2009年04月23日

国境への道


蟹工船の時代には、海軍の駆逐艦などが北方の漁場を警護していた、と書きました。

当時はすでに、日本は英米に比肩しうる海軍大国でした。
その強い海軍が守っていれば、北は安全だと考えられていました。
その証拠に、対米戦争が始まる前までは、のんびりした樺太に陸軍は一人もいなかったのです。
北緯50度のソ連との国境警備は、樺太警察の警官が当たっていました。

昭和16年12月8日に日米の火蓋は切られたわけですけれど、昭和14年の日英東京会談が決裂して、アメリカが日米通商航海条約の破棄を通告してきたあたりから、英米の対日圧力は強まって来ていました。
昭和15年9月には、昭和天皇が大反対だった日独伊三国同盟が紆余曲折を経て成立します。(この三国同盟もそこにいたる歴史の経緯を探ると、思いもかけない世界の動きの裏側まで見えてきて、そこで演じられる人間ドラマの面白さはもしかすると上質の芝居や小説をしのぐかもしれませんが・・・・・・・)

それで、その昭和15年頃になると、日米間の雲行きをみてか、樺太の国境線を越えてソ連のスパイがどんどん入ってきたそうです。
警察力だけでは?と言うことで、旭川の第七師団から一個連隊を割いて派遣したのが、樺太に陸軍が(つまり日本軍が)駐屯した最初だったのですね。

国境線は120キロもあったのですが、そこを守るのに先には国境守備警官隊だけでした。そして、連隊が入ってからも、国境に一番近い町である古屯(ことん)にわずかに一個大隊だけ配備されています。
ちょっと不思議な気がしますが、樺太の地理的条件を知ると疑問が氷解します。

前回ちょっと触れた国境まで続いている中央道路ですが、これがやっと二車線の未舗装道路だったのです。
道路の東側を幌内川が流れていて、川岸が平らでも右岸12キロ左岸8キロがツンドラ地帯で通行不能。
逆に言えば、凍土地帯の中を川が流れていて、その流れに沿って道路がつけられたわけですか・・・・・
そして道路と川の両側には七、八百メートルの山脈が連なってるというのです。
地図上の国境が120キロあっても、国境から南下するには幅十メートル内外の一本道しかないわけですね。

これを知ったとき、私の頭にすぐに浮かんだのは、あの「箱根の山は天下の険、・・・・・」という小学唱歌でした。
歌詞の中にあった、「一夫関に当たるや、万夫もままならず」というくだりです。
うねうねと続く羊腸の小径にある関所は、何人で攻めてきても一人で充分ということですか。
さしずめ樺太の国境も、同じような「地の利」を持っていたのでしょうね。
「この道路を確保しておけばよい、防衛計画といっても、まことに単純で気楽なものでした」
師団参謀長が後年、そう述懐したのもうなずけます。

ちなみに、昭和13年に女優岡田嘉子が共産党員の杉本某と越境してソ連に入ったのもここだと言います。
逆に言えば、それだけのんびりした時代だったとも言えるかも知れません。往年の松竹の大スター岡田茉莉子さんは、この国境を訪ねたことはあったのかな?などと、あらぬ想像にまで脱線していました。

ところで樺太は、いまの関東地方一都六県を合わせたよりも広かったとか聞いた覚えがあります。
調べれば、すぐに分かるのでしょうが、漠然とそんなに広く感じなかったのは、あるいはメルカトル図法による目の錯覚だったのか・・・・・


その樺太の守りも、開戦の翌年である昭和17年には樺太混成旅団になっていました。つまり、一個連隊から旅団規模まで拡大されていました。そして、それはほとんどすべて米軍に備えていたのです。











posted by shuuin at 19:12| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。