2009年04月16日

樺太天国

当時、太平洋戦争末期には、「樺太天国」という言葉があったそうです。

樺太は空襲もなく静かで平穏な毎日ですから、内地から親類縁者を呼び寄せるものも多かったと言われます。いわゆる疎開ですね。

昭和20年になると、内地は連日どこかが空爆を受けていました。
たとえば六大都市はのきなみ、大空襲の被害にあっていますね。
神戸や名古屋などの軍需工場のあったところは、とくに執拗に狙われました。
大阪も名古屋の翌日に、死者・行方不明4600名以上をだした大空爆をうけています。(以後、何回も何回も・・・)
六大都市では京都だけが、大空襲は免れましたが、西陣や太秦などに小規模ながら被害をうけています。
ただし、京都は原爆投下の第一目標であったことは、前にこのブログで少し詳しく?書いた覚えがあります。

なぜこんなに、六大都市の空襲について書いたのかと言うと、当時の人々の感覚の中にあった六大都市の概念が、今とは大分違っていたからです。
なんと云ったらったらいいのか、いわばそれが日本の顔とでもいうか、・・・・・・
とにかく、それらの都市が灰燼に帰すというのは、いわばこの国の表門や玄関が壊されているような、そんないたたまれない不安をみんなが感じていたのです。

無論、地方都市も同じように、それぞれの大空襲を受けています。
カーチス・ルメイが豪語した“焦土作戦”のことは、前に触れましたね。
「日本の都市はなくなる。後は攻撃目標として線路ぐらいしか残るまい」


樺太の人々が樺太天国といったのは、本土の人々の苦労に比べたら申し訳ないほど平穏無事であることを、そう表現したのですね。
もともと樺太は第一次産業で栄えたわけですから、食糧や燃料が逼迫し始めた本土とくらべれば、ありあまるほどの食糧・燃料事情でした。
その意味でも、天国と思えるほどの豊かな平和郷だったわけですね。
樺太はアイヌ語からきた呼称ですが、「草の島」という意味だとか。
寒冷地だけれど、昔から自然豊かな緑の島だったのかも・・・・・
(ポーツマス条約で、再び還った樺太も日本の本土ですから、本土と呼ぶのは正確ではないかも知れません。瀬戸内海の島の人が、本土に渡るというのと同じ類の表現ですね。内地というのもおなじで、樺太が外地だということではありません。)


樺太と北海道とは、船便が唯一の交通手段でした。
その意味では、北海道と本州との連絡もそうですね。
「青函連絡船がやられたら、それこそ大事だから」
この言葉に出会って、はっとしました。
航空機や青函トンネルなどのある時代と、連絡船の持つ重みがまるで違ったわけですよね。
それで、樺太・北海道間でも稚内に師団を置いて兵1万で宗谷海峡を守っていました。

まだ、樺太にたどり着けませんでした・・・・・・












posted by shuuin at 19:49| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。