2007年05月24日

忖度すること

昨日は触れることができなかった、もう一つの特攻隊の後日談。

海軍の神風特別攻撃隊、関行男大尉にかかわる話なのです。

関大尉は前に触れたレイテ海戦のときの、敷島隊の隊長として有名です。いわば最初の特攻隊で、そのまた一番隊長ですから、いろいろと語り草にもなりますね。

あの海軍特別攻撃隊の隊員たちは、ほとんど全員がいわゆる予科練出でしたから、海軍兵学校からも誰か行かねばまずいのでは?
そんな空気の中で、関大尉がゆくことになるわけですが・・・

「私に行かせてください」
そう彼が申し出たというのが、まわりの関係者たちの言葉として残っていました。


ところが、戦後になって、あれはでっち上げで本人は行きたくはないのに命令されたのだ、という説が出てきます。

「彼の性格からして、絶対にそんなことを申し出るはずがない」
関大尉の幼馴染の友人とやらが、どこかでそう語っていました。まだ新婚ほやほやの妻を残して、自ら死を選ぶはずはない、と。

これを読んだときにも、やはり心の中に疑問符が浮かびました。
例え、どんなに仲の良い親友だとしても、そこまで言い切れるものだろうか?
まして兵学校で教育を受けて、戦闘機乗りになって最前線で決戦に臨んでいる人間の心を、そう簡単にきめつけられるのか?

そもそも一人の人間が、生死の関頭に立たされたとき選んだ決断や行動を、そこまで忖度してよいものだろうか?

もしも、関行男大尉が伝えられるとおりに、自ら選んでその行動をとっていたのだとしたら、友人の言葉は逆に死者を冒涜していることになりませんか。
命令されていやいやながら、仕方なしに突っ込んでいったんだ、などと決め付けることは誰にもできないはずです。

さまざまに、推し量って死者を偲んであげることと、勝手に忖度して決め付けてしまうのとは、まったく別のことです。

愛妻を残して、恋人を残して戦争にいった人は、数え切れないほどいたはずです。特攻でなくても戦場はいつだって、死と隣り合わせですから、かれらはみなその覚悟はできていたのでしょうね。

彼らを送り出した、基地指令の猪口航空参謀が確かいってましたね。
遅かれ早かれ、自分たちも死ぬんだと思っていた、と。






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2007年05月23日

それぞれの胸のうち


岸恵子主演の特攻隊の映画のことが、あちこちで少し話題に上っているようです。岸さん自身があちこちのテレビで、あの戦争のことを語ったりもしています。

完成試写会でだったか、「志願という名の命令で・・・」という言葉が最初にありましたが、「?」という気がしました。
それがモデルになった「特攻の母」の言葉なのか、岸恵子本人の言葉なのか、判然としなかったからです。

映画はフィクションですから、歴史をそのままに再現することは無理だとは、わかっています。ただ、この手の映画の時には、中途半端な作り物を見せられるのがこわくて、たいてい二の足を踏んでしまいます。

ただこの頃は、ちょっと違った考え方をするようになりました。
例えば昨年の「男たちの大和」にしても、おかしなところはたくさん目に付きますが、大勢の人が映画を見て評判になった。そのことに意味があると、感じはじめたのです。そこを入り口にして、昭和の歴史に関心が生まれれば、それはそれで無意味ではない、と。


ところで前から、特攻についてのあれこれで、いつも気になっていることがあります。

だいぶ前のことですが、こんな記事を読んだことがありました。
「うちの息子をつれていかないでほしかった。恨みます」
ある特攻機の操縦士の母親の悲痛な叫び・・・・・

あの昭和20年8月15日、終戦の詔勅をうけたあとで、宇垣纏中将が沖縄に特攻出撃しました。詔勅に逆らう形になってしまいますから、軍服の徽章もすべて剥ぎ取って、搭乗したといいます。
つまり宇垣中将は、自決するための特攻であったのですが、その機を操縦した若者の母親が後年もらしたという、恨みの言葉がこれだったのです。

宇垣纏は、かってブーゲンビルで山本五十六長官が撃墜されたときは、二番機に乗っていた聯合艦隊参謀長。自らも海に墜落して重傷を負います。山本五十六の遺骨を運ぶ「武蔵」で内地に帰り、海軍病院に入院。比島沖海戦(レイテ)では、「大和」艦橋にいましたが、その後は鹿屋基地で特攻隊の指揮を取っていました。
宇垣中将の特攻自決は、送り出した隊員たちの後を追ったのでしょう。
中将なりの責任の取り方、だったのではないでしょうか。

その時感じた違和感は、(果たして操縦を命じただろうか?)というものでした。もしかしたら、若者は「ご一緒させてください。私も連れて行ってください」と、すがって頼んだのかもしれない・・・・・・
もしも、もしもそうであったら、お母さんは息子の気持ちを貶めることにならないか?
そのときは、ふっとそんなことが頭をよぎりました。母親の気持ちはわかりますが、例え肉親であっても、死んでいった者の気持ちを忖度するのは難しいものです。

後になって、このとき同行した機が10数機だったと知りました。
かれらはみな特攻隊員だった。突然の終戦で目的を失った。後世の目で冷静に判断してれば、というのは無理でしょう。やり場のない興奮の中で、何時間か前に出撃した戦友たちの後を追ったのでしょうね。
終戦の詔勅を聞いて、ああ命拾いした、と思った若者はそうはいなかったような気がしてなりません。

余談ですが、少年時代ははいつも「自分だったらその時死ねるかか」と、心のうちで自問する癖がありました。もしも私がそこにいたら・・・迷わずいっしょに飛んだだろうな。

この、いってみれば最後の特攻隊の若者たちの、純粋な気持ちと純情さを素直に受け入れてあげたほうが、死者を悼むことになりはしないか?
そんな気がしてなりません。




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2007年05月16日

ねずみ輸送

ねずみ輸送といっても、ねずみを運んだわけではありません。
クロネコや、ペリカンがあるから、ねずみもあり?などと若い人につっこまれそうですが、それでもありません。

ねずみ輸送という呼び方は、かって水雷戦隊が、ガ島に陸軍部隊を運んだときに、こう呼んでいました。
度重なる輸送船の被害で窮余の一策、もともと人や物を運ぶようには造られていない駆逐艦で、ガダルカナルに夜間に強行陸揚げしたわけです。夜になって活躍するから鼠というわけ。

レイテ島の場合も、最後はネズミ輸送になったそうですが、こちらはいわば小ネズミ輸送?だった。

前に書いた輸送船続きの話なのですが、レイテの場合すでに船が足りなくなってるから、たまたまマニラ湾に入港した船は、片っ端から頼み込んで使ったといいます。
とにかく、師団を送り込むということになると、兵員だけで万単位になるわけです。装備も含めると大変な量で、当然大型船が何杯も必要。

レイテでは、あのレイテ湾の反対側オルモックに上陸したわけですが、そこが遠浅だったことがわざわいします。
海軍では、あのキスカ撤退作戦で有名な木村昌富少将の水雷戦隊などが、船団護衛につきました。が、船足のおそい輸送船にくわえて、沖泊まりしての揚陸に手間どるために、駆逐艦にも輸送船にも被害が甚大になってきます。

実は、陸軍航空隊の第四航空軍も、船団護衛をしていました。
この船団護衛というのが、かねてから南方戦線での四航軍の宿命だったといいます。
これが案外に大変だったらしい。数がいるし消耗する、と。
船団が出れば、夜明けから少なくとも一個中隊(12機)は船の上に置く。敵が来そうなときは、もう一個中隊いる。昼間明るいうちは、一時間から一時間半交代でずっとこれを続ける。つまり、百三四十機が必要になるわけですが、ひとりに二回ずつ出動させて不足をカバーする。その結果パイロットに疲労がたまる。護衛は受身だから、それだけ大変だそうです。いつも低いところを飛んでないといけない。そのため上空警戒の機と2層になって飛ぶそうです。
航空戦闘ではいかに敵の上につくかで、勝負が決まることは映画でもよくみますが、艦隊護衛は不利な戦闘を強いられて消耗する。
消耗とは撃墜されて、パイロットは死ぬということですよね。
どんな仕事にも、聞いてみて初めてわかる苦労がありますね。命がけで、縁の下の力持ちの役目を果たした男たち・・・・・

そうそう、小ネズミの話がまだ途中でした。当時はあちこちで、大発、漁船、機帆船まで十トンから三十トンぐらいの船を、内地から運んできて使っていたんですね。船員はいわゆるねじり鉢巻の漁船員たちでした。夜出発して、朝になるとどこかの島影に隠れて、夜になるとまた動きだして、マニラからレイテまで時に1週間かけて、運んだそうです。
空襲が激しくなって、ネズミ一匹漏らさないようになっても、やめるわけにはいきませんよね。

「船長を督励して『頼む』というと、あの人たちも気合が入ってましたね。『大丈夫ですよ、まかしてください』といってね・・・・」

ぐっときますね、この男たちの心意気に。
天気図をみて、明日からくずれそうだというと、「それっ」てでかけたそうです。悪天候なら、敵機が来ないから。でも、自分たちは小さな船で大変なはず・・・・・

このネズミさんたちも、帰ってこない人が多かったそうです。
通信能力不十分だから、どうなったかも、どんなに勇敢だったかもわからずじまいだそうです。
船を出しただけで、十二分に勇敢だったと思います。
無名だけれど、間違いなくこの人たちも昭和の日本人ですね。



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2007年05月12日

特攻と特攻隊と

「特攻は嫌いだ」
つい先日、朝のテレビでこう言い放った男がいた。まわりからカントクと呼ばれていたから、何かの監督なのか?よくバラエティー番組とかで見かける顔なのだが、名前は知らない。

それにしても、先の大戦での「特攻」という行為を、好きとか嫌いとかで判断するのか。戦後の教育は、とうとうこんな日本人を出現させたのかと、あきれました。ほんとに日本人なのかなあ?、と疑う始末。

近頃は、「先祖代々の」、「生粋の」、「純粋の」などなどと形容詞をつけないと日本人をあらわせない、と横からいわれて暗澹としました。
狭義の日本人と、そうでない日本人がいるのだそうです。

別に国粋主義とも、ナショナリズムとも関係ないですが、わたしは祖先からずっとこの島国に生きてきた人間のことを、形容詞などつけずに日本人と呼ぶことにする、ついにそう宣言する始末でした。
まさかまだ、昭和は遠くなってないよな?などとバカな問いも発しそうになって、あやうく踏みとどまりました。

ところで、先のばかげた発言は、何でも石原慎太郎都知事が作った映画のことだったようです。(ちゃんと視てなかったので曖昧?)

映画や本で「特攻」を扱っても、それを見たり読んだりしても、別にそれが「特攻」が好きということにはならない。
ただ、昭和の歴史にあった出来事を、ほんの一端にしても知って記憶しておくことが、大切なのだという気がします。

たしか、知覧といってましたが、あれは海軍の基地だったかな?

レイテ海戦のとき、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将が生み出したということで、特攻隊といえば海軍特別攻撃隊が有名です。
あのサマール沖で、栗田艦隊の反転した直後に、敷島隊などが突っ込んだことは前にも触れました。

実は、陸軍にも特攻隊はあったのですね。レイテ島に、空挺部隊の特攻というのもありました。
海軍とはまたすこし事情が違って生まれたそうですが、それはまた別の機会に書くことにして・・・・・


あの捷一号作戦で、レイテ島には陸軍の兵力が次々に送り込まれたわけですが、そのための足は輸送船が受け持つことになります。
それを担当したのは、第三船舶輸送司令部(シンガポール)です。
ちなみに、船舶輸送というのは、内地,外地を問わずその間のあらゆる物資や資材の輸送を担当する、陸軍船舶司令部(宇品)という独立した部門でした。
戦場に兵隊や装備や糧秣を運ぶのは、作戦輸送。

で、その第三船舶輸送司令官稲田正純少将の言葉。
「この作戦輸送をどうやったか、一言でいえば私の仕事は船員たちに、『行って死んでくれ』と頼むことでした。どんどん兵隊たちを送り込まねばならぬのに、どんどん船が沈む。うまく上陸させても帰りに沈められる。仮に帰ってきても、また行かねばならぬ。船がないんですから一度でお役ごめんというわけにいかない。沈められるまで行かねばならんのです」
マニラとレイテの間を三度往復できた船は、多くの輸送船が動いた中で、たった一隻だけだったそうです。
『死んでくれ』というよりほかに、言い様もやりようもなかった、と。

船員さんたちは、地方人(民間人のこと、軍隊では一般人をそう呼んでいた)ですから、特攻隊とは呼ばないですよね。でもこれは、その心は特攻とおなじではないでしょうか。

船を出すときは、山下奉文司令長官が船長や高級船員を呼んでご馳走をしたとか。これなども、せめてもの司令官の心づくしですか。
それを見習ってか、稲田少将は帰ってきた時に席を設けて、輸送の様子を聞くことにしたそうです。
「みんな九死に一生を得て帰った苦労話のあとで、『すまんがもういっぺん行ってくれんか』と頼むのです。頼む方はつらいが、頼まれるほうはしかしいやな顔はしませんでしたね」

あの昭和、戦前の日本人はそうだったんですよね。頼まれたらいやとはいえない。むしろ頼むほうの辛さまで察して、黙って呑み込んでしまう。みなまで言うなよ、と以心伝心。男は黙って死にに行く、といったらいいすぎでしょうが、うまくいえないけど、何か今と違う日本人の一体感というものが確かにありました。少なくとも自分の命を惜しんで、しり込みするようなことはしなかったでしょうね。

そのときの船長や高級船員の訴えで、決して忘れることのできないことがある、と稲田氏が戦後語っています。

その頃の船は、壮年の船員が全部兵隊にとられてますから、幹部は40歳以上、残りは十代の少年がほとんどだったそうです。
その若者たちが兵隊を運んでいて、自分とあまり年の変わらぬものが向こうは兵隊で死ぬ、われわれは地方人で死ななければならない。同じ死ぬなら、軍服を着て死なせてくれと船長たちに訴える、と。

ここまで読んだときには、不覚にも涙がでました。少年たちのいじらしい願いにです。
死ぬのがいやだというのではなくて、せめて死地に赴くにふさわしい装束を・・・・・
この若者たちはきっと、年の近い兵隊たちと心情的に同化して死んでゆきたかったのではないでしょうか。同じユニフォームで戦いたい、そういうことだったのでは?

「そんなことをいうな。船員は大切な仕事なんだから」と慰めても、
「どうか、これだけは聞いてやってくれ」と、船長たちは涙を流していったといいます。いっしょに死地に連れてゆく若い者のささやかな願いを、何とかかなえてやろうという船長たちの姿にも胸を打たれます。船長らと若い船員たちの年回りは、ちょうど親子の関係になりますか。

勇敢な船員たちの海員魂にも、昭和の日本人の誇りを感じますし、私にとっても忘れられない話になりました。

これらの記録の上では無名の人々のことを、日本人が時に思い出すことも、ささやかながらひとつの鎮魂になるような気がするのですが。












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2007年05月11日

参謀長の胸中は

レイテ海戦の栗田艦隊の反転に触れた最後は、参謀長小柳富次少将の発言の中で、ちょっと気になったことを書いておきます。

味方の各艦があと一歩のところまで、敵を追い詰めていたことがわからなかった、と。「大和」の位置がそれほど後方だったことになりますか。

このとき、敵の逃げてる先にレイテ湾があったのですから、米軍側は日本艦隊を引き連れて来てることに、困惑していた。
しかもこのとき、米軍側は弾薬や魚雷が足りなくなっていた。もっともこれはあとからわかったことですが。
それで、敵機の多くがなんとフェイク攻撃を繰り返したといいます。でも、見せ掛けのフェイントでも、雷撃機が突っ込んでくれば、艦は回避運動をする。それで追い足が鈍ることになる。

「どうせもう、上陸した後だから(初上陸は5日前)湾内は空っぽではないか?」
これは、出撃前にもそんなことをいってました。
「せめて湾内の様子が見えたらと思っても、もう飛行機は飛ばしてしまってない」
あの、北に走ったために飛ばした艦載機は、こんなところで響いてきました。
「それと、スリガオ海峡で西村艦隊や志摩艦隊を叩いた敵艦船群がレイテにもどって待ち構えているんではないか?」
日本の両艦隊の結末は、志摩長官からの電報が栗田司令部に届いてわかっていたのですが、これでは敵艦隊の威力を恐れているように聞こえます。

首をかしげたのは、次の一言です。
「それに敵は湾の入り口に機雷網を敷いているかもしれない。自分たちだけは通路がわかるようにして」

?????オイオイ、そんなことはこの期に及んでいうことか?

日本海軍の最後をかけて、「レイテ湾突入」と決めて、決死の出撃をして生還を期せずだったはずなのに、機雷があるかもしれないとは・・・
今更それはないだろう、という気がします。

ここで思わず本音が出てしまったなと、どうしても思ってしまいます。

「大和」の通信士が艦橋に報告に上ったときに、参謀長と栗田長官だけが防弾チョッキを着ているのを目にして、驚いたという話と符丁があってきます。「うちの長官と艦長は端然と白服でいるのに」は、宇垣中将と森下大佐ですね。

防弾チョッキ組は、やっぱりちょっと命が惜しい口だった?、とつい考えたくなります。

それと、輸送船なんか相手にしたって、というのが海軍軍人なら当然の考え方である、と参謀長は再三いっています。
もし、その輸送船群をやられていたら、戦争に負けないまでも取り返しのつかないほどの深いダメージを負っていた、というのは米軍側。

あの時、レイテ湾には100隻からの艦船がひしめいて、物資や兵員の陸揚げの順番を待っていたといいます。








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2007年05月08日

海軍軍令部作戦室


昭和19年当時、霞ヶ関の海軍省の三階に、軍令部がありました。
作戦室は南側、中央に大机6つくっつけて、畳6畳分の作戦図が拡げてあった。
インド洋から太平洋の東半分までの地図の上に、コマを置いて、敵味方の位置、兵力、艦船の種類を示すというしかけです。

毎朝そこに、軍令部総長及川古志郎大将、海軍大臣米内光政大将、各局長、部長、課長まで、大佐以上の首脳部が2、30人集まるわけですね。
そこで、第一部(作戦)の当直幕僚が10分間ぐらい、前日の戦況説明をする。これは6人の中佐の輪番制。

この説明会は軍令部の日課だそうで、総長と大臣は必ず出たといいます。それというのが、戦況というのは特別のことがない限り、この二人に一々報告しないのだそうです。

ちょっと驚きました、大将たちは出席しないと、前線がどうなってるか分からなかったんですね。ここで戦況を聞くのが普通だったといいますから。

作戦計画の検討をする場合は、この戦況説明が終わってから改めてしたといいます。
さしずめ、米内海相は退席する、なんて想像してしまいますね。

作戦室には各地から、報告、行動、命令などなど次々に電報が入ってくる。幕僚が整理して資料にまとめるわけですが、戦況逼迫のこの頃は、中佐幕僚も多忙を極めたようです。
事務的な仕事は兵学校出の若いのにやらせよう、ということで野村實中尉はマリアナ海戦出撃直前に、「瑞鶴」電測士から軍令部に転任したというわけでした。

その野村中尉が、栗田艦隊反転を知ったときの、軍令部の人たちの反応をつぶさに見ていました。

戦況は逐一、海軍省内の東京通信隊で受けて、暗号を翻訳して持ってくるから早いのは一時間、遅くとも2時間で届いたとか。
現代の通信と比較しても意味がない。パソコンと人力の違いですが、考えようではそれだけ人間の能力にかかる比重も大きかったといえそうです。
東京通信隊は設備もよく人も多かったから、よくとったそうです。つまり通信傍受の能力があったということでですか。
電報は1日で2、3寸たまるそうです。懐かしい単位ですね、モダンな海軍でもここは尺貫法。

でも、ひとつも愁眉を開かせるものがなかった。悲報ばかり10センチもたまったら、たまりませんね。アレッツ?

しかし、戦況がどうあれ、栗田さんの艦隊に進撃してもらうほかわない――――全員の祈るような願いだったでしょうね。

同じ海軍だから、艦隊の乗組員はみんな自分の友達、上は上なりに下は下なりに、みんな良く知っている人たちが乗っている。いわばおなじ血がかよっている。栗田艦隊のなめている辛さは、直接こっちにも通じてくる。それでも、なんとしても進撃してもらわなきゃならん、そういう全員の空気だったといいます。

だから、栗田艦隊の反転の電報は軍令部の全員にとってショックだった、と。

作戦室は神聖な場所で、みな百戦のつわものだから、大騒ぎになることはなかったが、口々に進撃しなければいかん、といったそうです。
いまやらなければ、帰ってきてももう戦争は二度とできない、それなら失敗しても戦うしかない。
第一部長中沢佑少将は、特に強い語調でそういった。及川総長も軍令部次長伊藤整一中将も同じ意見。

引き返してもいいという意見は、ひとつも出なかったといいます。

引き返したら、作戦全部がダメになる。小澤さんも西村さんも志摩さんも、基地航空隊も全部ダメになる。それに、引き返したところで、相手は飛行機だからすぐに追いつかれてしまう・・・・・・・

やはりみなそう考えていたのですね。栗田艦隊のレイテ湾突入という目的のためだけに、すべての将兵が身を犠牲にしてもと支援していた。その全部を無にするような作戦中止を、どうして決められるのかと不思議でならなかったのですが。
みなの犠牲が無駄死になる、必死の奮闘も辛苦も水泡に帰する、そのことをダメになるという言葉で現したのでしょうね。


それでも栗田健男とその幕僚は、その反転をやってのけました。




タグ:海軍 戦況 犠牲
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2007年05月05日

軍令部では

栗田艦隊の反転の報に接したその日の霞ヶ関の軍令部の反応は?

海軍軍令部というのも、離れたところでかなり的確に状況を把握していたのだな、と感じさせるものがあるので少し詳しく書きます。

あの真夜中にサン・ベルナルディーノ海峡を抜けるときに、栗田司令部は兵力と行動予定を打ってきたそうです。
戦艦4、巡洋艦8、その他駆逐艦などが、攻撃に向かっている、と。軍令部作戦室では、まだかなり戦力が残っていると、ほっとしたようです。というのは、シブヤン海でどのくらいがやられてしまったのか、分からなかったからです。

で次は、海峡の出口で待ち構える敵機動部隊との交戦を予期します。戦闘が起これば電報が殺到するはず。
ところが、それが一向に来ない・・・・・??
そのうち、恒例の朝の作戦説明の時間になった。定刻08:30に毎朝これをやってたのですね。

及川総長、伊藤次長、米内海相、井上次官ほか20名ほどがあつまって来た。当直幕僚が、経過を報告します。
栗田艦隊は進撃を続行中、小澤艦隊は昨日艦載機を放って攻撃したが戦果報告は未着、基地航空の総攻撃で敵空母一が炎上し大傾斜してる、味方潜水艦12隻はサマール島東岸に突撃に転じた。
そして今朝入った最新情報として、西村艦隊ほぼ全滅、志摩艦隊は魚雷攻撃のあと退避行動に入った。

さすがというか、当たり前というか、10月25日の朝の時点ではほぼ完璧に状況を把握してますね。
実は小澤艦隊は、まだ発見してもらえなかったから、報告はしようがない。炎上して傾斜してるのが軽空母プリンストン、これは基地航空の彗星艦爆の一機が、敵艦長に悪魔のような巧みさといわせた技量で、結果的に沈めたもの。実はハルゼーが、小澤機動部隊がいるのでは?と、疑うきっかけになったのですから、戦場の機微はここにも。ハルゼーはこの彗星艦爆が空母から来たものと思ったのですね。
ほかにはいつも忘れられてしまいがちな潜水艦部隊はレイテの海に突撃して、たしか半数以上が還らなかった・・・・・


で、この説明の終わるころ、突然作戦室の電話が鳴りだした。
埼玉県大和田村の海軍通信隊から。こんなところに敵信傍受専門の通信隊があったんですね。
米軍の緊急平文電報を傍受したから、との知らせ。
「われわれは今、敵の戦艦4、巡洋艦8、駆逐艦多数から砲撃を受けている。緊急援助をこう」
最後に、This is not a drill.

実は、この電話をとった方がそのとき作戦記録担当の野村實中尉。
いまでも、あちこちで活躍されてるから、知ってる人も多いかもしれない。シュミレーションゲームの監修とかもしてたかな?

軍令部の電話が、箱型の手回しハンドルの旧式のやつだったとは、ちょっと想像のほかですね。
で、聞こえないから、エッ、エッて聞き返す。
静かな部屋で、総長、大臣以下耳を澄ましてる?
横から、つっと受話器をとったのが、航空参謀の源田實大佐だったと。かっては南雲艦隊の航空参謀、戦後参議院議員にもなって、航空自衛隊の誕生はこの人の力といわれてますが、このときはここにいた。このときの電話は、敵の傍受電だけでは信用できなかったのか、源田大佐がのみこんで披瀝しなかったそうです。

そのあと、栗田艦隊からの報告がはいるのですが・・・・・

ちなみに伊藤次長は、沖縄特攻のあの伊藤聖一中将です。



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2007年05月04日

歴史のif

栗田艦隊の反転について、マッカーサーの側近でその伝記を著した人物(たしか情報畑の中将だったか)が、どこかに書いています。

戦後、小柳参謀長がいくら論理的に言い訳しても、あれは間違いであった、と。
つまり、栗田中将の判断は司令官として誤りであった、と明言しています。
そう考える人は、米軍側には少なくなかったようです。
逆に、正しい判断と評価したものは無かった、と。

昭和19年10月25日のこのレイテ海戦が、『第二次大戦中のアメリカ軍の最大の危機』であった、などとは日本側は夢にも知らなかったわけです。

よく歴史にif はないといわれます。
私自身、そういう仮定で云々する類のことは嫌いなのですが、栗田艦隊が命令にしたがって突入していたら、現出したであろうことを知ってみると、驚いて言葉にならなくなります。


レイテ湾に突入しなかったばっかりに、一万何千の将兵が助かったからと、栗田健男を庇護する声もあります。でも、突入していたら、直後にレイテ島での八万近い戦死者をだすことは避けられたでしょうね。

それどころか、早くに停戦が成立して(無論、日本の敗戦は決まりですが)、日米双方ともその後の多大の犠牲は避けられた可能性が高かったと思われます。

硫黄島戦も、沖縄戦も、原爆投下もなかったかもしれない。

そう考えると、一提督の判断に過ぎないけれど、恐ろしいほど重大な歴史的反転だった・・・・・
歴史とは極めて個人のものだ、という思いがあらためてよぎります。

無謀な、やけくそに近いといわれる「捷一号作戦」そのものが、場合の作戦としては間違ってはいなかったのでは?

戦争は多分に水物である、戦機は一瞬にして去る、そんな言葉が次々浮かんできます。




posted by shuuin at 14:26| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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