2007年07月09日

北支事変と支那事変

盧溝橋事件から支那事変が始まったと、簡単に言いましたけれど、事件が突発したのが、何度も言うように七夕の夜。

事件そのものは、日本側の懸命な不拡大調停交渉で、7月11日午後に双方が撤退することで合意ができます。

ところでこのときはすでに、中国側は全土で抗日の指令が行き渡っていましたし、コミンテルンでの排日抗戦の指令がすでに出ていました。この変化を、知らないのは日本側ばかり?

シナ通といわれた軍人や外交官たちも、自分の知ってる中国人から全中国人を見てしまう。「人は自分の見たいものだけを見るものだ」という言葉は、ここでも当てはまるのかもしれません。
これは、わたしたちもしばしば、知らず知らずにやっているかもしれませんね。


蒋介石の南京政府がそのいわゆる中央軍を北上させて、華北奪還の姿勢をあらわにしてくる動きを見て、参謀本部は以下のような命令を支那駐屯軍司令官に与えます。
「現任務ノ外平津地方ノ支那軍ヲ膺懲シテ同地方主要各地ノ安定ニ任ズベシ」

当時は、公文書や命令書なども漢字とカタカナでしたね。漢文の返り点などもカタカナだった名残かも?
正式の文書に女文字(平仮名)は使わなかったのかもしれない、といま気づきました。現代女性が聞いたら、柳眉を逆立てて噛み付かれますね。下手をしたらかみ殺されるかも、クワバラクワバラ。
明治期までは、漢文で日記でもなんでも書けることが、男の教養のひとつであったということを知っておくことも、歴史をかじるにはムダではないかもしれません。そもそも教養なんて人から見たら無駄なことをいっぱい知ることなのかもしれませんから?

果てしない脱線ですが、もとにもどして、命令の主旨はなにか。
現任務とは、居留民保護と鉄道を守るという駐屯軍の本来任務。それ以外に、北平=北京・天津地区で動きを見せるシナ軍を懲らしめて、現地の安定をはかるように、というもの。
逆に言えば、本来任務地で駐屯軍としての任務を果たせ、ということ。

7月27日のこの時点では、まだ事変は始まってないので、ただ不穏な動きがあるということで、いまふうに言えば警戒レベル1になったところ? ただし、「ようちょう」というのは即座に武力行使してもよいということですから、支那駐屯軍は28日に北京周辺の中国軍を総攻撃し、30日にはもう追撃を停止します。

ところが、中国軍側がチャハル省に進出してきたために、いわばシナ駐屯軍が側方と背後に回り込まれる形になってしまった。これを、掃討するのがいわゆる「チャハル作戦」ですが、そのまえに万里の長城をこえて北上してくる中央軍を撃破しなければならない。それが参謀本部と現地軍の考えでした。一度に両面で戦うわけにはいかないですよね。
それで、8月11日から独立混成第一旅団と第五師団で長城線への攻撃を開始しました。このときから「北支事変」がはじまったのです。

長々詳しく書きましたが、要するに事変が始まったのは盧溝橋事件が起こってから、1ヶ月以上たってからで、しかもこれはまだ北支事変でした。

万里の長城の山岳地帯での激戦の後、長城線を突破して24日にチャハル省まで進出しました。

ところで、このチャハル作戦には関東軍が独断?で作戦を発起して参加してきたといいます。全面戦争になっているのなら、味方が援軍を送ってきたということになるのでしょうが、参謀本部はあくまで不拡大のいわば局地戦で考えています。

関東軍が、勝手に「関東軍チャハル派遣兵団」を編成したわけですが、なんと兵団長があの東條英機中将だったのです。
東條英機はこの年、関東軍参謀長になったばかり。しかも参謀長が直接前線で部隊の指揮をとるのも、きわめて異例のこと。
ちなみに、226事件のときは関東憲兵隊司令官だったはずですが、東京憲兵隊ではないにしても、関東軍に出されたのはなにか関連があるのか?中将に昇進してますから、ただ普通の移動だったのか・・・・・

いろいろと戦線が拡大しそうな気配に、ついに8月31日に「北支那方面軍」(司令官寺内寿一大将)が編成されます。そして、9月3日にそれまでの「北支事変」が「支那事変」に改められます。支那駐屯軍もここからは支那派遣軍になるわけです。

細かいことのようですが、この呼び方の変遷の中に陸軍中央の考えというか、そのときの認識やスタンスというものが、よく現れていると思います。
そしてこれが、そのまま日本側の事変に対する見方でもあったわけですね。

中国側から見れば、盧溝橋からずどーんとひとまとめに中日戦争なのでしょうが・・・・・・・


ところで、先の第五師団ですが、師団長があの板垣征四郎中将。
なんだか、集まるところにあつまるものだと、妙な感心?をしてしまいます。まさか、類は友を呼ぶというわけではないでしょうが。
後に板垣陸相のときの陸軍次官が東條英機だった、それを思い出したからかもしれません。調べてみたら、陸軍士官学校では板垣が一期先輩、陸軍大学では東條が一期先輩でした。みんな陸軍で青春をともにした、同窓生だったわけですか。
あ、みんなといってしまったのは、後のノモンハン事件の小松原道太郎師団長、比島の本間雅晴師団長などが、東條の陸大同期だったからでした。


ところで実は上海では、これよりさき8月9日に中国側の残虐事件が起こっています。それは第二次上海事変になるのですが、日本側では盧溝橋事件が飛び火したと捉えますが、今から見るとこれは蒋介石側の一斉蜂起だったのではないか? そんなことをふと考えてしまいます。
上海の日本租界の守備には、陸軍は一兵もいません。わずかに海軍陸戦隊がいるだけでしたが・・・・・・






posted by shuuin at 19:06| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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