2007年08月07日

第一目標は京都

日本の八月は、まさに夏の盛りで暑さも自然の風物詩なのだけれど、昭和20年の夏はひときわ暑かったとよく言われます。


昨日は広島の原爆忌。テレビの前で黙祷を捧げることに、なにほどの意味があるかと問われれば言葉もありませんが、ひとには言わぬ自分だけの習慣になってしまいました。
そして明後日は長崎の日になります。

前にどこかに書きましたけれど、ルーズベルト大統領が進めた原爆開発計画、いわゆるマンハッタン計画ですがこれはもちろん極秘ですから知る人も限られる。ルーズベルトの死で大統領に昇格して実際に原爆投下に署名したトルーマンも、副大統領時代にはまったく知らされていなかったほどです。

原爆が完成したら、日本に対して使うということは、つとにケベック会議のときに決定していたそうですね。あのレイテで決戦をするというマッカーサーの意見を採用することを決めたカナダでの会議ですか。

こうして日本投下は、既定の事実としてことは進行したわけですね。

ところで、このマンハッタン計画には多くの亡命科学者たちが大きな役割を果たします。当時のヨーロッパの情勢と絡み合わせると、ドイツ、ハンガリー、ポーランドなどの研究者がアメリカに流れ込んだのも歴史の綾というしかない。その知識と技術を借りて、原爆が生まれたのも皮肉です。
後に彼らの一部が、予告なしの投下に反対の意見を出したことなども、政治的に既定の事実となってしまってるものを変える力はありませんでしたね。

原爆投下推進派の意見は、何より国民である米軍兵士の生命をこれ以上犠牲にしない、というこの一点でした。
ところで戦後も長く続いた公民権運動でもわかるとおり、当時のアメリカは人種差別の国でしたから、イエロージャップである日本国民の命などは眼中になかった人も少なくなかったのも、時代の背景として見逃してはいけないのではないか? 最近言われる戦争を早く終わらせるために、日本国民の生命を守ったのだという議論は、後からとってつけた政治的な発言のような気がします。反米論者とはなんのかかわりもありませんが、歴史をありのままに見ようとするとそう解釈せざるをえません。

私見ですが、最近の日本人は自らが黄色人種だと知らない人もいるようです。皮膚の色で、人種を差別しないことは素晴らしいことなのですが、さかのぼって歴史を見たり語ったりするときには、その時代の観点に立って事象を検証することが不可欠だと思います。
とりわけ近現代史において、いま決定的に抜け落ちてる視点がこのカラードということだと感じます。
例えば日露戦争や東郷平八郎の世界的評価なども、黄色人種を抜きに語れないように、西欧人の目にはイエローに見えていることを日本人は意識の隅においておくべきではないのかな?


話がそれましたが、原爆の投下目標ですが、それを決める目標委員会が設置されます。
最初の都市は、爆弾の威力を十分に示せる規模を持つこと、つまり日本人の意気を阻喪させる目的を果たすために、大被害が見込める都市ということです。軍事的性質を持つことと、これまでに爆撃の被害のない都市という条件がつけられます。


実は、製造責任者のグローブス少将の目標にはまず東京が上がります。東京はすでに大空襲の被害都市ですから、この場合は宮城を狙ったわけですが、元日本大使で国務長官代理グルーとスチムソン陸軍長官の話し合いで、天皇は日本の象徴以上の存在で、日本の再建にはなくてはならないとして反対されます。

そして、目標委員会が挙げたのが次の四つでした。

 小倉―最大の軍需工場がある。(八幡製鉄所など?)
 広島―軍港。
 新潟―日本海の要衝。
 京都―日本の旧首都。人口百万。

で、グローブス少将の第一目標は京都だったらしい。
「この爆弾の効果を最もよく点検できるし、京都には大きな工業地帯があるから」、と。

京都には舞鶴軍港があって、海軍工廠もありましたね。
この場合京都の人口に比例した人的被害効果を見ることが、大きな目標になってたことが、伺えます。

当時の日本人はアメリカはまだ歴史のない国といって文化面では蔑みましたが、実際、アメリカインディアンの遺産を別にすれば、建国百数十年の米国はきれいさっぱりというほど歴史遺産などない国。
千年の都の、古都の歴史遺産の価値などは、頭をかすめもしなかったのも無理はありません。

その京都を救ったのは、ひとつの偶然にすぎなかったかもしれません。
参謀総長マーシャルに報告する前に、スチムソン陸軍長官が目標計画を見たのは偶然。京都を第一目標とするグローブス少将の説明に、京都はダメだということを縷々語ったといいます。
京が日本の芸術と文化の中心であるという、長い歴史をあげて反対したと。スチムソン自身が知日家であったのか、あるいはグルーの話を聞いていたのか、興味深い気がします。

一方で、このスチムソンは原爆を日本に投下した後の、戦後の政治上、外交上の武器としての役割をすでに考えていたそうです。
そのためにも、アメリカとしては、あるいはイギリスはじめ自由主義陣営としては、原爆は日本に投下されなければならなかったわけですね。
その恐るべき威力を世界に示すための、実地試験場?として・・・・

さらに製造担当者たちには、20億ドル以上かけたマンハッタン計画の成果がもし使われずに戦争が終わってしまったら、議会でどれほどの追求を受けるか知れないという差し迫った理由があったのです。

あの頃の日本の都市は、B29が連日現れて、執拗な爆撃を加えられていました。B29というのは、幼児でも知ってる言葉でした。
その爆撃飛行団を指揮したルメイ少将の、「火攻め攻撃」の予定表では8月中には日本には都市はなくなり、9月には鉄道路線でも爆撃するしかなく、10月にはB29だけで戦争を終わらせることができることになっていたそうです。

グローブス少将の焦りは、そこにもあったのです。目標都市がなくならないうちに、一刻も早く原爆の投下を急がなければならない。

かくして、八月は悲劇の月になってしまったのですね。
小倉上空は、確か雲で視界が悪かったとか。長崎は小倉の代わりの目標になったわけです。
長崎も軍港でしたし、関東軍との間を断つために、本州西部の海港を狙えというマーシャル参謀総長の意見もあったようです。

ちなみに、グローブスに聞かれてルメイが挙げた原爆投下目標は、京都、広島、新潟の順だったそうです。スチムソンの反対がなかったら、金閣も銀閣も、清水寺も八坂神社も、渡月橋も祇園でさえもつまり京都に残る一切合財が消えてなくなっていたのですね・・・・・・・・


初期には日光が候補にされました。これは、未爆撃都市の中で人的被害を少なくして、爆弾の威力だけを示すというものでしたが。

当時、日光には皇太子時代の天皇陛下が学習院の生徒として、学友たちと一緒に、疎開しておられました。まさか、アメリカ側もそこまでは知らなかったでしょうが、東照宮でも狙うところだったのでしょうか?























posted by shuuin at 17:35| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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