2007年06月03日

死の約束

例の栗田艦隊が、レイテの湾頭で突入をやめて引き返したのが、昭和19年10月25日。その半月後の11月9日には、実は14方面軍司令官の山下奉文大将は、南方総軍に「レイテ決戦中止」の意見具申をしています。

南方総軍→第十四方面軍→第三十五軍、という命令系統があって、それぞれ総軍・方面軍・軍という呼び方をしてました。その「軍」のもとにいくつかの師団があるわけです。
で、総軍の司令官が寺内寿一元帥、寺内正毅伯爵の長男ですね。
その寺内が「やれ」といえば、山下は「はい」といわざるを得ない。
実際にもこれに近いやり取りだったとか。結果として、レイテ決戦は続行されたわけです。
それとちょっと余談ですが、よく歴史の証言とか読んでいると、「その時、軍はこれこれと判断していた」などと出てきます。この軍を、陸軍とか軍部とか参謀本部とか、と思いがちですが、方面軍の下の軍をさしている事がよくあります。気をつけないと、とんでもない読み違いをしてしまいます。

そのレイテに投入された戦力のひとつに、昨日ふれた「高千穂挺身隊」と「薫空挺隊」がありました。
数の上では微々たるもの、戦果のほどもわずかにすぎなければ、誰にも知られることもないかもしれません。でも、そこにも一人一人の人間が、日本人がいたのだということは知っておいてもバチはあたらない、そんな気がするのですが。

今の冒険小説や映画でいえば、さしずめ特殊部隊とか、レインジャー部隊といったところですか。高千穂とか、薫とかの呼称も日本式のコードネームですね。

実はこの二つは、所属も編成もまったく別のものなのです。高千穂は航空総監部所属ですから、東京直属の部隊で2個連隊の約千人がフィリピンに来ていた。薫はもともとが地上の切り込み部隊(こんなのがあったのですね。切り込み決死隊)、20数名だったとか。
薫の親部隊はモロタイ島にいたけれど、落下傘部隊と一緒に使うということで、派遣されたわけです。
でも、地上部隊は降下訓練していない?そこなんですが、これが最初から胴体着陸をして地上戦闘するという計画です。

「切り込み」というと、日本刀だけでと考えますが、銃器を持っていてもこういう決死隊をこう呼んでいたのですね。まあ弾がなくなれば、最後は白兵戦になるでしょうが・・・・・

彼らの戦いは、初めから生還が期し難いのですから、やはり特攻ですよね。出撃前から、確実に死が約束されていた。
その目標はレイテ湾近くにあって、すでに敵に奪われてしまった日本の4つの飛行場でした。
地上から呼応するはずの日本軍は、すでに師団が全滅したりしてる時ですから、まったく単独で敵中に飛び込むことになります。

こんな作戦で何かが変わるわけではなかったでしょうが、飛行場を奪えばバランスが変わるかもしれない、そんな考えで決行されました。

この飛行場にむかった高千穂挺身隊にも、薫空挺隊にも一人の生還者もありませんでした。

日本側には、戦闘記録もない薫空挺隊ですが、その出発を見送っていた報道班員の方がいました。同盟通信の特派員ですが、どうせ死ぬなら新聞記者として死にたいと、志願してフィリピンにいったそうです。
そして、「薫」に出会うわけですが、非常に特殊な部隊で、隠匿勢力というか忍者部隊のようなものだった、と。
地味な部隊で、ほとんど知られることなく死んでいった。そのことがとても気の毒で、記憶に焼きついていると、後に語っています。

最初に第四航空軍をたずねていったら、参謀の一人が地区司令部にいって話を聞いてみろとなぞめいたことをいった。地区指令にあって一緒の風呂に入るまでになってから、そこで薫部隊の話を知ったといいます。
秘密部隊ですから、おいそれと新聞記者に教えるはずもないですよね。
司令官としても、誰にも知られないままに死なせるのは、あまりにかわいそうだと思ったんでしょう、とその記者はいってます。

ジャングルの奥の飛行場の、粗末な二軒の家にいたそうです。着いてすぐに感じたのは、隊員同士の仲がよくて、気持がいい。炊事なんかも、兵士も士官もなくて、みんなで一緒にしてたそうです。

よく似てますね、ラクビー部の合宿所みたいだったという、落下傘部隊の隊員たちの雰囲気と。

第四航空軍ですが、これは総軍の隷下にあります。前の船舶司令部もそうですが、いずれも山下奉文大将の指揮下にないのですから、山下司令官も苦労したようです。比島作戦というとすべてが、山下奉文ということにされますけれど、実際は違う。ほかに海軍も別ですから、なにをするにも連携が大変だったとか。

そんなことより、高千穂挺身隊や薫空挺隊を送るのは第四航空軍の役目。特に薫は強行着陸ですから、操縦士や整備員も切り込みです。
つまりこの人たちもまた、名も無き特攻だったわけです。
ダグラス4機に、操縦士と整備員が8人いった、と。

ダグラスというのは、その方が人数が乗れたからだといいます。
米軍機で行くからといって、敵を欺くためじゃないんだと、日の丸を鮮やかに塗りなおしていったそうです。いかにも、日本人らしいと、思いませんか?

薫空挺隊の隊長、若き中尉の出発前のエピソードにも、ふっと胸をつくものがありましたが、それはまた別の機会に。

送り出した第四航空軍の司令長官が、あの富永恭次中将なのがちょっと引っかかるのですが・・・・・










posted by shuuin at 16:54| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月02日

若者の笑顔

読書だけは、日々欠かさないのだが、日記は頭の中だけで終わっている。

一方通行のブログに、いわゆるモチベーションがさがった状態なのかもしれない。

そんなところで昨日、ある若手大学教授のサイトに偶然に入ってしまった。専門は経済学者らしいのだが、軍事も手がけているようで、昭和の戦争もかなり調べてはいらっしゃる。

ところで、特攻自然発生説というのがでてきましたが、そんな説があったとは知りませんでした。さしずめ教授の立場は、特攻上層部強制説になりますか。

その記事のなかに、一枚の写真がありました。出撃前に、司令官と盃を交わすところなのですが、みな笑顔なのです。その説明が、「笑顔からはうかがい知るよしもないが、・・・・」
要するに仲間の手前、弱虫といわれないために笑っているというのですね。
ということは、それが作り笑いということになりますが?

ここですぐに浮かんだのが、いつか触れようと思っていた陸軍の落下傘部隊の話です。
空の神兵と歌われた、パレンパンの落下傘降下は有名ですね。そのあとシナで訓練を続けていた空挺団でしたが、二度目があのレイテ島でした。

高千穂挺身隊と、薫空挺隊がそれですが、戦後もほとんど知られることもなく、歴史の闇に消えています。

戦闘記録の残っていない部隊、帰らざる部隊だったのです。

そのときに従軍画家だった吉岡賢二画伯が、出撃直前のスナップを撮り、それが貴重な記録になっているようです。

で、その吉岡画伯の次のような証言があります。

「わたしが一緒に暮らした感じでは、これが特攻隊だという、せっぱつまった緊張感みたいなものは全然ありませんでした。ひどくなごやかで、朗らかで・・・・。どういえばいいのか、ちょうどラクビー部の合宿所にいるような雰囲気でしたね。隊員の中にはひげをはやした人もいたが、みんな若い人でした」


いよいよ出発のときに、送る方は感傷的な気持ちなのに、送られるほうは冗談を言っていたそうです。

覚悟を決めてしまったとき、人は吹っ切れるとかいいますが、死地に向かう仲間の連帯感がそんな雰囲気を生んだのでしょうか?

作り笑いなんかではなくて、自然に浮かんだ笑顔だったんだなと思うことで、少し救われるのですが・・・・・

薫空挺隊のことは、明日書きます。






ラベル:落下傘 笑顔
posted by shuuin at 20:11| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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