2007年07月13日

続上海陸戦隊

近衛内閣の閣議決定で、陸軍の派兵をとりつけた米内光政ですが、陸軍の到着には時間がかかりそうです。
米内は、陸軍の到着までは武力発動をせずに時間を稼げ、と打電させます。

8月11日の朝、午前10時過ぎに商務印書館の建物から、中国兵が発砲し始めました。しかし大川内少将は、訓電にしたがって応戦を禁止します。
午後5時ごろに、突然近くで地雷が爆発して、あたりの三つの橋が破壊され、それを合図に中国軍の攻撃が開始されました。

2000名の中国軍に応戦したのは、上特陸の第六中隊と第五中隊でした。終夜、全線に渡って、つまりまわり中から攻撃を受けたといいます。翌日も戦闘は続き、中国軍は航空機による爆撃も加えましたから、双方の避難民にも命中して、パニック状態。

日本陸軍の上海到着前に陸戦隊を壊滅させようとして、まさに大軍で執拗な攻撃をくわえる中国軍に、上特は一時全滅の危機に瀕しながら陸戦隊魂で戦い抜いたようです。
それを支えたのが、水雷戦隊や駆逐隊の陸戦隊、つまり駆逐艦などに乗り組んでいる陸戦隊でした。日の丸ならぬ軍艦旗のもとに、仲間と在留邦人を救おうと、なんだかてんでんばらばらという感じでの集まり方をしています。
一刻も早く、いけるものから翔んでゆく、おっとり刀とでもいう気配が到着日時からもうかがえます。


包囲する側は入れ替わり立ち代りでしょうが、少人数の方は不眠不休になるのはいまも昔もかわらない。そのうえに上海は、英、米、独、ソ、日本などの共同租界とフランス租界がある中での市街戦ですから、各国の権益を冒さないよう神経を使います。
いわば世界の見物?のなかでの、困難な守戦だったのですね。

蒋介石は、日本軍が攻めてきたから「自衛戦争をする」と宣言をします。これを受けて日本政府は、8月17日の閣議で不拡大方針の放棄を決議しましたが、基本方針はなお不拡大だったようです。
政府も軍中央も、本当の日本の国力の実態を知っていた訳ですからね。

上海事変そのものは、陸軍部隊の準備が整って総攻撃に移った10月27日までかかりました。約3ヶ月・・・・・・



戦死者の数は極秘だったといいますが、陸戦隊の被害も相当だったようです。


先にふれた第三艦隊の旗艦「出雲」ですが、12年7月7日に旗艦になっていました。まさに、盧溝橋事件が勃発した日です。しかも第三艦隊は、軍令部直属で軍艦はほかに給油艦が1隻、つまりは事件の勃発で急遽警戒のためにつくった艦隊のようです。第三艦隊というのは、前にも変事に際して臨時に編成されたことがありましたから。
要するにこの時点では、海軍には支那派遣艦隊も何もなかった。支那方面軍というのができたのも、上海事変が起こってからでした。

盧溝橋事件で支那事変(いま日中戦争)をはじめているとしたら、閣議で派兵を云々するのはそもそもおかしいわけですしね。

つまり日本側には、中国と戦争する気はやはりなかったのでは?

この時点で、戦争の準備を万端整えて、戦争を仕掛けたかったのは本当は誰だったのか? ふと考えてしまいました。
いろいろな、状況証拠から浮かび上がるのは、いまの歴史にいわれていることとはまったく別の人物なのですが?







ラベル:状況証拠 閣議
posted by shuuin at 19:57| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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