2007年06月04日

敷島のやまとの国の山桜

一昨日、ちょっと触れた、某大学教授のサイトで面白い解説?がありました。面白いというより、気になる記事。

例の海軍の最初の特攻隊の、部隊名のことなのです。
敷島、大和、朝日、・・・これを聞いただけで、往時の日本人にはすぐにピンと来ます。本居宣長の歌にちなんでいることは、誰でもわかったはずです。あらためて、本歌を示すほどもないほど、人口に膾炙していましたから。

ところがその教授は、その部隊名を決めるときに、参謀長とかがなんと、「愛国百人一首」の札をめくって決めたと。
まことしやかに、HP上で史実として書いていたのです。

戦時中に、そんな歌留多が作られたのは事実ですが、そんなものを引っ張り出さなくても歌は浮かぶはずですね。

日本の国花は、ソメイヨシノではなくて、白い山桜のことだよ。
これは子供が、親や先生から、あるいは上級生から聞かされること。
そのときに、引き合いに出されるのが、宣長の歌でした。
しきしまの、やまとごころを、ひととはば、あさひににおう、やまざくらばな。

ですから、命を散らす→桜→宣長の歌を連想するのに、なにも歌留多をだすまでもない。

おそらく、教授の教養の程度を露呈しているのか(自分がそこで歌を知って、結び付けた?)、いわゆる半可通のひとりよがり。でなければ、なにか為するための記述かもしれません。

問題は、曲がりなりにも現職の私大教授ですから、若者たちを教えているということ。

ところで、昨日の薫空挺隊の隊長は、中重男中尉という24歳の青年でした。記者のメモ帳によると、柔道剣道ともに4,5段で、いつも『良寛論語』という本を、愛読していたといいます。お兄さんも戦死していたとかで、いよいよ出撃のときにつくった辞世の歌は、「亡き兄の教え守りて吾もまた、往きて守らん武士の道」。

出発の前まで、一人部屋で雑誌を読んでいたとか。それが、当時の文芸春秋で、横光利一の「旅愁」の連載が始まったところだった。
その雑誌をパタンと閉じて、「生きて帰ったら、続きが読めるな」と、記者に笑顔を見せたそうです。
生還はありえないことは、本人が一番知っていたでしょうね。


物語の続きはついになかった・・・・・・・














posted by shuuin at 17:27| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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