2007年06月21日

歩兵の戦法

陸軍の歩兵の戦法が、どんなものであったかなどと、どうでもいいことなのかもしれません。けれど、新戦法に変わった、だけではなんかぴんときまから、少し細かいところまで・・・・

ところで、近代戦になっても、最後には歩兵が出てゆかないと決着はつかない、といわれます。
IT使用の機械の戦闘?になっても、やはりそうなのかもしれません。

で、前線に歩兵が到着して、まず散開をします。
映画などでもよく見かける、あたりにさっと広がる、あれですね。

従来は横一列散開で、横一文字に広がってそれぞれが何かの影に隠れて射撃姿勢に入る。さもなければ、その場にがばっと身を伏せて、射撃の構えに入る。

これは第一次大戦のドイツの戦法に、範をとっていました。つまり明治以来、ずっと続いてきたわけです。

その戦法が、このときに傘型散開というのに変わったのです。
敵に向かって傘を拡げかけたような形で、散開する。その傘の先端に、軽機関銃が進出するという陣形。
それと、新戦法では散開するとまず、自分のもぐる壕を掘る。

この辺からも、対ソ戦法だということがはっきりしてきます。
なぜなら、まさに当時のソ連歩兵の火力の中心は、重機関銃だったからです。それに対応するための戦法でした。

重機というのは曰く、「連続的にタマを撃ち込む機械」、だそうです。
つまり、パンパン、バリバリではなく、ドッド、ドッド、だと。
で、歩兵が横一線に散開したら、一薙ぎで全滅してしまいます。

それではどうするか?縦に散開して、身を避ける穴を掘って、重機の掃射をかわす。分隊の先頭に、軽機を置いて敵の火力に対抗する。それがつまり、対ソ戦法の傘型散開だったわけです。
従来は歩兵の間隔は4歩だったのが、6歩になつた、と。

ばらばらっと散ってるようでも、なんと歩数まで決まっていた。一度の被害を少しでも減らすために、より広く開くとか・・・・・

ところで従来の歩兵操典の、小隊の編成は6個分隊で、第1から第4までが小銃分隊で、第5,6が軽機関銃分隊。
小銃分隊は分隊長以下12人、軽機隊は分隊長と射手、小銃持つものが6人の8人編成。
つまりは、一小隊に軽機関銃は2丁だけ。中隊全体でたった6丁。あとは三八式歩兵銃だけでは、とても近代戦どころではない?

新操典では、小銃隊と軽機隊の区別をなくして、第1、2,3分隊が軽機と小銃、第4が擲弾筒分隊に変更された。
一分隊の兵員数は16人になった。
試しに、算数的計算をしてみたら、小隊の人数は64名で増減はありません。
軽機関銃が1つ増えて、あと擲弾筒という火力がふえました。
日本陸軍には、まだ迫撃砲は採用されてなかった?

歩兵の装備という点でも、早くから懸念されてたように、かなり遅れていたかもしれない気がします。
三八式歩兵銃というのも、とうとう昭和20年の終戦まで使われましたが、自動小銃をつくる技術がなかったわけじゃない。ただ、昔に大量にその銃の弾を作ってしまって、いわゆる弾のストックがたくさんあったから、とどこかで読んだ記憶があります。
弾にあわせて、銃を造っていたのかと、呆れたことが・・・・

それはともかく、昭和12年5月の時点、つまり盧溝橋事件の2ヶ月前の時点に、陸軍の歩兵操典が変わりました。
現場にしてみれば、下士官も兵たちも、いや上官にとっても、まさに革命的な変更になりますね。

サッカーやバスケットボールの、フォーメーションが変わったどころの騒ぎじゃない?当然、目の色変えて訓練をはじめます。

しかも、夜戦訓練で、歩兵の戦法は最後は白兵戦を想定してますから、激しさはいよいよ増します。
おまけに、都会っ子の新兵の体力増強が加わって、途中でしくじったら、また一からやり直しとか。


これを、河原の上から眺める中国軍としたら、この変化を日本軍がなにかたくらんでると、考えたとしても無理ないでしょうね。

相手の目に、どう映ってるかを考えていなかった?現地や内地の上官たちに、問題があったといえるかも。
こちらは、まったくこちらだけの思惑、事情で動いていたわけですけど。

戦法や操典の改訂をしていた、陸軍歩兵学校教官の千田大佐が、関東軍はじめ各地をまわって、対ソ戦法の説明や実地訓練をしたわけですが、シナ駐屯軍のところに来たのも、その一環。
同じ時期に、陸軍じゅうが新しい戦法に早く慣熟しようと、やっきになりはじめていたのですけどね。
傍目にどう映るかなどは、考える由もなかった?


ラベル:戦法 射撃 想定
posted by shuuin at 18:52| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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