2007年03月27日

散る桜 残る桜


「武蔵」の猪口敏平艦長が、薄暗い艦橋で遺書を書いていた時、
悪天候で艦隊援護の特攻機を発進させられず切歯扼腕していた人がいた。

その第一航空艦隊先任参謀、猪口力平大佐は猪口艦長の実弟であった。
ルソン島マバラカットの基地は、地図の上ならシブヤン海のすぐそこにある。

余談だが、海兵ではチョコビン、チョコリキの愛称をもらった兄弟だそうである。

無論ともに互いの部署で、最善を尽そうとしていただけだからお互いのことを知る由もなかったであろう。

同じ戦場に親子、兄弟が云々の例も実は枚挙にいとまがないかもしれない。

それでもなお、運命のドラマを見る思いがする。

翌25日になって、「武蔵」の沈没を知ったという。

 
 兄は、ふだんがふだんだから、艦と運命をともにしたな、
 とは思ったけれど、とくになにも感じませんでしたね。
 それよりなによりも、わたしには責任を持たねばならない
 特攻隊の指導があったし、当面の戦況が戦況だし、
 われわれも間もなく死ぬんだと思っていた。
 まあ、兄のほうがひと足先に行っただけだというふうな
 感じ方でした。


「散る桜、残る桜も、散る桜」の心境とはこのことか?

兄弟が最後に会ったのが、シンガポールでの捷一号作戦打ち合わせのとき、甲板上での5分ぐらいの立ち話だったそうである。

遺書の手帳は、後にマニラで見せてもらったという。
そして手帳は、海軍省に渡って、江田島の教育参考館に納められたのだが、戦後に行方がわからなくなった、とか。

終戦の時の、海軍兵学校の校長は栗田健男中将だった。江田島で一体なにがあったのだろうか?
あるいは占領軍が、どうかしたのだろうか?

実は、猪口兄弟の運命のドラマにはまだ続きがあるのである。

昭和19年10月30日のセブ島で・・・・・ 






タグ: 手帳
posted by shuuin at 17:26| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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