2007年04月10日

時代の子

人間は自由だ、自由であることが人間らしいことだ。

よくそう言われますし、そのことに何の異議もありませんが。

ただ、われわれが逃れることのできない拘束が、二つありますね。
時代拘束性と地域拘束性、この二つの頸枷から自由であることはまず不可能でしょうか。

地域は地理的とおきかえてもいいですが、民族とか人種といったほうが正確かもしれませんね。

たとえばわたしは、今という現代を生きている日本人、ということになります。

個人的嗜好でいいますと、江戸時代に生まれたかったと、よく思います。それも、寛政以降、文化文政あたりの江戸に・・・・・


ところで、今日は「大和」のいわゆる沖縄特攻のときの第二艦隊司令長官、伊藤聖一中将にからんだエピソード。

映画「男たちの大和YAMATO」で、渡哲也が扮した姿を思い浮かべる人も多いかも知れません。

レイテ沖海戦で、謎の反転をして栗田健男第二艦隊司令長官が帰ったのが、11月下旬。
19年12月23日、伊藤聖一中将が軍令部次長から二艦長官に補填されています。
ちなみに、伊藤は栗田の海兵1期下でした。そして、同期にはあのレイテ沖海戦の西村祥治(西村艦隊)、志摩清英(志摩艦隊)の両中将がいます。

20年4月7日、伊藤聖一中将は「大和」と運命をともにします。

ところで、この伊藤聖一司令長官の長男伊藤叡大尉が、筑波空で特攻隊の戦闘機訓練をしていたことを、昨日初めて知りました。

しかも、くしくもあの海兵72期、猪口「武蔵」艦長の長男智中尉と同窓であったとは・・・・・

20年4月28日、伊藤叡大尉は、沖縄伊江島附近で乗機零戦と運命をともにしました。
敵艦に特攻攻撃中、迎撃してきた敵戦闘機群と交戦した、と。

この一人息子は、父の死を知っていたのでしょうか?
聞かされていたとすれば、沖縄の海を飛んでなにを思ったのか?
とてもその胸中を忖度できるものではありませんが・・・・

伊藤中将は、出撃前日、候補生70余名を総員退艦させています。
若い彼らを後の世のために残す、と有賀艦長らときめた、と。

三田尻沖で「大和」に最後の給油をしていた駆逐艦「花月」の、航海長がまた海兵72期でした。この「花月」が、候補生たちを連れて帰ります。
特攻隊の息子と同年代の候補生に対するそのときの気持ちは、どんなであったろうか?と、航海長が同窓生の父親の胸のうちを思いやっておられます。

彼らはまさに、みんな昭和という「時代の子」、時代の親子ということになりますか。


伊藤叡大尉の妹さんの、兄の思い出を語る手記にも出会えました。妹自慢、妹思いのお兄さんだった姿が彷彿としました。
きらりと光る一瞬の光芒のような、昭和の青春・・・・・
23年後に書かれたこの手記を読んで、思わずウッと声がでてしまい自分で驚きました。


 >かっての慟哭をもって、兄を泣くことはもはやありません。
  しかし妻も残さず、ただ妹の胸の中のみに生きる兄を愛おしい
  ことは、さらに切なるものがあります。


昭和20年4月、日本の桜は例年のように咲いてくれました。
若者たちはみな、せめてもの飾りに桜をかざして、死地に赴いたようです。
海軍兵学校72期生に限っても、この終戦の年の春4月だけで、なんと61名もが戦死しています。調べてみたら、ほとんどが航空隊でした。まさに、先に猪口中尉が叔父に報告した通りでした。


この頃、海軍士官に嫁がれて、四日市の海軍の官舎におられた妹さんのもとに、父伊藤聖一中将の訃が報らされたのは4月28日だったそうです。まさに、お兄さんの戦死の当日だったのですね。


桜の季節には、いつも浮かんでくる詩の一節があります。
「年々歳々花あい似たり、年々歳々人同じからず」


靖国の桜の花の数が、亡くなった人たちの数に足りるのだろうかと、埒もないことが胸をよぎりました。
















タグ:時代 拘束
posted by shuuin at 18:58| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月04日

南も北も

沖縄の集団自殺のことが云々されています。

日本軍が、自国の民間人にたいして、自殺をどうこうするなどということは、まずありえないのでは?

なぜなら、軍の考え方は実戦部隊においては、民間人は足手まといだったからです。一般人のいるところでは、うまく戦えないというのが、指揮官から兵隊たちにいたるまでの考え方でした。

かれらは、ごく普通に当然のこととして、そう考えていた。
このことは、沖縄に限らず満州や樺太でも同じです。
それは残された様々な証言や、戦史戦記の言葉の端々にみられます。
「まず、女子供は先に早く内地に帰りなさい」
それが、「軍」の考え方でした。

沖縄戦でも、九州へ避難する様に再三すすめています。
ただ、すでに船の便がままならなかったり、様々な理由で島に残った人たちも多かったことから、あんな悲劇が起こったのです。

樺太は、終戦後にソ連軍が攻め込んできて戦場になったのですが、北海道に送ろうと苦労しています。

「手榴弾をわたされて・・・」
そういう証言がとり沙汰されてるようですが、手榴弾は実は兵たちにとっても貴重品?だったはずです。

自身の自決用の最後の一発さえ、ままならなかったこともあったとか。

一方で、日本人の民族性とか文化にかかわることも、忘れてはならないはずです。倫理観とか道徳観が、現代とはくらべものにならないほど厳しかった。
これは、なにも軍国主義のせいで強制されたものでもなんでもない。軍国主義とたいそうにいっても、せいぜい何年か何十年のものです。
それよりはるかむかしから、日本人の自分たちを律するものさしが、明確で純粋だったのですね。

一例をあげれば、貞操観念がまるでちがいます。

現代では、「貞操」は死語だそうですから、わからない人にはわからないままでしょうが・・・・・

大正生まれでも、由緒正しい家の娘の嫁入り道具には、懐剣が入ってました。
貞操の危機が迫ったときには、その短刀で喉を突くためのものです。

武士の女房の作法ですが、日本女性一般がほぼ同じ考え方をしていた時代です。
歌舞伎から村芝居にいたるまで、また本や講談浪曲などで、耳目にふれていましたから。
「操を守る」ために自害することは、日本女性にとってごくふつうのことでした。ひとつの美学でさえあった、といったら叱られますか。

いずれにしても集団自決というものも、その延長線上にあったと考えたほうが、真相に近いような気がします。

辱めを受けたくない、辱めを受けては可愛そうだ、そんな思いがひとつになった・・・・・
手榴弾を渡すというのは、そういうことだったはずです。
そこに強制などあるはずがない、そう思います。


自害、自決、自栽、あるいは切腹にしても、特攻もふくめて、さまざまな表現が日本にはあります。
アメリカでは、suicide で一括しますけれど、日本人独特のこういう民族的考え方は、かれらには理解しがたいでしょうね。


もうひとつ、アメリカ兵に対する恐怖心も、相当のものがあったことも忘れてはいけないですね。

銃弾や爆撃によるものは、戦争ですから日本人もわかっていますが、火炎放射器で人を焼き殺すことは、想像を絶するおぞましさだったのです。

沈没した艦の漂流者を、魚雷艇や航空機でわざわざ銃撃するというのも、日本人には卑怯な振る舞いとしか見えなかったですしね。

終戦直後、いよいよ占領軍が上陸するというとき、横浜から伊豆の山奥に疎開しました。当時の六大都市では、ほかでもあったかも知れません。
若い女性は、坊主になれとか、顔を炭で汚せとか、大人たちが真剣に相談したようです。さもなければ、伝手をたどってでも疎開して避難したのです。
後になれば笑い話でも、渦中の人間にとっては、それこそ何をされるかわからない恐怖があったはずです。
そういう時代の空気をよむことは、いろいろな歴史を理解する上で大切なことだと思っています。
いまの尺度だけで、過去を判断してはいけない、と。


あの時点で、二千年近い歴史を持つ国と、わずかに百六十年あまりの歴史しかない国とですから、考え方に大差があるのもしかたないですが・・・・・

すべてが、アメリカスタンダードになった、いまの日本ですけれど、歴史の検証には「時代の目」をあわせもって見ないと、とんだ見当違いをしかねませんね。

それにしても、教科書にああいう表現が採用されたのが、いつからだったのか?
そのことのほうが、知りたいですね。ご存知の方教えてくださいませんか?












posted by shuuin at 18:50| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月01日

ものの見方

「人は、おのれの見たいものだけしか見ない」

だれの言葉であったでしょうか?
もちろんテレビのチャンネル選びのこと、ではないですが。

同じ一つのものをみても、人によってそれぞれとらえ方がちがいます。これはわれわれが日常的に、しばしば体験することです。

ときには、正反対に見えることすらある。
結局、人は自分に都合のいいものだけを見るのかもしれません。

ものを見るということは、そこに自分を投影してるのかもしれないです。つまるところ、分相応のものしか見えないということ。

見れども、見えず・・・・目明き千人に、めくら千人、とか。
むかしの人は、うまいこと言いますね。


ところで、沈没した乗員の救助をどうやったのか?

カッター(端艇)をおろして救助するのは、自力で泳ぎつけぬ負傷者でしょうか?
何百人も助けを求めて待っているときは、それだけでは間に合わないはずです。

数十本のロープを外舷のハンドレールに結んでたらして、乗組員各自が先端を輪にしたロープを持って、舷側に泳ぎついた遭難者に投げてやるそうです。
心得のある人は、片足を輪に入れて両手でロープを握る。そうすれば、上から引き揚げることができる。

あの駆逐艦「濱風」は、11月16日、ブルネイを出発して内地に回航する栗田艦隊の残存部隊の中にいました。

戦艦「大和」「長門」「金剛」、重巡「矢矧」、駆逐艦「浦風」「磯風」「雪風」「濱風」の八隻です。

「島風」のように、他任務で残ったのもありますが、それにしても三十二隻で出撃したのが、内地に帰るときにはこれだけですから。悄然たる気分ではなかったでしょうか。
しかも、帰路もまた戦場。

11月21日 03:06 台湾基隆沖まで来た時。
米潜水艦の雷撃で、「金剛」に4本、「浦風」に2本、被雷してしまいます。
「浦風」は一瞬のうちに艦影が消えたそうですから、轟沈。
さすがに「金剛」は、それでもなお16ノットで航行をつづけるのですが・・・・・
04:00 突然、大爆発を起こして急速に沈没してしまいます。

「濱風」「磯風」は、この二艦の救助を命じられて、現場に急行します。
「大和」「長門」は、「矢矧」「雪風」が護衛して内地に向かう。

この日の海上は大時化で、波が駆逐艦の艦橋をこえるほどだった、といいます。
(この、「金剛」のくだりはまた別のところで)


救助した人々を「矢矧」に移してから、三隻の駆逐艦は「長門」を護衛して、母港横須賀にかえります。それが、11月25日。

で母港に帰るやいなや、この第17駆逐隊の三隻を待っていたのが、空母「信濃」を瀬戸内海に回航する任務でした。

気がつきましたか、レイテ出撃のときから、いやその前のリンガでの訓練から、彼らはほとんど休んでいないですね。

常に戦闘航海を続けているわけです。
まさに海の男の艦隊勤務、月月火水木金金ですか。
今の若者だったら、・・・・?

「信濃」は戦艦「大和」の三番艦ですが、建造途中で空母に改装されています。
この19日に引き渡されたばかりの、できたてほやほやの巨大空母でした。つまりこの日に軍艦旗をあげて、海軍籍に入ったということです。
5年の歳月と建造費をかけて、工廠の技術と心血を注いだフネでしたが、わずか十日後に・・・・・

11月28日 13:30、出港して呉に向かいます。
11月29日 11:57、潮岬沖にて敵潜魚雷で沈没。
死者791名、駆逐艦に救出された者1080名。

ほとんどの、国民の耳目に触れることなく海に消えたために、幻の空母といわれました。

このときの三隻の駆逐艦の、決死の救出作業を、戦後中傷したものがいて雑誌の記事にまでなったといいます。

「信濃」の生存者が救出されるとき、手荒な扱いを受け、略奪行為があったと・・・

「信濃」には試験や未完作業のために、民間人・工員が200名ほど乗ってたといいます。


ところで、遭難者は長時間荒天の海(風速20メートル)に漂流して、救助されると気がゆるんで息をひきとる者が多いそうです。そのため、頬を叩いたり怒鳴ったりして、活を入れることが必要だったわけですね。

重油でどろどろの衣服を、全部剥ぎ取ってから居住区に入らせる。着たまま艦内に入ろうとするものは強制的に脱がせる。
そうしないと、艦内が油まみれになって、あとで大変ですよね。

しかし、軍隊はひどいところで、いやなところだということで、非難することで自分を正当化する人が、やはりいるわけです。

まさに、ものの見方はひとそれぞれ、といってしまえばそれまでですが。

ただ、印刷物などに残ると、後世それを読んだ人がそれを事実と思い込む場合がありますから、こわいし困りますね。






posted by shuuin at 19:12| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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