2009年04月07日

焼夷弾が違っていたのか?

一年半も休筆したものを、また続けてよいものかどうか、ひたすら迷っていました。
ただなぜか、不思議なことにアクセスがゼロになる日はないみたいで、削除されずに残っておりました。
もともとが、年寄りの独り言のようなもの。聞いてくださる方が一人でもあれば、それだけ十分じゃないのか。
そう思い直して、また少しづつ続けてみようかと思っています。
どうかよろしく、お願いいたします。


昨年の三月、TBSだったかのドラマで、東京大空襲を扱ったものがありました。
テレビドラマが、歴史をどこまで再現できるものかは知りませんが、昭和20年(1945年)3月10日に、朝日新聞が「帝都暴爆」と報じた、あれだけの事が起こったのだと知らせる効果はあったはずです。

あの夜空のことは、遠く横濱の街に住む幼年の目にも胸の痛むような記憶として焼きついています。
隣近所の大人たちが皆、家の外に出て東の空を見上げながら、息をのむようにして佇んでいました。
遠い空が赤々と燃えて、一面に茜色に拡がる光景・・・・・
「東京が燃えている」
誰かの呟きに、さざめくような気配があっても、誰も声を発しませんでした。
大人に混じって、子供もいたのですがみんな無言。


ところで、あの空襲の主役?ともいうべき焼夷弾が、ぱらぱらと降ってくるさまをテレビで視た時に、「なんだこれは?」と叫びそうになるほど驚いたことを覚えています。

焼夷弾はあんなに小さくはないし、空中でばらばら散らばったりしなかったぞ。
今のテレビ局の連中が、昭和を再現するとすぐこんなことになるのか、と。

ところが、今年の3月に某紙でどこかの大学教授が東京大空襲について書いている記事に、「M96油脂焼夷弾」というものがやや詳しく説明されていました。
それによると、ゼリー状のガソリンを入れた野球のバット半分ほどの小さな筒を鉄バンドで束ねたものを投下して、それを空中でばら撒いたのだとか。

そうだったのか?
だとすると、昭和20年5月29日の横濱大空襲とは、爆弾の種類がまったく違っていたことになります。

でも、なぜ今までその違いについてだれも言わなかったのだろう。
あるいは、寡聞にして知らなかっただけなのか?


横浜大空襲は、東京とは違って五月晴れの真昼間でした。
もしかすると、この頃になると日本の防空力がますます弱ってきたことが分かっているので、舐めてかかって白昼堂々だったのかもしれません。
上空から、B29が黒い物体を次々に投下しているのを、崖に掘られた防空壕の前で覗いて、たしなめられたのを覚えています。
空襲警報中に子供が外に出ては、カーチスの機銃掃射や、空中戦の金属の裂片がいつ落ちてくるか分からないので危険なのです。
あの破片をなんと呼んだのかもう忘れましたが、大人が見せてくれたそれは、指ほどの大きさのものでもぎざぎざな上に剃刀の刃のように鋭かったり、兇々しいものでした。子供に当たれば、まず即死だといわれました。

横浜大空襲のことは、ちょっと置いておいて、焼夷弾というものの記憶をたぐります。

横浜に落とされた油脂焼夷弾は、とにかく大きくて重そうでした。
そして、焼夷弾は不発がとても多いといわれていました。
そのせいか、大人たちの間では、焼夷弾はそれほど恐くないというものもいたようです。

瞬間に爆発する本物の爆弾は恐いけれども、延焼目的の焼夷弾は直撃さえ受けなければ、命は助かるということだったでしょうか。

なにしろ大きくて重いものですから、日本建築の木造二階建てだと瓦屋根を突き破って床下にまで届くといわれてました。
近所でも軒屋根を抜かれて、土間に大きなすり鉢状の穴が開いたけど、不発で助かった者もありました。
初期消火がうまくいって、小火ですんだなどという話も・・・・

いつだったか、そんな不発弾の一発が、住宅街の道の真ん中に置かれていました。
誰かが運んだらしいのですが、大人でも一人では運べそうもないほど重そうな、太くて大きな褐色の筒状の物体。その先のほうから、なにかどろっとした液状の油のようなものがはみ出していました。
燃料にするとよく燃えるんだ、とかだれかがいっているのが聞こえました。
周りの者はみな、今にも爆発するのではないかと心配顔に、でも恐いもの見たさに遠巻きにして。

あの時、にやっと笑って油を抜いていた男の人は、爆発物のこと分かっていたのかどうか。
今考えても、ちょっとぞっとします。みんな数メートルの近さにいたわけでしたから。
自分がなぜそこに居合わせたのかも、今となっては遠い記憶です。
いつも友だちと遊んでいる道ですから、たまたまそれを見たのかも。

それで、とにかく私の知っている米軍の焼夷弾は、太くて長い代物でした。バットより長くて、何本分も太くて、重そうでした。
あれが多分、50キロ油脂焼夷弾だったわけですね。

あの中に、何十キロものゼリー状のガソリンが詰まっていたわけですか。
そして、わずか68分の攻撃で、ミナト横浜の市街地の34%を一面の焼け野が原にしてしまった。
投下焼夷弾量は、東京の1.28倍、43万8576発だった。
このことは、今回はじめて知りました。死者の数も東京がはるかに多かったから、空襲の規模もはるかにひどいものだったのだろうと、漠然とそう思っていたのかも知れません。
あの「空の要塞」と、今思えば諦め半分?そう呼んでいたB29も倍近い517機も来たんですね。P51が101機。
P51は、たしかカーチスという戦闘機で、キィィーンという独特の音がしたことを思い出します。
その音が聞こえたら、すぐに物陰に逃げ込めと大人たちから教えられていました。警報など関係なしに一機だけが飛来して、機銃掃射をしかけてくることが、時々ありましたからね。

ところで、あの日の日本軍も、必死の戦いをしていたのですね。
いま厚木基地と呼ばれる場所に海軍航空隊がありましたが、そこから零戦や雷電、第十飛行師団の屠龍などが迎撃していたのだそうです。
あの時、防空壕の前の土塁の上に立った男が、まっすぐ頭の上を振り仰ぎながら、叫んでいたのを思い出します。
「あつッ、やってるやってる。・・・・がんばれえー・・・・あっつ、やられたァァ・・・」
空を見上げたいけど、小さな子供は出してもらえません。それよりも、撃墜された飛行兵のことを思って、なんともいえない悲壮な気持ちでうつむいていたのを、昨日のことのように思い出します。
あの日ぽんぽんと聞こえた高射砲の陣地は、久保山だったのでしたか。
それであのあたり一帯、丘の上まで猛爆を受けたわけですか。
でもこれらの航空隊と高射第一師団の奮戦で、B29を7機撃墜し、そのほか175機に損害を与えたとか。
語られることもなく、名もなく歴史の中に消えていったこういう方たちも、本土を守ろうと死力を尽くして懸命に一矢を報いようとしたのでしょうね。



ほんの何百メートルかの差で、焼け残った町に住んでいただけでした。同じ町内で、一丁目、二丁目が焼けてなくなり、三丁目が焼け残った。そんなところがあちこちにあった時代でした。
ゆくりなくも横浜大空襲の記事を読んでいたら、いまだに溢れるものが止まらなくなりました。
来月には、64回目の5月29日がやってきます。















posted by shuuin at 19:44| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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