2007年07月04日

キューマ危機?

マスコミのネーミングにも、時々感心するようなものが登場する。

今回のこれも、後世の政治史に名を残すかどうかはわからない?
「しょうがない」大臣といっても、普通名詞みたいにたくさんの該当者がいらっしゃるでしょうしね。

「しかし、バとマは通音だし、うまいこという」と感心したら、JFK のキューバ危機を知らない世代には、ただの駄洒落以下だよ、といわれてしまった。
「JFKはいま、JKFだよ」と阪神ファンから横槍が入った。意味違うんだけど?
かくして現代はいよいよ、混迷の度合いを深めていきます。

たまたま、読んでいたものの中に、「統制派、皇道派というのは報道陣が勝手につけた呼び名です。当人たちは、まったくそんなこと、思ってもいなかった」という証言がありました。
相沢事件から226事件の前後で、昭和史を語る上の歴史用語として定着してる言葉が、当時のマスコミ、多分新聞記者の作り出したものだとするとちょっと驚きます。いや、案外そんな例はたくさんあるのかもしれません。

この元防衛大臣はもともと重量不足で、就任挨拶からひどく違和感を覚えた人物でしたから、今更驚きません。
ただ、歴史をまったく知らない、半可通の発言にちょっと腹がたちます。

昭和20年の、ヤルタ会談からポツダム会談にいたるあたりのことを、少しでも知っていれば、こんな浅薄な講演ができるはずがない。

人道的見地から、原水爆の使用そのものを問うのはこの際別にしますが・・・・・

ソ連を対日参戦させようと、懸命に誘いかけたのはそもそもアメリカだったはず。
ヤルタ会談に集まった三巨頭、これも今考えるとずいぶん思い上がったものに思えますが、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三人が集まったのは、大戦後の獲物の分捕り合戦?といえば言葉が過ぎますが、実体はまさにそれ。
このときの秘密協定で、千島樺太を餌にソ連参戦を頼んだのがルーズベルト米大統領です。これが確か20年2月。

その年の7月17日から8月2日にかけて、ポツダムで米英ソの三巨頭が再び会談します。ベルリン郊外のポツダムでということは、すでにドイツが降伏していたからで、日本ではこの会談で決まったポツダム宣言=日本の無条件降伏だったことから、対日戦終結のための会談と捉えますが、比重の大半はドイツ、ポーランドの戦後処理の問題にあったといわれます。

ところで、ヤルタからポツダムの間に、ルーズベルト大統領が亡くなって、米大統領は副大統領のトルーマンが昇格します。トルーマンは初めての、対外会議でかなりの緊張をしていたといいます。英首相チャーチルが頼りだったようです。そして、この会談では一人スターリンが上機嫌で主役だったといわれます。
ドイツ、ポーランドに対する賠償や領土欲の強さに、チャーチルが警戒感を深めてスターリンを牽制したのもこのときです。
そのチャーチルも、英国選挙で保守党が破れたため、会談の途中で労働党の新首相アトリーと交代しています。

こんなドラマがあったことなど、無論日本側はまさに「神ならぬ身の知る由もなし」でした。

ところでアメリカ側はルーズベルトが、米軍の人的損害をこれ以上増やさないために、戦後鹵獲するはずの領土を割いても、ソ連の対日参戦を希求したのでした。
ところが、たしかトルーマンがポツダムにむかう船上でか、着いてからかに、かねて開発中の新型爆弾=原爆の完成が知らされます。
つまりその時点で急に、わざわざソ連に頼まなくても、日本に勝てることがはっきりしたのでしたが・・・・・・・・

スターリンはなんとなくそれを悟って、あるいは情報網もあったかもしれませんが、分け前にありつけなくなってはまずいと、あわてて参戦して日本がポツダム宣言受諾した後で、樺太はじめ北方領土の島々に攻め込んだわけです。


米軍は、ソ連占領から日本を守るために、やむを得ず原爆を落としたわけでは、決してない。それだけは、はっきりしています。
ただ、結果論として、占領軍が米軍であったことで、ともかくいまの日本が残ったとはいえるでしょう。


日本人はお人よしですから、たとえば京都や奈良の古都は、空襲されないだろうなどと当時思っていました。原爆の標的にされてた都市がどこであったかを知ったら、今でもびっくりするはずです。標的候補はいくつもあったのですから。

たしか、長崎なども上空の雲のかげんで選ばれてしまった、不幸な都市だったわけですよね。あの日、長崎はこよなく晴れた青空だった・・・・・
いろいろな意味で、原爆はわれわれ日本人全員の、頭の上に投下されたともいえるかもしれません。


ところで、ポツダムに集まった首脳たちはだれも、天皇の戦争責任などは口にしなかったそうです。
天皇の戦争責任を言ったのは、連合国では中国の蒋介石だけだったのです。







posted by shuuin at 19:02| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月02日

歴史の因縁

日本の周りの全方位で、日々さまざまなことが起こり続けています。その多くが、好むと好まざるとにかかわらず日本にからんでくるのですから、現代世界の中で一国が生存してゆくことは、大変なことだなとつくづく思います。

かねてから、いろいろな意味で日本の戦後は終わっていないというのが持論でしたが、この頃とみにその感を深くします。

いわゆる特亜とかいわれる地域がらみのことは、すべてがそうだといっても過言ではないでしょう。
他方では、いまわれわれが頼らざるを得ないアメリカが、発信してくる下院議決とか、南京事件映画のようなものまであります。
硫黄島の読み方まで、日本が歴史を書き換えたとFOXニュースが報じたとか、ばかばかしいニュースばかりがはしります。

日本の周りで、勝手に日本の歴史を、書き換えている気さえするほどです。


こんなときだからこそ、より一層、日本人が日本の昭和史をしっかりと細部まで知っておくことが、大切なのではないかなどと思います。


ところで、昭和11年の226事件で岡田啓介内閣が倒れた後を、広田弘毅、林銑十郎を挟んで、昭和12年6月4日には近衛文麿内閣が誕生します。

この近衛内閣の誕生は、国民の熱狂的な歓迎を受けるわけですけれど、その人気のほどは小泉純一郎など足元にもおよばいほどだったといったら、わかりやすいでしょうね。
47歳の青年宰相は、実は前年に岡田内閣の後継として組閣の大命が降下したのを辞退しています。それだけに待望久しい、公爵宰相というわけでした。
ちなみに、この内閣の外相には元首相広田弘毅が就きます。

この近衛内閣の時に、支那事変(日華事変)が起きるのです。
現在では、まとめて日中戦争と大雑把な?表現になっていますが、当時は軍部もふくめて、事件、事変、戦争というものの概念がわかれていますから、シナ事変と歴史上の呼び方をしておきます。
一例を挙げますと、戦時予算などの法令を事変にも適用するか否かが、国会で議論されたりしますが、これなども事変と戦争が別のものと認識されていた証拠になりそうです。

承久の乱、壬申の乱、正中の変、本能寺の変のように、変と乱とを使い分ける、日本人の微妙な感覚というのと似ていますか。

ところで、近衛内閣は6月15日の閣議で「産業五ヶ年計画」を決定するわけですけれど、これは簡単に言えば日本の経済力の根本的な弱さを実感して、何とか早期に国力をつけようという主旨だったのです。

「持てるもの」と「持たざるもの」の対立をなくすこと、それが近衛の世界観、社会観の根本にあった理想のようですが、この考え方はいまの國際格差、社会格差の論にあまりに似通っているので驚きます。ちなみに日本は、資源を輸入しないと生きてゆけないから、いうまでもなく「持たざる国」です。
時代は変わっても、人間社会の対立相克は同じなのかもしれません。

で、ここで興味深いのは、わずか4日後の「ニューヨーク・タイムズ」が、早速牽制記事をだしていること。
「すべての産業を準戦時状態の基礎の上に置き、これによって国防を充実しようとするのは、支那に対する弾圧政策を結果するであろう」

ほかのところでも、朝日新聞、同盟通信、NYタイムズという流れを目にしましたが、これってなにか昔もいまも変わってない?


ところで、ちょっと飛びますが近衛首相の後が平沼騏一郎ですけれど、この人の養子があの平沼赳夫議員。
近衛内閣の議会には、河野洋平の父親や、鳩山由紀夫の祖父などもでてきて、政府を攻撃するわけですから因縁しらがみは連綿とつながっている?
二人の父親の名前が、ともに一郎なのはまったくの偶然で、これは因縁ではないでしょう。冗談はともかく、ずっと昔のことと思っている戦前戦中が、知らないでいることが恥ずかしいほど、すぐそこの出来事だったということにあらためて気づかされます。











posted by shuuin at 18:56| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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