東、その向きに回頭してから、戦闘進行方向は20度東に調整するというわけです。

この附近は、つねに東よりの貿易風が吹いているそうです。
ところで、空母というのは艦載機を発艦させるときには、必ず風に立つものだそうです。その方が艦も安定するし、飛行機は揚力が得られるからでしょうね。

だからこのとき、敵の空母は東を向いていたことになります。つまり、栗田艦隊はその風上に立とうとしたわけです。
陣形にこだわらず、攻撃に入ったのもただただ敵の逃げ足をおそれたからです。

第1戦隊、戦艦「大和」「長門」から撃ち始めます。
第3戦隊、戦艦「金剛」「榛名」がそれにならいます。

続いて、07:30栗田長官は、巡洋艦戦隊に「突撃」を下令。
すなわち、
第5戦隊、重巡「羽黒」「鳥海」
第8戦隊、重巡「熊野」「鈴谷」「利根」「筑摩」。
駆逐艦主体の2つの水雷戦隊は、「後より続行せよ」と命じます。

マッチ箱を射程外に逃がしたらこっちが危ないから、一気に砲力でつぶすために、大型艦の全速突撃したわけですね。

このやりかたは、艦隊対抗決戦展開(すごい名前?)という定石に外れてるのだそうです。水雷戦隊から突っ込むのが、海軍の伝統。
でも、定石にこだわるより、臨機応変のこの戦法でよかった気もしますね。
相手に高速で走り回られて、それを高速で追いかけ回したら、駆逐艦の燃料はすぐなくなる。そこまで、読んでいたらしいですから。
敵がまわりこんできてから、「全軍突撃」下命してます。


恐怖を誘う美しい水柱がたったとき、相手の空母群の司令官スプラーグ少将は戦史の中で、こういっています。
 「迅速な敵の接近は、ほどこす術がないほどであり、射撃の量と精度はますます増大しつつあった。このとき、我が隊の艦で、あと5分と残りうるものが、一隻でもあろうとは思えなかった。わが隊は、絶望的状況の中にあった」
5分以内に、全部沈められてしまう、そう思ったわけですね。


このときの砲撃で、各艦は日ごろの訓練の成果を発揮していたのですが・・・・・

「慎重に、非常に小さな散布界の(23メートル以内だったと)射弾を撃ち込んできたので、急速なジグザグ運動で回避できた」
つまり、もう少し腕が悪くて、弾がばらけていたらさけきれなかったことになります。

「でも、命中したことは、命中した。幸い日本軍は徹甲弾を使っていたので」
薄い鉄板をすっぽぬけて、炸裂しなかったのです。
じつは、相手が護送空母であったがために、砲弾の威力が強すぎて、いわば貫通銃創になってしまった。

わが戦艦「大和」は、前方の駆逐艦を射撃中に、右舷百度に雷跡を発見して、回避のために左へ変針します。それから、ほとんど真北へ走ります。後続の「長門」もつれて。
二隻の戦艦は右に4本、左に2本の魚雷に挟まれて、右にも左にも回避できずに、約10分間、雷跡が消えるまでひたすら北へ・・・
南に逃げる敵空母群とは反対の方向でした。

アメリカ側の戦史には、もっとも強力な戦艦「大和」「長門」は、しばらくあらぬ方向に、走ったため云々、と。

逃げることを、北に走るといいましたね、たしか。敗北の北。
またこの魚雷が、遅い魚雷でやり過ごすこともできなかった、と。

やっぱり天運は、すでに無かったのかもしれないですね。


前日に、猪口「武蔵」艦長がその遺書の中で心配していた射撃の腕のことですが、翌日のこの戦いの米軍側の記録によれば、それほど悪くなかったようです。むしろ砲手たちは、優れていたといって良いかも。彼らの名誉のためにも一言つけくわえたくなりました。

海戦のときというのは、敵艦も自艦も動き回るのですから、狙いをつけることの困難さは想像以上でしょう。それに対空火器ときては、変針しまくる艦の上から、飛び回るものを射つのですからね。

弾道学というのは高度の数学でしたが、何十キロも飛ぶ弾の空気抵抗、風向きや風速まで計算するとなると、・・・・大変です。







ラベル:水平線 命中
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「敵の射撃は天然色映画だッ」

捷一号作戦のレイテ海戦で、「武蔵」を失った栗田艦隊はその後、サンベルナルディーノ海峡をするっとぬけて、レイテに向かいました。

実はこの作戦では、日本側では4つの艦隊が連携して、作戦行動をしていました。
アメリカ側も早くに、3つの艦隊が別々にレイテに向かってきていることは発見しています。

もっとも、米軍も日本艦隊がほんとうに出てくるとは、あの最初に「愛宕」「摩耶」を沈めた潜水艦の報告があるまでは、思っていなかったそうです。
栗田艦隊発見の報告があってから、索敵機を飛ばして見つけたわけです。スリガオ海峡に向かっってくる西村艦隊、後に続く志摩艦隊を。

ところで、日本側の作戦は栗田艦隊のレイテ湾突入の援護のために、小澤機動部隊が南下していました。有名な囮艦隊ですね。
ところが皮肉なことに、発見されることを願ってやきもきしてる小澤艦隊を、アメリカ側が見つけてくれなかった。
ハルゼーの機動部隊は、北方に小澤機動部隊が進んできていることを、考えもしなかった。
わざとらしいと怪しまれないように、でも見つかるようにと、通信量を増やしたりして、あれこれ苦心していたのに。
いつもは、なるべく秘かに行動する機動部隊が、少しでも早く発見されたい、しかも普段どうりにみせかけて。これ意外に難問だったみたいです。

実はこの囮作戦のことは、米軍は早くに知っていたといいますから、ちょっとややこしくなります。海軍の暗号はミッドウェイ海戦の前から解読されていましたし、スパイ網もあったのかもしれません。ただ、その作戦そのものを、ばかばかしいニセ情報だと、一笑に付してしまったらしいです。

まったく戦争の機微とでもいうか、事実は小説より奇なりとでもいうべきですか。

で、その結果、ハルゼー機動部隊の猛空襲が栗田艦隊に向けられ、「武蔵」が沈んだわけですね。
その後の展開から、小澤艦隊の成功と、栗田艦隊の失敗というのが、この作戦の一般的評価です。確かにそうなのですが、囮艦隊半分成功ぐらいかもしれないと勝手に思っています。悪いのは気づかなかった米艦隊のミスですから、小澤艦隊には落ち度はないですけれど。

あるできことから、もしやと気づいたハルゼーが、そこで向きを変えて全力で小澤艦隊を追いかけることになります。

栗田艦隊が海峡をするっとぬけたのは、そういうわけでした。
この間に、後に問題になった「通信」のあれこれがあるのですが・・・・・
とにかく、「大和」の艦橋ではまったく様子がわからず不思議だったようですね。急にまったく攻撃されなくなったことが。

そして、栗田艦隊では、前方に夢にまで見たアメリカの空母艦隊を発見します。天は我を見捨てなかったか、といったかどうかは分かりませんが、とにかくその気分でしょうね。幕僚の中に、涙を流して快哉を叫ぶものもいたそうですから。
レイテ突入という本来の任務は後回しにして、まず目の前の獲物から、というわけですね。好餌を前にした猟犬の群れに例えたら、栗田艦隊に失礼かな?

その一方で、米軍側の驚愕は想像以上のものになります。ハルゼーが破損艦の集団に過ぎないといっていた艦隊が、7時間のあいだ発見されずに240キロの海面を通過していたわけですからね。
のちに、米海軍内で大きな問題になりました。

栗田艦隊は、船体がまだ水平線下の距離から、砲火を開きます。

ところで日本の軍艦は各艦ごとに、水柱の色がちがうこと知ってますか?自艦の砲弾の弾着を、正確に知るための工夫ですね。

別々にきれいに着色された水柱が、自分たちのまわりに立ち始めたとき、多くのアメリカ軍水兵は自分の目も耳も信じられなかったそうです。

タイトルは、そのときの一水兵の叫び声でした。













ラベル:事実 通信
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2007年04月15日

航空母艦と戦艦、どっちが強い?

鮫と鰐、犀となんとか、どっちが強い?
バーチャルの世界で、流行っているようです。
そのひそみに習って、空母と戦艦ですがどうでしょうか?

昭和の戦争、つまり太平洋戦争が語られるとき、航空機の時代に大艦巨砲主義の日本は遅れていたといわれます。大艦巨砲には日清戦争以来の由来があるのですが、それはともかく航空機の時代を招来したのは、山本五十六でした。

さかのぼれば、二つの海軍軍縮条約のせいで日本の建艦が制限されてしまったことから始まってます。
それならと、海軍航空隊を育てて、マレー沖海戦で英の戦艦、巡洋艦を沈めた。それが逆に航空機の威力を世界中にしらせてしまったわけです。

で、航空母艦時代が到来します。最強なのは空母か?

実は、空母が強いのは、艦載機が守っていてこそなのですね。
空母自体には、いくつか弱点があります。

まず、飛行甲板があるために、防御兵器が著しく制限されます。つまり大砲や銃器が積めない。

さらに、オクタン価の高い航空燃料を大量に積み込むために、爆発の危険がさけられないのが、最大の泣きどころなのです。
あのマリアナ沖海戦で、小澤冶三郎中将の旗艦、新造の重防御空母「大鳳」が、たった1本の魚雷をうけて沈没したのがこれですね。
被雷の衝撃でわずかにもれたガソリンのガスが、後に大爆発をひき起こしてしまった。

それと、空母の命である飛行甲板は、たった一発の爆撃や砲撃で使えなくなることもある。とたんに発着艦のできない艦載機は、無きに等しいことに、これも空母の弱味です。飛行機なしではただの浮かぶ鉄の箱かも?

「大鳳」が重防御空母といわれたのは、飛行甲板を750ミリの厚さの鋼板にしたからですが、皮肉なことにその威力?を示すこともなく、三月あまりの短命に終わりました。
ただ、飛行甲板を強化できたのは、海軍国イギリスについで世界で二番目でしたから、日本の空母建造技術の高さは誇ってもいいかもしれません。空母に限らずこの造船技術こそが、戦後日本の復活の原動力になったのですから。

で、この数々の弱点を補うために、空母にはなにが備わっていたか?
それは足の速さでした。空母は見かけによらず、逃げ足が速かったともいえます。
重い飛行甲板をのせた「大鳳」でも、最大戦速33・3ノット出します。ちなみに、戦艦「大和」は27ノットですから、追いかけっこでは捕まえられませんね。
アメリカの制式空母も34ノットは出したといいます。

空母VS戦艦が一対一でもし戦ったら?
両者の距離が40キロ以内だったら、空母が50機の艦載機を飛ばして雷爆撃を敢行したとしても、まず戦艦が勝ちそうに思えます。

空母は海上の航空戦ではめっぽう強いけれど、砲戦になると水上戦闘では最弱だそうです。
戦艦、巡洋艦の射程内に入ったら空母はマッチ箱みたいなもんだ、と。鉄の箱どころじゃなかったですね。
だから、空母の戦い方は必然的にアウトレンジ戦法になるわけです。つまり、艦砲の届かない距離にいて、艦載機を飛ばす。

よく先のマリアナ沖海戦で、小澤司令長官がアウトレンジ戦法を取って失敗したと書いてありますが、第一機動艦隊はいちおう空母9隻が基幹ですからアウトレンジ戦法は当たり前?
ただ、この海戦は敵も空母ですから、あとは艦載機の航続距離の問題になる。日本の方が勝っていたから、少し遠くから飛ばしたということでしょうか。
ほかのいろんなファクターが絡み合って、戦運我に非ず、だったのですかね。


さっき40キロ以内といったのは、想定「大和」です。主砲は40キロまで届いたそうです。その上35キロまでは、見ながら射てたといいます。艦橋が高いから遠望がきくわけですね。

レイテに近づいたとき、栗田艦隊はいわゆるサマール沖海戦を戦ってますが、日本側が思っていたよりはるかに大きな戦果を上げかかっていたようです。艦隊の各艦は、さすがの砲撃の力をみせていたのですが、あまりに射撃の腕がよすぎた?、それと弾の威力が強すぎた?・・・・・・・
あの「武蔵」の猪口艦長が、最後まで心配してた射撃の錬度は、そんなに悪くなかったみたいです。








ラベル:空母 造船
posted by shuuin at 19:13| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月13日

作戦計画

『昭和史の天皇』にもどって、読んでいたら、次のような文章にであった。

 >「だいたい作戦計画というものは、やったことのある人ならだ れしも経験することなんですが、はじめのうちは、自信もなく無 理だなあと思いながら手がけていたものが、計画がだんだん進む につれて、なんだか成功するような気持ちになってくるものなん です。そのうち確信になり、はては既定計画の修正をかたくなに 拒み、それを他人が検討することさえ、許さないようになりがち のものなんです」

うーん、あるある、まったくそのとうりだ、と頷きました。
これって現代でも、政治家や官僚たちはもとより会社でも、しょっちゅうあるのでは?

思い込みもこれですか?個人でも、恋の計画とかで(そんなものがあるかないか、とんと知りませんが)、やってませんかネ。

もしかして、ストーカーやその他の犯罪者も・・・・・
いや不謹慎な想像はおいといて、話を戻します。

これは、第十四方面軍作戦参謀だった田中少佐の言葉です。

14方面軍は、あのフィリピンで山下奉文司令長官が率いていました。
と、国民は記憶するのですが、その山下大将、田中少佐がマニラに着任したのがなんと19年10月6日だったのです。

すでに、9月21、22日にマニラは本格的空襲を受けています。
米軍のレイテ上陸まで何週間もなかったわけですね。
しかも、参謀長武藤章中将がスマトラから着任したのが10月20日の夜になります。
「わたしは、当時、レイテ島がどこにあるのか、その位置さえ知らなかった」これは、武藤中将の遺稿のなかの一節です。


はじめの、田中少佐の言葉は、こんな言葉の後に続くものでした。

 >「だからといって、地図の上で太い青線を引いて、それで強固 な防衛線ができたと考えた総軍参謀がいたとしたら、云々」
  (南方総軍は、方面軍の上にありました)

ま、上のほうの図面上の計画と、現場で実地に実行する側が抱える困難。これは計画と実践に宿命的についてまわるものかもしれません。まして、実践するのが実戦?ともなれば、洒落や冗談ですまない。生死にかかわるし、時には国の命運にもかかわるかもしれない・・・・・

いろいろ考えさせられますね。それにしても、知れば知るほど興趣が尽きません。
「日本人は歴史を知らない」と、他国から謗りや嘲笑を浴びせられてますが、知らないことを見越して付け込まれてることがたくさんあります。
この場合、歴史とは大東亜戦争とか太平洋戦争の時代をさしています。


ほんとうは日本の国民が、ひとりひとり昭和の歴史をもっと知ってほしいです。それを願ってささやかなブログ日記を書いています。










ラベル:作戦 計画 マニラ
posted by shuuin at 19:27| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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