2007年04月21日

その場その場の命令で

この日記は、独り言だし四方山話ですから、話があちこちに飛ぶことが多いのですが、昨日のテキストをのせた後でふと気になったことがありました。

それで、古い雑誌を探してみたら、なんとありました。

偵察機と書いたのは、正しくは「零式水上観測機」、通称ゼロ観。
複葉の水上機だった、と分かりました。
そして、記憶の隅に引っかかってたその手記の筆者が、「大和」から最後に飛び立った飛行士だったとは・・・・・

私の中だけで起こっている偶然に、ひとりで黙って驚きました。
ま、誰にもよくあることかもしれないけれど、これも歴史を読んだり調べたりするときの、快感のひとつかも知れません。

それにしても、まだまだ知らないことがありすぎる。
人生、いくら時間があっても足らないかもしれない。
あと百年、本を読み続けたとしても、読みたい本は残っていそうな気も・・・・・


ところで、サマール沖で「大和」から飛び立った2機は、なんと無事に水上基地に帰っていたのでした。

かれらは、後甲板の搭乗員待機室にいて、「大和」の世界最大の巨砲がびりびりと艦体を震わせて撃ちだしたのを、頼もしい思いで聞いていた、とか。
実は45サンチ主砲ではなく、副砲で射っていたはずですが、それでも十分に轟音が轟いたかも。

弾着が判定できないらしく、観測機の発進が決められた、と。
08:14に今泉中尉機が出発。上空には敵機が乱舞しているので、生還は期し難く、中尉は見送りの整備員と固い握手を交わしてから、カタパルトで打ち出されていった。
やはり、決死行ですね。30分後に、「敵戦闘機の追撃を受けている」と報じたまま、連絡が切れたそうです。

08:51に、手記の筆者である安田飛行兵曹長が飛び出します。
ところが、スコールと積乱雲で敵艦の影も形も見えなかったとか。
味方の巡洋艦と駆逐艦の列ばかりが見えた。4,5機の戦闘機に捕まって銃撃され、雲の中に逃げこむ。それを繰り返しながらやっと、雲の切れ目から逃げる敵空母らしきものを発見、打電と同時にまた襲われて・・・

5,6発被弾して翼がふらつくようになり、超低空飛行で敵の目をくらませながらセブ島へ・・・
だが、敵機の数の多さからそこは危険と判断して、ミンドロ島サンホセ基地に向かうことにして、12:00になんとか着水。
そこに、今泉中尉機も還って来たといいます。二人そろってマニラ水上基地に帰投します。

それから3日間は無線封止もあって、「大和」の所在がわからなかったとか。10月30日、残存艦隊がブルネイに帰ったのが分かって、基地にかけつけ帰艦できたそうです。

かれらはベテランの飛行士だったからこそ、こんなことができたのでしょうね。
安田飛行兵曹長は「甲飛2期」とあります。甲種飛行予科練習生といえば、七つボタンの予科練ですか。その2期生といえば昭和13年に入ったわけで、まだ少尉任官制度ができる前、制服も水兵服の時代だったはず。ただ、十分訓練された、腕っこきの搭乗員だったはずです。

支那事変は巡洋艦「鳥海」で、大東亜戦争になって戦艦「比叡」でハワイ、ジャワ、スマトラ、インド洋、ミッドウエー、南太平洋海戦の各作戦に参加。そして、「大和」に移ったといいますから、ずっとゼロ観乗りだったのでしょうね。カタパルトで打ち出されるのも、熟練をようするのかな。それと、機種による慣れとかもあるのかもしれない。
「ついに、一度も観測機として役立つ機会に恵まれなかった」
という言葉が、印象にのこりました。

昭和20年2月、安田飛行兵曹長は「大和」を離れて六三一空に転勤を命じられます。特攻機「晴嵐」の操縦員になったけれど、出撃前に終戦になって、・・・・・

「晴嵐」!これってあの晴嵐?六三一空は第6艦隊(潜水艦)の飛行隊です。伊400、羽根をたたんだ飛行機を積んで、カタパルトで射ちだす世界初の潜水艦・・・
有泉司令官→真珠湾の特殊潜航艇→晴嵐大隊長は海兵72期の・・・伊400という大型潜水艦の建艦技術が、現代の原子力潜水艦をうみだした、などなど。
頭の中に次から次へと、いろいろなことが押し寄せてきてとまらない。


>「戦況が不利になっているのはおぼろげに知っていたが、われわれ下士官兵には、艦隊作戦の全般は知らされず、その場その場の命令に従って戦うだけにすぎなかった」

そして、かれらはみな自分の役割を果たして、仲間のために最善を尽して戦ったのでしょうね。











posted by shuuin at 19:51| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。