2007年06月19日

誤解されても?

昭和12年3月1日に、新兵が到着して、同じ日に三年兵が帰国する。
あの秋田から来た二年兵は、交代がくるまで残ったから三年兵・・・

ところで普通、徴兵検査を受けるときは、本籍地にもどって入営するのが決まりでした。仲間意識とか郷土愛とか、いろいろあるでしょうが、それが日本陸軍の伝統的編成方法。
県民も郷土部隊を誇りにするところは、さしずめプロ野球やサッカーの本拠地球団に対するのと似ている?

ところが、ここにやってきた初年兵は、関東出身の者たちでした。
こういう編成配置は、軍中央で黙って決めますから理由などわかりませんが、どう考えても、前年の「二二六事件」がからんでいるようです。

東京近県の出身者は、本来東京に集められて第一師団入営がきまり。
ところが、麻布三連隊など叛乱軍の主流とされた第一師団は、すでに遠く満蒙の地に出されています。
ちなみに第一師団といえば、本来は首都東京防衛の部隊ですが、これ以後二度と帝都東京にもどることはありませんでした。
そして、最初で最後の戦闘があのレイテ島での戦いでした。
最強とうたわれた第一師団でしたが、実戦はこのレイテが初めてだったのです。考えてみると、8年にわたる寒冷地での猛訓練だったわけですが、熱帯に送られて全滅に近い激戦を強いられました。

余談になりましたが、二二六事件の影響はこの頃の陸軍では、想像する以上のものがあったようです。青森の連隊でも、福岡の連隊でも、若手将校の中にシンパはいたようですし・・・・
「一緒に呼応しようとしたが、あまりに遠くて、どうしょうもなかった」
そんな声もありました。軍中央でも秘かに要注意人物とか、マークしたりして、粛軍のなかみはそれなりに大変だったようです。
そうそう、前に触れた海軍の松田千秋少将も、二二六事件シンパの一人で、要注意人物にリストアップされてたとか・・・・・


で、シナにやってきた初年兵ですが、
「かなり気合は入っていたが、東北の人間と比べて、いかんせん身体が弱かった」
前年に、十九歳の志願兵できて、すでに上等兵に昇進した同年代の若者の証言です。
やはり都会っ子は、弱かった?それではということで、訓練はよりいっそう激しくなります。猛特訓で体力をつけさせようとするわけですから。

この日本軍の訓練振りを望見した中国兵は、どう思ったのか?
あらぬ想像をたくましくしだろうことは、間違いないでしょう。


陸軍の仮想敵はソ連なのですから、シナ駐屯軍の増派はある意味では関東軍を対ソ戦に専念させるためのものともいえます。
関東軍が対ソ戦の訓練をするのは当然ですが、実はシナ駐屯軍も対ソ戦訓練をしていたのです。
そのときの下士官や兵たちが、口をそろえていう事があります。
「お前たちがやっているのは、対ソ戦闘だぞ」
「われわれの仮想敵はシナではなく、あくまでソ連である。そのことを忘れるな」
上官たちから、口をすっぱくして言われた、と。
そのために、かれらは多少の侮りや嫌がらせを受けても、がまんしてたのかもしれません。どうも、目の前のシナ軍を友軍、味方と思っていた節すらあります。

ところで対ソ戦といっても、古くからの歩兵操典の戦法では通用しないことがわかってきます。そのことから、歩兵の教科書である操典が改正されます。はっきり対ソ戦戦法にかえられます。

で、明治以来の歩兵操典が変わるのですから、まさにこのタイミングで、歩兵の訓練が文字通り様相が一変して激化します。
新戦法の猛特訓、しかも夜戦が主になるため激しい夜間訓練として開始されます。

様子をうかがう中国軍にしてみれば、誤解するなというほうが無理?
それこそ、思いっきりに大誤解でも六階でもしちゃうでしょうね。






posted by shuuin at 16:46| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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