2007年06月11日

五十六と千秋

戦艦「大和」の完成は、昭和16年12月16日。

そうです、真珠湾攻撃の8日後です。

間に合わなかった?
と思う人もいるようですが、もともと「大和」の速力では、空母と一緒は無理なので、最初から想定外。
機動部隊の援護は、高速戦艦「金剛」・「扶桑」らが務めました。

で、「武蔵」の完成は翌17年8月5日。
ミッドウエイ海戦は6月すでに終わっていました。

ところで、あれだけの巨大戦艦ですから、建艦には工期がかかります。まずその計画がたてられたのが、満州事変のあとで、しかも陸軍も参謀本部もまったく知らされてなかった。

総力戦といいながらこの始末、とは参謀本部のだれやらのぼやきにありました。

たしか昭和11年には、海軍軍縮条約の有効期限がきれるため、各国が建艦競争に入ると、予測されていましたね。
海軍は、それに乗り遅れまいとしたのでしょうね。

それにしても、軍事予算の組み方とか、それぞれの機密保持とか、いろいろ興味はつきませんが。現在だったら、あっという間にバレバレでしょうね。


ところで海軍内でも、意見はわかれて、山本五十六大将などは反対だったといいます。
それでも、「大和」級は生まれたのですから、かなりの力がはたらいた?

いつかどこかの座談会での、松田千秋少将の発言。
「『大和』はおれが造らせたんだ。だから、最後を看取ったんだ」
と、いうようなことを読んだことがありました。
オレがつくらせた、というのがすごく印象に残っていました。

松田少将は、捷一号作戦のとき、小澤機動部隊の第四航空戦隊司令長官。旗艦「日向」に乗って、「伊勢」「大淀」「多摩」を率いて、ハルゼー釣り上げに成功している。
栗田健男の反転を怒っている一人でもあります。

最後を看取ったというのは、あの昭和20年の「北号作戦」で、奇跡に近い内地回送任務を完遂して持ち帰った油のこと。

沖縄に出撃する「大和」の、伊藤聖一長官に頼まれて燃料を回したことをさしています。

その松田千秋は艦長としても、戦術家としてもかなりの海軍軍人のようですが、大艦巨砲主義者だった?
一時、軍令部にいたことがあるから、そのときにでも、「大和」をつくらせた?
しらべたら専門はやはり砲術でした。

若い人から、「彼は山本五十六を批判してますよ」といわれたことがあります。なにをどういっているのか、聞かなかったのですが・・・・

山本五十六は親米派、松田千秋は駐米武官経験者には珍しい反米派だったとか。

二人の考えは、事毎に反対だったかも。
例の南進論とやらも、山本反対、松田賛成だったかも知れませんね。

海兵32期と44期、だいぶ離れた二人ですが、開戦後山本長官の聯合艦隊司令部にいた黒島亀人は44期。
まったくかけ離れてるわけでもないですね。

だいぶ後になって、松田が山本を批判しても、死者は反論もできません。毀誉褒貶も時の運?

人の好悪って、ずっと尾を引くこともあるようですしね。

それにしても、その「大和」に座乗し、遺骨になって「武蔵」で還った山本長官の運命も、ちょっと不思議な気もします。


















posted by shuuin at 19:03| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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