2007年05月12日

特攻と特攻隊と

「特攻は嫌いだ」
つい先日、朝のテレビでこう言い放った男がいた。まわりからカントクと呼ばれていたから、何かの監督なのか?よくバラエティー番組とかで見かける顔なのだが、名前は知らない。

それにしても、先の大戦での「特攻」という行為を、好きとか嫌いとかで判断するのか。戦後の教育は、とうとうこんな日本人を出現させたのかと、あきれました。ほんとに日本人なのかなあ?、と疑う始末。

近頃は、「先祖代々の」、「生粋の」、「純粋の」などなどと形容詞をつけないと日本人をあらわせない、と横からいわれて暗澹としました。
狭義の日本人と、そうでない日本人がいるのだそうです。

別に国粋主義とも、ナショナリズムとも関係ないですが、わたしは祖先からずっとこの島国に生きてきた人間のことを、形容詞などつけずに日本人と呼ぶことにする、ついにそう宣言する始末でした。
まさかまだ、昭和は遠くなってないよな?などとバカな問いも発しそうになって、あやうく踏みとどまりました。

ところで、先のばかげた発言は、何でも石原慎太郎都知事が作った映画のことだったようです。(ちゃんと視てなかったので曖昧?)

映画や本で「特攻」を扱っても、それを見たり読んだりしても、別にそれが「特攻」が好きということにはならない。
ただ、昭和の歴史にあった出来事を、ほんの一端にしても知って記憶しておくことが、大切なのだという気がします。

たしか、知覧といってましたが、あれは海軍の基地だったかな?

レイテ海戦のとき、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将が生み出したということで、特攻隊といえば海軍特別攻撃隊が有名です。
あのサマール沖で、栗田艦隊の反転した直後に、敷島隊などが突っ込んだことは前にも触れました。

実は、陸軍にも特攻隊はあったのですね。レイテ島に、空挺部隊の特攻というのもありました。
海軍とはまたすこし事情が違って生まれたそうですが、それはまた別の機会に書くことにして・・・・・


あの捷一号作戦で、レイテ島には陸軍の兵力が次々に送り込まれたわけですが、そのための足は輸送船が受け持つことになります。
それを担当したのは、第三船舶輸送司令部(シンガポール)です。
ちなみに、船舶輸送というのは、内地,外地を問わずその間のあらゆる物資や資材の輸送を担当する、陸軍船舶司令部(宇品)という独立した部門でした。
戦場に兵隊や装備や糧秣を運ぶのは、作戦輸送。

で、その第三船舶輸送司令官稲田正純少将の言葉。
「この作戦輸送をどうやったか、一言でいえば私の仕事は船員たちに、『行って死んでくれ』と頼むことでした。どんどん兵隊たちを送り込まねばならぬのに、どんどん船が沈む。うまく上陸させても帰りに沈められる。仮に帰ってきても、また行かねばならぬ。船がないんですから一度でお役ごめんというわけにいかない。沈められるまで行かねばならんのです」
マニラとレイテの間を三度往復できた船は、多くの輸送船が動いた中で、たった一隻だけだったそうです。
『死んでくれ』というよりほかに、言い様もやりようもなかった、と。

船員さんたちは、地方人(民間人のこと、軍隊では一般人をそう呼んでいた)ですから、特攻隊とは呼ばないですよね。でもこれは、その心は特攻とおなじではないでしょうか。

船を出すときは、山下奉文司令長官が船長や高級船員を呼んでご馳走をしたとか。これなども、せめてもの司令官の心づくしですか。
それを見習ってか、稲田少将は帰ってきた時に席を設けて、輸送の様子を聞くことにしたそうです。
「みんな九死に一生を得て帰った苦労話のあとで、『すまんがもういっぺん行ってくれんか』と頼むのです。頼む方はつらいが、頼まれるほうはしかしいやな顔はしませんでしたね」

あの昭和、戦前の日本人はそうだったんですよね。頼まれたらいやとはいえない。むしろ頼むほうの辛さまで察して、黙って呑み込んでしまう。みなまで言うなよ、と以心伝心。男は黙って死にに行く、といったらいいすぎでしょうが、うまくいえないけど、何か今と違う日本人の一体感というものが確かにありました。少なくとも自分の命を惜しんで、しり込みするようなことはしなかったでしょうね。

そのときの船長や高級船員の訴えで、決して忘れることのできないことがある、と稲田氏が戦後語っています。

その頃の船は、壮年の船員が全部兵隊にとられてますから、幹部は40歳以上、残りは十代の少年がほとんどだったそうです。
その若者たちが兵隊を運んでいて、自分とあまり年の変わらぬものが向こうは兵隊で死ぬ、われわれは地方人で死ななければならない。同じ死ぬなら、軍服を着て死なせてくれと船長たちに訴える、と。

ここまで読んだときには、不覚にも涙がでました。少年たちのいじらしい願いにです。
死ぬのがいやだというのではなくて、せめて死地に赴くにふさわしい装束を・・・・・
この若者たちはきっと、年の近い兵隊たちと心情的に同化して死んでゆきたかったのではないでしょうか。同じユニフォームで戦いたい、そういうことだったのでは?

「そんなことをいうな。船員は大切な仕事なんだから」と慰めても、
「どうか、これだけは聞いてやってくれ」と、船長たちは涙を流していったといいます。いっしょに死地に連れてゆく若い者のささやかな願いを、何とかかなえてやろうという船長たちの姿にも胸を打たれます。船長らと若い船員たちの年回りは、ちょうど親子の関係になりますか。

勇敢な船員たちの海員魂にも、昭和の日本人の誇りを感じますし、私にとっても忘れられない話になりました。

これらの記録の上では無名の人々のことを、日本人が時に思い出すことも、ささやかながらひとつの鎮魂になるような気がするのですが。












posted by shuuin at 19:45| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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