2009年04月12日

日々の移ろい



日々の移ろいの速さに、今更ながら驚き、呆然となす術もなく立ちすくんでただ消光している自分が情けない。


前回、横浜大空襲に触れたときに、幼年期に覚えたままに戦闘機をカーチスと書いてしまいましたが、P51はグラマンでした。
たしか若い番号のPはカーチスでしたので、ついそのまま・・・・
あの頃には、「豚鼻の」グラマンに代わっていたのでしたか。

ちなみに厚木海軍飛行場には、陸軍の第十飛行師団麾下の二式陸攻「屠龍」「鍾●」もいたんですね。
それが陸軍高射第一師団と連携して、防空に死力を尽くしていたわけですね。空中戦の最中に、味方に当たらないように、高射砲で打つわけですから大変ですよね。
第一師団は、京浜地区中心に本州東部担当でしたから、横浜にいたのは連隊長樋口忠治中佐指揮する第117連隊だったそうです。

日本の陸海軍の航空機につけられた、「隼」とか「飛燕」だとかいう呼び名は、報道用の愛称だったのですね。型式番号で呼んで通じるのは、関係者だけというわけ。
ところで、●は九に首です。「しょうき」ですが、昔は五月人形にも鍾き様を飾ったのでは?
我が家の床の間にも、もじゃもじゃに髯を生やして、冠をかぶって剣を佩いた、大きなショウキ様が強そうに睨んでましたが。
余談ですが、人形の長い剣が実際に抜くことが出来て、ちゃんともろ刃の形をしてるので、こっそり抜いて遊んだものでした。
それほどに子供にも親しまれ、子供を守ってくれる強い大将軍だからこそ、陸軍戦闘機の愛称にもされたのでしょうね。
それなのに、なぜ漢字変換ができないのか?と、変な気がします。
でも、今ショウキ様を知ってる人は殆どいないなどといわれると、なんにもいえなくなります。

焼夷弾を調べようとしたら、あの時代のといっても高々60年余り前のことに過ぎないのに、実際のディテールになるとすでに時代考証が困難になっていることに気づかされました。
日々の移ろいの速さは、まさにその速さでさまざまのものを消し去っているのかもしれません。

時代の様相が、塗り替えられて伝えられても、もはや仕方がないのでしょうか?
年上の方たちに、もっと沢山聞いておけばよかった。いくつになっても、そう思います・・・・・・


一昨日、両陛下のご成婚記念の報道が少しだけ流れました。
報道関係者の無知から来る、あるいは意図的な?言葉遣いの杜撰さに、憮然とすることもありました。
昭和20年のあの頃、今上陛下は皇太子殿下として、学習院のご学友たちと日光に疎開して、ふだんの授業を受けておられました。
終戦の後で東京にもどられても、ご両親である天皇・皇后両陛下とお会いになれたのはずっと後のことでした。
確か赤坂離宮に入られても、そこから皇居に行くことは許されずに、長くさびしい思いをされたはずです。
そのことを知っているだけに、ご一家でそろって過ごされる道を択ばれての喜びの深さを、さぞかしとひとしおに感じました。

あのご成婚があった年が、昭和34年・・・・・・
今の人々が、昭和を懐かしむ糸口にしている?あの「続・三丁目の夕日」の年なのです。
映画のなかの昭和とは、だいぶ違う昭和が報道写真に映っていましたね。三丁目のような下町は確かにあったでしょうけど、目抜き通りはすっかりスマートな姿だったといったのはその意味だったのです。
ちなみに私はあの日、大学は休みだったかそれとも抜け出したのか忘れましたが、行列の人ごみは避けて、親戚の家でテレビで視ていました。

ところで麻生首相は年齢からすると、あの年学習院大学に入っているはずですが、経歴の卒業年度はだいぶ後のようですから違うのかな?


あれやこれや、日々の移ろいはとどめ様もなく、まさに光陰は矢の如くに飛び去りますね。
今日もまたかくて終わんぬ、やんぬるかな。












posted by shuuin at 19:36| | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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