2007年05月08日

海軍軍令部作戦室


昭和19年当時、霞ヶ関の海軍省の三階に、軍令部がありました。
作戦室は南側、中央に大机6つくっつけて、畳6畳分の作戦図が拡げてあった。
インド洋から太平洋の東半分までの地図の上に、コマを置いて、敵味方の位置、兵力、艦船の種類を示すというしかけです。

毎朝そこに、軍令部総長及川古志郎大将、海軍大臣米内光政大将、各局長、部長、課長まで、大佐以上の首脳部が2、30人集まるわけですね。
そこで、第一部(作戦)の当直幕僚が10分間ぐらい、前日の戦況説明をする。これは6人の中佐の輪番制。

この説明会は軍令部の日課だそうで、総長と大臣は必ず出たといいます。それというのが、戦況というのは特別のことがない限り、この二人に一々報告しないのだそうです。

ちょっと驚きました、大将たちは出席しないと、前線がどうなってるか分からなかったんですね。ここで戦況を聞くのが普通だったといいますから。

作戦計画の検討をする場合は、この戦況説明が終わってから改めてしたといいます。
さしずめ、米内海相は退席する、なんて想像してしまいますね。

作戦室には各地から、報告、行動、命令などなど次々に電報が入ってくる。幕僚が整理して資料にまとめるわけですが、戦況逼迫のこの頃は、中佐幕僚も多忙を極めたようです。
事務的な仕事は兵学校出の若いのにやらせよう、ということで野村實中尉はマリアナ海戦出撃直前に、「瑞鶴」電測士から軍令部に転任したというわけでした。

その野村中尉が、栗田艦隊反転を知ったときの、軍令部の人たちの反応をつぶさに見ていました。

戦況は逐一、海軍省内の東京通信隊で受けて、暗号を翻訳して持ってくるから早いのは一時間、遅くとも2時間で届いたとか。
現代の通信と比較しても意味がない。パソコンと人力の違いですが、考えようではそれだけ人間の能力にかかる比重も大きかったといえそうです。
東京通信隊は設備もよく人も多かったから、よくとったそうです。つまり通信傍受の能力があったということでですか。
電報は1日で2、3寸たまるそうです。懐かしい単位ですね、モダンな海軍でもここは尺貫法。

でも、ひとつも愁眉を開かせるものがなかった。悲報ばかり10センチもたまったら、たまりませんね。アレッツ?

しかし、戦況がどうあれ、栗田さんの艦隊に進撃してもらうほかわない――――全員の祈るような願いだったでしょうね。

同じ海軍だから、艦隊の乗組員はみんな自分の友達、上は上なりに下は下なりに、みんな良く知っている人たちが乗っている。いわばおなじ血がかよっている。栗田艦隊のなめている辛さは、直接こっちにも通じてくる。それでも、なんとしても進撃してもらわなきゃならん、そういう全員の空気だったといいます。

だから、栗田艦隊の反転の電報は軍令部の全員にとってショックだった、と。

作戦室は神聖な場所で、みな百戦のつわものだから、大騒ぎになることはなかったが、口々に進撃しなければいかん、といったそうです。
いまやらなければ、帰ってきてももう戦争は二度とできない、それなら失敗しても戦うしかない。
第一部長中沢佑少将は、特に強い語調でそういった。及川総長も軍令部次長伊藤整一中将も同じ意見。

引き返してもいいという意見は、ひとつも出なかったといいます。

引き返したら、作戦全部がダメになる。小澤さんも西村さんも志摩さんも、基地航空隊も全部ダメになる。それに、引き返したところで、相手は飛行機だからすぐに追いつかれてしまう・・・・・・・

やはりみなそう考えていたのですね。栗田艦隊のレイテ湾突入という目的のためだけに、すべての将兵が身を犠牲にしてもと支援していた。その全部を無にするような作戦中止を、どうして決められるのかと不思議でならなかったのですが。
みなの犠牲が無駄死になる、必死の奮闘も辛苦も水泡に帰する、そのことをダメになるという言葉で現したのでしょうね。


それでも栗田健男とその幕僚は、その反転をやってのけました。




ラベル:海軍 戦況 犠牲
posted by shuuin at 19:19| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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