2009年04月27日

北を睨んで


樺太に初めて配備された陸軍が、第七師団の連隊だったといいました。
衛戍地の名をつけて旭川第七師団と書きましたが、日本陸軍(正式には大日本帝国陸軍)では師団や歩兵連隊をただの番号だけで呼んでいましたね。

で、この第七師団のことを、北海道の人々は「北鎮部隊」と呼んでいたそうです。北の鎮守に当たる頼もしい郷土部隊として、畏敬と愛情をこめてそう呼んだのでした。
陸軍誕生時には6師団編成で、一から六までは日本を6つに分けた軍管区と同じで、例えば第一師団は東京というように決められていました。
そして、明治時代だけでも12の師団が順次増設されるのですが、その最初の師団がこの「七師」だったのです。
道民が誇りにしたのも、むべなるかなかも知れませんね。

郷土部隊といいましたが、師団の各連隊は地元の出身者で編成されるのですから、郷里の若者の集団に他ならないわけです。
例えば、二年後に創られた金沢の第九師団でいえば、福井・富山・石川の北陸三県で徴募されました。
ちなみに、当時は国民皆兵ですから、健康な男子であれば二十歳になればみな徴兵検査を受けたわけです。いわばそれが一人前の男になった、という通過儀礼。

そんなわけで、日本陸軍の常設師団は、今風に言えば完全フランチャイズ制のようなもの。
しかも、自分の息子や孫たち、あるいは父親や兄弟たちが所属しているわけですからね。同じ村、隣町、そして後には父子二代で参加していた・・・・・
一言で軍隊と言うものの、当時の国民と「兵隊さん」との距離は今では想像もつかないほど、近しいものであったことも事実でしょう。
郷土ゆかりのものを応援する心理は、今のスポーツなどにも通じませんか?

大分脱線しましたが、またいつもの悪い癖で、文字通りの四方山話。
あっちにいったり、こっちにいったり、脇道寄り道で、こどものお使い噺、お笑い下さい。

でも、こういう時代の空気というものを知っておくのも、歴史のあれこれに触れるときには大切かもしれませんよ。
例えば、、映像や写真で見る戦時中の出征兵士の見送り風景。村をあげて町内中で、時には熱狂的に送り出してるように見えるのはなぜだったのだろう?
時代の教育のせいとか強制されたからという説明では、腑に落ちなかったものです。でも、郷土部隊を応援するような気持ちだったと聞いたときに、そうだったかのと納得した覚えがあります。


終戦時に、北海道から千島・樺太を守った第五方面軍司令官の樋口季一郎中将は、元は金沢第九師団師団長でした。
この樋口中将も、なかなかの経歴を持った人物ですが、それはまたおいおいに。

ちなみに、旭川第七師団は終戦時まで日本国内に残ったただ二つの師団の一つでした。
そのため戦後、動かざる師団ともいわれたようですが、それは師団司令部が帯広に移されただけで北海道を離れなかったことによります。
隷下の連隊は、例えばノモンハン事件で有名な悲劇の須見部隊、ガダルカナルで全滅した一木支隊などと、常に陸軍のスーパーサブのような役割を担わされて、あちこちに投入されていたようです。

しかしそれでも師団としては常に定置して五十年間、北方を凝視し続けたということは、それだけロシア(後にはソ連)の脅威への備えをおろそかに出来なかったということでしょうね。
一方で海軍は背に腹は代えられずか、第五艦隊のほうはすべてレイテ方面に抜かれました。
大分前に書いたレイテのくだりの西村艦隊も志摩艦隊も、あのオルモックの木村昌富少将も、みな北方艦隊だったのですが・・・・・

明治以来の常設師団で、最後まで残ったもう一つは四国善通寺の第十一師団でした。その初代師団長は、日露戦争の203高地で有名な乃木希典でした。

























posted by shuuin at 18:09| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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