2007年03月29日

被害担任艦

戦艦「武蔵」が被害担当艦であったか?

そのことについて、いくつかこれはと思わせる事実があるので、それについて書いておきたい。

そもそも日本海軍に、そのようなものがあったのかということになると、正式にそんな決まりがあるわけもない。

しかし、駆逐艦が「楯になれ」というようなことは当然あったっし、そもそも艦隊の諸陣形はまわりのもので大将を守るようになっている。


で、「武蔵」の場合だが、やはり特別な理由があったような気がする。

それはやはり、艦体のずばぬけた大きさと関係がある。
つまり、敵の標的にされるのは「大和」、「武蔵」の二艦だけといっても過言ではない。

案の定、敵はその時(最初の空襲)、「武蔵」だけに的をしぼってきた、と。

シブヤン海での栗田艦隊の輪形陣を描いてみるとよくわかる。

時計の長針のえがく円の上に7隻の駆逐艦、短針の円の上に4隻の巡洋艦と二隻の戦艦「武蔵」「長門」。
針の中心の上に「大和」。

中心艦というのは、攻撃するのがむずかしいそうである。

なぜなら、中心艦の頭上に至るまでに、一番外側の駆逐艦とか、二番めの輪の戦艦や重巡と交戦しなければならない。
中心艦より外側にいて、しかも「大和」と同じ勢力をもった「武蔵」を狙うのが理にかなった戦法になる。

で、このことは当然、出撃前からわかっていた。

そこで輪形陣の艦の位置なのだが、「武蔵」は「大和」の右後方で、これはリンガ泊地にいたときから、決まっていたはずである。

しかも艦隊の進む方向からいえば、敵機のやってくる側に占位してたのではないかとさえ思う。
敵は必ず、太陽を背にしてやってくる・・・・

艦隊司令部と「武蔵」艦長は、それを承知していたのではなかったか?

艦長の遺書の最初に、「なんとなく被害担任艦になりえたる感ありて云々」とあるのは、そのことではないだろうか。
これは、偶然そうなれてせめてもの慰めになる、というふうにも取れるが・・・
その任務だけはかろうじて果たせたようだ、という報告のような気がしないでもない。

「濱風」の兵長の手記にこんなことが書かれていた。

捷一号作戦発令の10月17日のリンガ泊地でのことである。

第一遊撃部隊(いわゆる栗田艦隊)の各艦は直ちに出撃準備にとりかかった。
各艦が不急品や可燃物の陸揚げと燃料補給に、あわただしく働いているときのこと。「武蔵」だけが外舷の塗装作業をしてるのが見えたそうである。
「濱風」乗組員たちは、ふしぎに思いながら、何のために今頃あんなことをしているのだろうと話し合った、と。

21日夜までに準備を完了して、ブルネイで夜明けの出撃を待つ各艦は、長い間の猛訓練(のちにリンガ百日の猛訓練と語り草になった)で、艦がよごれてくたびれて見えたそうである。

その中で、「武蔵」一艦だけ新造艦のようにきわだっていたのは、異様であった、という。

猪口艦長が単に、自艦の門出に晴れ着をきせただけなのだろうか?


ここで、旗艦「愛宕」が沈まなければ中心艦は「愛宕」になるわけだが、その場合「大和」は左後ろの「長門」の位置につくはずである。
二艦が並んだとき、「武蔵」が目立つ必要があったのではないかという気がしてならないのだが・・・

さらに、「大和」に将旗二本立てるのは異例というなら、「武蔵」を選ぶほうが普通である。通信設備は「武蔵」も同じなのだからなおさらだ。

どうも栗田司令長官の交代艦は最初から「大和」に決まっていたようである。
したがって、「武蔵」が矢表に立つたわけである。
この兄弟艦の役割は、つとにきまっていた。人間ならさしずめ、弟が兄の使命のために犠牲になるということになる。


ところで、猪口艦長の「武蔵」での勤務の日の浅さを取り上げて、操艦を云々するむきもあるが、それはまったくの的外れという気がする。




 * このブログを読んでくれる方が、いるのだろうかと
   不安になってます。コメントでも書いてくださいま
   せんか?お願いします。












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posted by shuuin at 18:04| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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