2007年03月18日

男の責任感

敵の最後の空襲での、直撃弾の一発目が防空指揮所に命中、下の第一艦橋で炸裂した。
航海長仮屋実大佐、「摩耶」副長永井貞三中佐ほか戦死。
猪口艦長は背中に負傷し、応急処置で包帯ぐるぐる巻きで第二艦橋に降りた。その第二艦橋も足元はすでにえぐられていた、と。

航海長の代理は通信長と決まっていたそうで、三浦通信長が急いで下から艦橋に・・・が、途中に爆撃で負傷。
血まみれになりながら、艦橋に上がってきた姿を加藤副長が目にしている。
これもまた、戦場における男の責任感なのだろうか。

ところで、「大和」の艦橋にいた小柳参謀長の言葉では、栗田司令長官が15:00にコロン湾泊地への後退を命じた、とある。
とすれば、五次目の空襲を受ける直前である。
コロン湾は「愛宕」「摩耶」が沈没したところに近く、「武蔵」の位置からははるか後方である。もしこれがほんとうなら、まだ動ける限り、「武蔵」が沈むわけないと艦隊司令部も思っていたのではないだろうか?

「島風」「清霜」を護衛につけて・・・
この「島風」については、様々な戦史や戦記で誤記が目立つようだ。実際に、「武蔵」の救出に当たったのは「濱風」と「清霜」だったのである。

大体、戦史戦記で駆逐艦の名前があげられることはまれで、「そのほか駆逐艦○隻」という記述になっているのが多い。
その果たす役割の多さにもかかわらず、まるでスターの付き人扱い?とでもいうか。

「武蔵」のまわりでも、戦場ならではのエピソードがあったようだ。
はじめ、重巡「利根」と駆逐艦「清霜」が護衛につく。
この二艦は、第1部隊の後方を進んでいた鈴木義尾中将の第2部隊、「金剛」中心の13隻の輪形陣からぬかれたのである。

その後、「武蔵」の様子を「大和」艦橋から遠望するかして、第1戦隊司令官宇垣纏中将が、栗田司令長官に進言した、という。「武蔵」の心もとない様子に、さらにもう1隻の駆逐艦の増派を。
それで栗田長官の送ったのが「島風」だった。

実は長いこと、なぜ「島風」を選んだのかが謎で、頭の隅で引っかかっていた。艦隊の先頭を航る高速駆逐艦を、わざわざさいたのはなぜか?

答えはひょんなところでわかった。
実は、15:30に栗田艦隊が反転したのである。
全艦隊左一斉回頭、針路290度(真西より20度北)、引き返すとみせて空襲をさけたとか・・・

二つの輪形陣がそのまま、向きを変えたわけである。それまでの何時間かの間に、艦隊と「武蔵」の間はかなりひらいていた。
しかし、「大和」の艦橋は遠望がきく。
「島風」が送られたのはこのときであった。艦隊の先頭にいて、ほとんど動きの止まった「武蔵」に一番近い駆逐艦・・・

先のコロン湾云々は無電のやり取りだろうが、「島風」のことは記憶違いであろうか?

18:20 栗田長官は、「武蔵」の警戒を「島風」に代えて「濱風」に命じた。
「濱風」の数奇な運命が始まるのだが・・・






ラベル:責任感 運命
posted by shuuin at 15:01| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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