2007年07月02日

歴史の因縁

日本の周りの全方位で、日々さまざまなことが起こり続けています。その多くが、好むと好まざるとにかかわらず日本にからんでくるのですから、現代世界の中で一国が生存してゆくことは、大変なことだなとつくづく思います。

かねてから、いろいろな意味で日本の戦後は終わっていないというのが持論でしたが、この頃とみにその感を深くします。

いわゆる特亜とかいわれる地域がらみのことは、すべてがそうだといっても過言ではないでしょう。
他方では、いまわれわれが頼らざるを得ないアメリカが、発信してくる下院議決とか、南京事件映画のようなものまであります。
硫黄島の読み方まで、日本が歴史を書き換えたとFOXニュースが報じたとか、ばかばかしいニュースばかりがはしります。

日本の周りで、勝手に日本の歴史を、書き換えている気さえするほどです。


こんなときだからこそ、より一層、日本人が日本の昭和史をしっかりと細部まで知っておくことが、大切なのではないかなどと思います。


ところで、昭和11年の226事件で岡田啓介内閣が倒れた後を、広田弘毅、林銑十郎を挟んで、昭和12年6月4日には近衛文麿内閣が誕生します。

この近衛内閣の誕生は、国民の熱狂的な歓迎を受けるわけですけれど、その人気のほどは小泉純一郎など足元にもおよばいほどだったといったら、わかりやすいでしょうね。
47歳の青年宰相は、実は前年に岡田内閣の後継として組閣の大命が降下したのを辞退しています。それだけに待望久しい、公爵宰相というわけでした。
ちなみに、この内閣の外相には元首相広田弘毅が就きます。

この近衛内閣の時に、支那事変(日華事変)が起きるのです。
現在では、まとめて日中戦争と大雑把な?表現になっていますが、当時は軍部もふくめて、事件、事変、戦争というものの概念がわかれていますから、シナ事変と歴史上の呼び方をしておきます。
一例を挙げますと、戦時予算などの法令を事変にも適用するか否かが、国会で議論されたりしますが、これなども事変と戦争が別のものと認識されていた証拠になりそうです。

承久の乱、壬申の乱、正中の変、本能寺の変のように、変と乱とを使い分ける、日本人の微妙な感覚というのと似ていますか。

ところで、近衛内閣は6月15日の閣議で「産業五ヶ年計画」を決定するわけですけれど、これは簡単に言えば日本の経済力の根本的な弱さを実感して、何とか早期に国力をつけようという主旨だったのです。

「持てるもの」と「持たざるもの」の対立をなくすこと、それが近衛の世界観、社会観の根本にあった理想のようですが、この考え方はいまの國際格差、社会格差の論にあまりに似通っているので驚きます。ちなみに日本は、資源を輸入しないと生きてゆけないから、いうまでもなく「持たざる国」です。
時代は変わっても、人間社会の対立相克は同じなのかもしれません。

で、ここで興味深いのは、わずか4日後の「ニューヨーク・タイムズ」が、早速牽制記事をだしていること。
「すべての産業を準戦時状態の基礎の上に置き、これによって国防を充実しようとするのは、支那に対する弾圧政策を結果するであろう」

ほかのところでも、朝日新聞、同盟通信、NYタイムズという流れを目にしましたが、これってなにか昔もいまも変わってない?


ところで、ちょっと飛びますが近衛首相の後が平沼騏一郎ですけれど、この人の養子があの平沼赳夫議員。
近衛内閣の議会には、河野洋平の父親や、鳩山由紀夫の祖父などもでてきて、政府を攻撃するわけですから因縁しらがみは連綿とつながっている?
二人の父親の名前が、ともに一郎なのはまったくの偶然で、これは因縁ではないでしょう。冗談はともかく、ずっと昔のことと思っている戦前戦中が、知らないでいることが恥ずかしいほど、すぐそこの出来事だったということにあらためて気づかされます。











posted by shuuin at 18:56| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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