2007年05月23日

それぞれの胸のうち


岸恵子主演の特攻隊の映画のことが、あちこちで少し話題に上っているようです。岸さん自身があちこちのテレビで、あの戦争のことを語ったりもしています。

完成試写会でだったか、「志願という名の命令で・・・」という言葉が最初にありましたが、「?」という気がしました。
それがモデルになった「特攻の母」の言葉なのか、岸恵子本人の言葉なのか、判然としなかったからです。

映画はフィクションですから、歴史をそのままに再現することは無理だとは、わかっています。ただ、この手の映画の時には、中途半端な作り物を見せられるのがこわくて、たいてい二の足を踏んでしまいます。

ただこの頃は、ちょっと違った考え方をするようになりました。
例えば昨年の「男たちの大和」にしても、おかしなところはたくさん目に付きますが、大勢の人が映画を見て評判になった。そのことに意味があると、感じはじめたのです。そこを入り口にして、昭和の歴史に関心が生まれれば、それはそれで無意味ではない、と。


ところで前から、特攻についてのあれこれで、いつも気になっていることがあります。

だいぶ前のことですが、こんな記事を読んだことがありました。
「うちの息子をつれていかないでほしかった。恨みます」
ある特攻機の操縦士の母親の悲痛な叫び・・・・・

あの昭和20年8月15日、終戦の詔勅をうけたあとで、宇垣纏中将が沖縄に特攻出撃しました。詔勅に逆らう形になってしまいますから、軍服の徽章もすべて剥ぎ取って、搭乗したといいます。
つまり宇垣中将は、自決するための特攻であったのですが、その機を操縦した若者の母親が後年もらしたという、恨みの言葉がこれだったのです。

宇垣纏は、かってブーゲンビルで山本五十六長官が撃墜されたときは、二番機に乗っていた聯合艦隊参謀長。自らも海に墜落して重傷を負います。山本五十六の遺骨を運ぶ「武蔵」で内地に帰り、海軍病院に入院。比島沖海戦(レイテ)では、「大和」艦橋にいましたが、その後は鹿屋基地で特攻隊の指揮を取っていました。
宇垣中将の特攻自決は、送り出した隊員たちの後を追ったのでしょう。
中将なりの責任の取り方、だったのではないでしょうか。

その時感じた違和感は、(果たして操縦を命じただろうか?)というものでした。もしかしたら、若者は「ご一緒させてください。私も連れて行ってください」と、すがって頼んだのかもしれない・・・・・・
もしも、もしもそうであったら、お母さんは息子の気持ちを貶めることにならないか?
そのときは、ふっとそんなことが頭をよぎりました。母親の気持ちはわかりますが、例え肉親であっても、死んでいった者の気持ちを忖度するのは難しいものです。

後になって、このとき同行した機が10数機だったと知りました。
かれらはみな特攻隊員だった。突然の終戦で目的を失った。後世の目で冷静に判断してれば、というのは無理でしょう。やり場のない興奮の中で、何時間か前に出撃した戦友たちの後を追ったのでしょうね。
終戦の詔勅を聞いて、ああ命拾いした、と思った若者はそうはいなかったような気がしてなりません。

余談ですが、少年時代ははいつも「自分だったらその時死ねるかか」と、心のうちで自問する癖がありました。もしも私がそこにいたら・・・迷わずいっしょに飛んだだろうな。

この、いってみれば最後の特攻隊の若者たちの、純粋な気持ちと純情さを素直に受け入れてあげたほうが、死者を悼むことになりはしないか?
そんな気がしてなりません。




posted by shuuin at 17:47| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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