2007年07月17日

電力戦国時代

いま年金問題で議論が沸騰してますが、その所轄の厚生労働省は誰でも知ってるように厚生省と労働省が一緒になったもの。ところでその厚生省ができたのが、昭和12年だといったら意外な顔をする人がいます。
近衛内閣の閣議で決まったのが、盧溝橋事件の2日後だったというと、二度びっくり?この成立に関しても面白い話があるのですが、それはまた別のところで。

思いがけない地震災害で、今朝も原発のことで東京電力が大臣からお叱りを受けたとかの報道がありました。
自然災害でも叱られる電力会社ですが、いまの日本のインフラの基幹のひとつである電力会社が、実は昭和12年の「電力国家管理法」によって生まれたということに、触れておきたくなりました。

この法律は、このあとの日本の戦争の歴史などから、いわゆる国家権力による統制、軍事統制と十把一絡げにされているようです。

けれども、よくよくその経緯をみるとことはそれほど単純ではなく、むしろよくそこまでやってくれたと感謝したいほどです。
その遺産があったからこそ、日本の戦後復興が可能だったし、いまの日本の電力事情があるのだな、そう気づかされます。

成立したのは近衛内閣でしたが、これほどの大事業が一朝一夕で決まるはずもありません。実は、あの二二六事件で倒れた岡田啓介内閣にすべての鍵があったのですね。
岡田内閣といえば、二二六関連でしか語られませんし、その事跡についても問題や事件はともかくこれといった印象がありませんでした。
ところが、この内閣のときにできた「内閣調査局」という役所が、なんともすごいことをたくさんやってます。
先の厚生省が生まれたのも、この調査局からだったのですね。
その遺産の中には、戦後に花開いたものもいっぱいあるのですが、いまあらためて進行中のものもたくさんあります。そして電力の国家統制の必要性をあらためて示したのもここでした。


「統制」という言葉から、つい連想するのは物価統制とか統制経済とか、とにかく上からなにか締め付けられるイメージですか。言葉の与える印象というものがもしあるとするなら、あまり良いものではなようです。われわれには、ある種の言葉に持つ先入観があるのかも知れません。

ところでこの「統制」という言葉、もともとは陸軍用語だったんですね。
ほかにも「構築」なども陸軍の言葉、陣地構築などからきています。
さっきも、ギャルみたいな女子アナが、なんとかを構築する云々とニュースを伝えているのを視て、ふき出しそうになりました。なにもわざわざそんな言葉を使わなくても、ほかにいくらでも言葉があるだろうにと。ところが、ネットでもウェブ構築とかLAN構築とかよくつかわれてますね。日本陸軍も何かを残してくれている?

あれあれ、また脱線しました。話を線路に戻します。

電力国営案自体は、明治40年にあの後藤新平が、「水資源は一会社が私有するのではなく、国全体、国民全体のものでなくてはならん」といってから、何度か取り上げられていました。ただ、誰も正面から取り上げたことがなかったそうです。当時は水力発電が主力ですが、水源地を私有する企業が水利権を持っていたのですね。
それを、岡田内閣で初めて本格調査に乗り出したわけです。

昭和10年当時の日本はすごいですよ、もう開けてびっくり玉手箱状態。電力会社は、株式会社組織だけで650社以上あったのですから、まさに電力戦国時代で群雄割拠してました?
電気料金は会社のコストによって違うから、地域によってまるでばらばらだった。

庶民が家庭で使う電球(十六燭光って暗そう?)だけでも、百種類以上あって会社ごとに違っていたといいます。
工場の動力も会社ごとに差があったのでは、困りますね?

五大電力*の間では、送電線もダブっていたそうですからひどい二重投資。そりゃ鉄塔や電柱をそれぞれ建てたのでは、ムダどころの話じゃないですね。家庭の軒に何本も引込み線があって、それぞれにメーターがついていた、なんて話はまさにハナシです。

内閣調査局の調査官によってこういう実態が、はっきりしたわけです。
おまけに、政党を通じての供給区域や水利権の争奪戦があることも、はっきりしたとか?
二二六事件を起こしたのは、政党政治への憤りだったという見方をふっと思い出します。

あまりに自由奔放になりすぎた、つまり乱れたものを統制が取れたものにする。言葉の本来の意味の「統制」、それがこのときの「電力国家管理法」案だったわけですね。


その遺産を受けて、いま私たちが日本中どこでも同じような料金やサービスや安心を、当たり前のように享受できているのだなと、あらためて気付かされました。

いろいろなところで、昭和は脈々と生きているのですね。


* 五大電力というのは、関東では東京電灯(いまの東京電力)、名古屋から阪神にかけて東邦、大同、宇治川電気、日電がしのぎを削っていました。巨大な資本力の数社が、同一地盤で顧客の争奪戦を演じたわけで、いまのいわゆる公共事業的性格は、皆無に等しかったようです。











posted by shuuin at 18:42| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月14日

河川用砲艦?


いま台風4号が日本列島来襲中ですが、70年前の上海で中国軍が攻撃を開始した日も、台風の強風が吹いていたそうです。

黄浦江にいた軍艦「出雲」のことをちょっと調べていたら、面白いことがいくつか・・・・・

上海事変のときのどこにも、軍艦と記されていますが、戦艦とか巡洋艦といった艦種が書かれていません。

もともと「出雲」は大正年間に就役(1900年)した出雲型の一番艦、1万トンにもみたない軍艦でした。
1904年に始まったあの日露戦争には新鋭艦で、蔚山沖海戦、日本海海戦に参加、第一次大戦では遣米派遣艦隊の旗艦を勤めています。
で、1921年に一等巡洋艦に類別されますが、10年後の1931年には海防艦になっています。

ですから、上海事変の時には艦齢37年の老朽の海防艦。でも、れっきとした軍艦でした。

そしてこの「出雲」が、8月14日に中国魚雷艇に攻撃を受けていました。

先に中国軍は、上海の日本租界を爆撃したといいましたが、ちなみにこれは航空戦の最初でした。これも14日。

つまり蒋介石軍は、13日の集結の速かったことといい、戦闘開始と同時に陸海(河ですが)空の三軍で作戦行動をとったことといい、いかに周到に戦争準備されていたかを知ると、舌を巻かざるをえません。


ところで攻撃を受けた「出雲」ですが、ほかの河川用砲艦とともに、敵の魚雷艇を撃退したとありました。

揚子江には河川用砲艦が来ていたようですね。このときの艦名がわかりませんでしたが、終戦時に上海にいて中国軍に接収された砲艦「熱海」がこれかもしれません?
ちなみに「熱海」は「鳥江」と改名されて中国艦に・・・・・・


河川用砲艦「熱海」ですが、全長46M余、全幅7M弱、294トンの細長い艦。特徴は1,13Mという吃水の浅さですか。これならたいていの河川を遡行できそうです。1200馬力で、16ノット、小さいながら高角砲1基、機銃5基を積んでいます。乗員54名。

それでこの砲艦は歴とした軍艦なんですね。
前にこのブログのどこかで、駆逐艦は軍艦ではなかったと書いた覚えがありますが、潜水艦も同様です。これらはみな艦艇の部類、いってみれば、SHIPとBOATのちがいですか?

軍艦は艦首に菊の御紋章がついていました。艦艇にはそれがつかない。
したがって軍艦の艦長は大佐ですが、駆逐艦、潜水艦はたいてい少佐艦長です。ちなみに、昭和18年に軍令部の命を受けて、決死の訪独航をした伊8潜の艦長は内野大佐でしたが、これは役目柄の例外?

で、御紋章をつけた河川用砲艦の艦長は、艦長を歴任した大佐昇進目前の中佐でよいということになっていたようです。
ほかに給油艦、給炭艦、特設艦の艦長などに、大佐艦長が多いわけもこれでわかりますね。
つまり海軍では戦艦、巡洋艦、空母だけでなく、これら補給艦の格付けも高かったということになりますか。

東郷元帥の子息は、戦闘艦の指揮はとれなかったはずでしたが、たしか特設艦の大佐艦長だったと記憶しています。
孫の東郷中尉が「摩耶」で戦死したことは前に書きましたが、息子はどうだったのかと、前に調べたことを思い出しました。

大河川のある国の戦闘には、どこでもこのGUNBOAT(砲艦)が活躍したようですね。大河沿いの各都市の連絡通信とか、いわゆる奥地でのもろもろに・・・・・・

それにしても、出来事の枝葉の部分をたどってゆくときりがありません。歴史って、歴史好きにとってシャングリラなのかラビリンスなのか?

どなたか教えていただけませんか?



ラベル:出雲 揚子江
posted by shuuin at 17:54| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月13日

続上海陸戦隊

近衛内閣の閣議決定で、陸軍の派兵をとりつけた米内光政ですが、陸軍の到着には時間がかかりそうです。
米内は、陸軍の到着までは武力発動をせずに時間を稼げ、と打電させます。

8月11日の朝、午前10時過ぎに商務印書館の建物から、中国兵が発砲し始めました。しかし大川内少将は、訓電にしたがって応戦を禁止します。
午後5時ごろに、突然近くで地雷が爆発して、あたりの三つの橋が破壊され、それを合図に中国軍の攻撃が開始されました。

2000名の中国軍に応戦したのは、上特陸の第六中隊と第五中隊でした。終夜、全線に渡って、つまりまわり中から攻撃を受けたといいます。翌日も戦闘は続き、中国軍は航空機による爆撃も加えましたから、双方の避難民にも命中して、パニック状態。

日本陸軍の上海到着前に陸戦隊を壊滅させようとして、まさに大軍で執拗な攻撃をくわえる中国軍に、上特は一時全滅の危機に瀕しながら陸戦隊魂で戦い抜いたようです。
それを支えたのが、水雷戦隊や駆逐隊の陸戦隊、つまり駆逐艦などに乗り組んでいる陸戦隊でした。日の丸ならぬ軍艦旗のもとに、仲間と在留邦人を救おうと、なんだかてんでんばらばらという感じでの集まり方をしています。
一刻も早く、いけるものから翔んでゆく、おっとり刀とでもいう気配が到着日時からもうかがえます。


包囲する側は入れ替わり立ち代りでしょうが、少人数の方は不眠不休になるのはいまも昔もかわらない。そのうえに上海は、英、米、独、ソ、日本などの共同租界とフランス租界がある中での市街戦ですから、各国の権益を冒さないよう神経を使います。
いわば世界の見物?のなかでの、困難な守戦だったのですね。

蒋介石は、日本軍が攻めてきたから「自衛戦争をする」と宣言をします。これを受けて日本政府は、8月17日の閣議で不拡大方針の放棄を決議しましたが、基本方針はなお不拡大だったようです。
政府も軍中央も、本当の日本の国力の実態を知っていた訳ですからね。

上海事変そのものは、陸軍部隊の準備が整って総攻撃に移った10月27日までかかりました。約3ヶ月・・・・・・



戦死者の数は極秘だったといいますが、陸戦隊の被害も相当だったようです。


先にふれた第三艦隊の旗艦「出雲」ですが、12年7月7日に旗艦になっていました。まさに、盧溝橋事件が勃発した日です。しかも第三艦隊は、軍令部直属で軍艦はほかに給油艦が1隻、つまりは事件の勃発で急遽警戒のためにつくった艦隊のようです。第三艦隊というのは、前にも変事に際して臨時に編成されたことがありましたから。
要するにこの時点では、海軍には支那派遣艦隊も何もなかった。支那方面軍というのができたのも、上海事変が起こってからでした。

盧溝橋事件で支那事変(いま日中戦争)をはじめているとしたら、閣議で派兵を云々するのはそもそもおかしいわけですしね。

つまり日本側には、中国と戦争する気はやはりなかったのでは?

この時点で、戦争の準備を万端整えて、戦争を仕掛けたかったのは本当は誰だったのか? ふと考えてしまいました。
いろいろな、状況証拠から浮かび上がるのは、いまの歴史にいわれていることとはまったく別の人物なのですが?







ラベル:状況証拠 閣議
posted by shuuin at 19:57| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月12日

上海事変と陸戦隊

昭和12年の世相はというと、たとえば映画や流行歌を取ってみても、まだまだそれほど世の中が暗く緊迫していたとは思えない。

ディック・ミネの「人生の並木道」とか、淡谷のり子の「別れのブルース」などもこの年でした。
帝国劇場や日比谷映画、日劇などにかかるハリウッドやフランスの名画も賑やかだし、日本映画も多士済々、まだまだ古き良き昭和初期の香りを十分に漂わせていました。

いまも健在のサントリーの角瓶が、洋酒の壽屋から発売されて一世を風靡するのも、この年からです。

朝日新聞社の訪欧機「神風号」が、東京の立川飛行場を4月6日に発って、94時間17分の世界新記録を樹立してロンドンに到着。昭和はまだまだ華麗で元気でした。

ところで目を満州国の南に接する北支に向けると、支那駐屯軍が北平(北京)の中国軍を追い払ったのが7月28日〜30日の3日間。
その29日に通州で3000人の保安隊と中国軍が、在留邦人と朝鮮人260人を惨殺しました。いわゆる通州事件です。

事件は外交問題として、中国側の謝罪と賠償金で結着します。

しかし8月9日の時点では、揚子江流域に居留する日本人約3万人が、身の危険を感じて上海に引き揚げてきました。
その同じ日に、海軍の上海特別陸戦隊第1中隊長大山勇夫中尉と斉藤与蔵1等水兵が、上海市保安総団員に襲撃されて殺害されるという事件が突発します。

二人は虹橋飛行場のすぐそばを、車で走行中でした。中尉は拳銃も携行せず、運転していた一水は肩につるしたホルスターに拳銃を納めたままの姿で発見されました。おそらくいきなり、問答無用で射殺されたのでしょう。

ちなみに虹口(ホンキュウ)一体が、かねてから上海にあった各国の共同租界のうち日本租界があったところで、日本人がたくさん住んでいました。19世紀の半ばから長崎上海間には上海航路があって交流が盛んでしたから、新鮮な魚や野菜を長崎から運んで、町並みも当時の長崎の市街と同じで、日本人たちは内地にいるのと変わらぬ生活をしていたといいます。

北支で盧溝橋事変が起こったとはいえ、急にあたりで不穏な空気が漂い、こんな事件が起こったのですから驚いたでしょうね。自分たちが外地にいることを、痛感したことでしょう。


軍令部は激怒しますが、偶発的な事件とみなして隠忍自重、責任者の謝罪と処罰を要求しました。
日本側の要求に対して、蒋介石は逆に強硬な態度に出て、8月11日呉淞江口を閉鎖、中国第九集団軍に上海包囲態勢を命じます。つまりはっきりと臨戦体制をとったのです。その午前6時には、もう集団軍の総司令部が到着しています(異例の速さ?)。そしてあっという間に中国軍の総兵力は3万人に達して、上海を半円形に包囲します。反対側は海のような黄浦江ですから、これで上海は完全包囲ですね。

一方で、上海を守備する日本側には陸軍部隊はいません。もともと上海の共同租界の守備ですから、海港だから海軍がというわけで、大川内伝七海軍少将指揮の上海特別陸戦隊2300人、漢口特別陸戦隊300人がいただけでした。
急を聞いてあとから、海軍の各基地から陸戦隊が駆けつけます。
呉鎮守府第二特陸539名、佐世保鎮守府特陸539名、軍艦「出雲」陸戦隊200名、第11陸戦隊200名。それでも総勢4千人ちょっと。

人数が少ないとはいいながら、シャン特の危機にかけつける各地陸戦隊の急行ぶりに、いじらしささえ感じてしまいます。

北支の万一に備えて,青島に向かうはずの軽巡「木曽」が、呉一特陸、横一特陸(横須賀鎮守府)を載せて急遽変針して上海に向かったとき、24ノットの第二戦速で二十四時間ぶっ続けで駆けつけたとか。
日本海軍始まって以来の、出来事だったといいます。

これより先、黄浦江にいた第三艦隊司令長官長谷川清中将は、「此ノ際、速カニ陸軍派兵ノ促進緊要ナリト認ム」と、緊急電を旗艦「出雲」から東京に送ってます。それが8月12日夕刻。
電報を受けた米内光政海相が、四相会議に陸軍の上海派兵を要請します。翌13日朝の閣議で決定しますが、陸軍は海軍とは違って動員をかけても準備が要ります。現地に到着するのは早くても20日後・・・・











posted by shuuin at 19:08| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月09日

北支事変と支那事変

盧溝橋事件から支那事変が始まったと、簡単に言いましたけれど、事件が突発したのが、何度も言うように七夕の夜。

事件そのものは、日本側の懸命な不拡大調停交渉で、7月11日午後に双方が撤退することで合意ができます。

ところでこのときはすでに、中国側は全土で抗日の指令が行き渡っていましたし、コミンテルンでの排日抗戦の指令がすでに出ていました。この変化を、知らないのは日本側ばかり?

シナ通といわれた軍人や外交官たちも、自分の知ってる中国人から全中国人を見てしまう。「人は自分の見たいものだけを見るものだ」という言葉は、ここでも当てはまるのかもしれません。
これは、わたしたちもしばしば、知らず知らずにやっているかもしれませんね。


蒋介石の南京政府がそのいわゆる中央軍を北上させて、華北奪還の姿勢をあらわにしてくる動きを見て、参謀本部は以下のような命令を支那駐屯軍司令官に与えます。
「現任務ノ外平津地方ノ支那軍ヲ膺懲シテ同地方主要各地ノ安定ニ任ズベシ」

当時は、公文書や命令書なども漢字とカタカナでしたね。漢文の返り点などもカタカナだった名残かも?
正式の文書に女文字(平仮名)は使わなかったのかもしれない、といま気づきました。現代女性が聞いたら、柳眉を逆立てて噛み付かれますね。下手をしたらかみ殺されるかも、クワバラクワバラ。
明治期までは、漢文で日記でもなんでも書けることが、男の教養のひとつであったということを知っておくことも、歴史をかじるにはムダではないかもしれません。そもそも教養なんて人から見たら無駄なことをいっぱい知ることなのかもしれませんから?

果てしない脱線ですが、もとにもどして、命令の主旨はなにか。
現任務とは、居留民保護と鉄道を守るという駐屯軍の本来任務。それ以外に、北平=北京・天津地区で動きを見せるシナ軍を懲らしめて、現地の安定をはかるように、というもの。
逆に言えば、本来任務地で駐屯軍としての任務を果たせ、ということ。

7月27日のこの時点では、まだ事変は始まってないので、ただ不穏な動きがあるということで、いまふうに言えば警戒レベル1になったところ? ただし、「ようちょう」というのは即座に武力行使してもよいということですから、支那駐屯軍は28日に北京周辺の中国軍を総攻撃し、30日にはもう追撃を停止します。

ところが、中国軍側がチャハル省に進出してきたために、いわばシナ駐屯軍が側方と背後に回り込まれる形になってしまった。これを、掃討するのがいわゆる「チャハル作戦」ですが、そのまえに万里の長城をこえて北上してくる中央軍を撃破しなければならない。それが参謀本部と現地軍の考えでした。一度に両面で戦うわけにはいかないですよね。
それで、8月11日から独立混成第一旅団と第五師団で長城線への攻撃を開始しました。このときから「北支事変」がはじまったのです。

長々詳しく書きましたが、要するに事変が始まったのは盧溝橋事件が起こってから、1ヶ月以上たってからで、しかもこれはまだ北支事変でした。

万里の長城の山岳地帯での激戦の後、長城線を突破して24日にチャハル省まで進出しました。

ところで、このチャハル作戦には関東軍が独断?で作戦を発起して参加してきたといいます。全面戦争になっているのなら、味方が援軍を送ってきたということになるのでしょうが、参謀本部はあくまで不拡大のいわば局地戦で考えています。

関東軍が、勝手に「関東軍チャハル派遣兵団」を編成したわけですが、なんと兵団長があの東條英機中将だったのです。
東條英機はこの年、関東軍参謀長になったばかり。しかも参謀長が直接前線で部隊の指揮をとるのも、きわめて異例のこと。
ちなみに、226事件のときは関東憲兵隊司令官だったはずですが、東京憲兵隊ではないにしても、関東軍に出されたのはなにか関連があるのか?中将に昇進してますから、ただ普通の移動だったのか・・・・・

いろいろと戦線が拡大しそうな気配に、ついに8月31日に「北支那方面軍」(司令官寺内寿一大将)が編成されます。そして、9月3日にそれまでの「北支事変」が「支那事変」に改められます。支那駐屯軍もここからは支那派遣軍になるわけです。

細かいことのようですが、この呼び方の変遷の中に陸軍中央の考えというか、そのときの認識やスタンスというものが、よく現れていると思います。
そしてこれが、そのまま日本側の事変に対する見方でもあったわけですね。

中国側から見れば、盧溝橋からずどーんとひとまとめに中日戦争なのでしょうが・・・・・・・


ところで、先の第五師団ですが、師団長があの板垣征四郎中将。
なんだか、集まるところにあつまるものだと、妙な感心?をしてしまいます。まさか、類は友を呼ぶというわけではないでしょうが。
後に板垣陸相のときの陸軍次官が東條英機だった、それを思い出したからかもしれません。調べてみたら、陸軍士官学校では板垣が一期先輩、陸軍大学では東條が一期先輩でした。みんな陸軍で青春をともにした、同窓生だったわけですか。
あ、みんなといってしまったのは、後のノモンハン事件の小松原道太郎師団長、比島の本間雅晴師団長などが、東條の陸大同期だったからでした。


ところで実は上海では、これよりさき8月9日に中国側の残虐事件が起こっています。それは第二次上海事変になるのですが、日本側では盧溝橋事件が飛び火したと捉えますが、今から見るとこれは蒋介石側の一斉蜂起だったのではないか? そんなことをふと考えてしまいます。
上海の日本租界の守備には、陸軍は一兵もいません。わずかに海軍陸戦隊がいるだけでしたが・・・・・・






posted by shuuin at 19:06| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月08日

勅令とは?


昨日は触れなかったのですが、ちょうど70年前の七夕の日に、盧溝橋事件が起こったのでした。

その日を境に、いわゆる支那事変が勃発してしまったのですが、はじめはすぐに解決すると思ったものが予想外の雲行きになったのを見てか、9月に5日間の臨時帝国議会(現在の国会にあたる)を開いて、「臨時軍事費特別会計法案」が決まっています。

議会に通常、特別、臨時の三つがあるところは、現在の国会に踏襲されていますね。この法案がつまりは軍事費、簡単に言えば帝国陸海軍が使うお金のことです。
この特別会計というのが、実はすごいことになってます。なにが特別か?

一般に国の予算というのは、単年度会計です。これは昔も今も、変わりはない。ところが、この軍事予算は戦争が始まってから終わるまでを一会計年度としていたのですね。つまり何年でも、戦争が続く限り追加追加でどこまでも・・・・・

不幸にして、支那事変からそのまま大東亜戦争に突入していますから、8年ちょっとがそのままというわけ。
最後は終戦のどさくさですから、ついに会計報告はなし?うやむやにおわります。ちなみに財源はすべて戦時公債ですから、今で言えば国債のようなもの。

ま、戦争の最中に、一つ一つ議会であれこれもんでいたらこれも困るということで、とられた処置なんでしょうが。

これでひとつ納得したことがあります。例えば、あの終戦前後にもビルマのバーモウとか、日本への亡命者が何人かいたわけですが、軍部は気前よく大金を使っていました。戦地や外地でも必要となれば、とにかく金ばなれがよかった。内地の物資の逼迫に比べてよく金があるなと、いつも不思議な気がしていたのですが?

ところで、国家総動員法や電力管理法というのは、12月からの通常議会ですから、決まったのは翌年の3月です。このときには、支那事変はすでに拡大の様相を見せ始めています。
大本営が不拡大方針を諦めたのが、3月の徐州会戦だといわれています。


ところで、法案は議会で決まるわけですが、その実際の施行にあたっては、そのつどそれぞれに細則といったようなものを決める必要がありますね。
最初にすべてをかっちりと細かく決めたら、がちがちの法律になってかえって役に立ちません。わかりやすく例えれば、道路交通法というものがあって、その範囲で警察がそのつど規則を作ったり変えたりして運用する、というのと同じですか?

で、旧憲法下ではそれは勅令でした。この勅令の意味を意外なほど誤解している日本人が多いのには、あらためて驚きます。

もしやと思い、ネットで「勅令」を検索したら絶句しました。
勅令とは、天皇の命令のこと。はてな?
ほとんどがこれ一色に見えましたから、どこかに正しい説明があるのかどうか、調べる気力をなくしました。

これこれは勅令だから、天皇が命じたのだ。あるいは、勅令をだした天皇はそれを知っていた。このての言説をよく見聞きしますが、いわゆる半可通の戯れ言か、なにか為する発言?

勅令とは、いまで言う政令、内閣令や省令の類。言ってみれば総理大臣を任命するのが天皇ですから、総理大臣に任せたという意味で首相が決めたものを勅令と呼んだわけです。

後に行われた、どこどこの工場を軍需工場に指定するとか、金属の供出など、そんな細かいことを一々天皇が指示するなんて想像するほうが変ですね。

勅令とは、帝国憲法下では国務大臣の輔弼で首相が決める命令のこと。さすがに首相単独はダメだけれど、だれか国務大臣が一緒ならばよい、ということ。

ちょっと余談になりますが、戦後米軍が日本を占領していた何年かの間、GHQの命令を迅速に施行するために、この勅令を利用していたんですね。だれが呼んだか、ポツダム勅令といったとか。








posted by shuuin at 17:49| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月07日

五ヶ年計画

昭和12年の近衛内閣の登場で、重要法案がいくつか成立します。
なかでも、国家総動員法案、電力管理法案などがよく取り上げられて、これらの法律の制定で一気に統制経済・戦時体制に突入した、というようなことが一般にいわれています。
歴史を、映画のパンフレットのあらすじのように表現すれば、結果論から言えばそうなるのかもしれませんが。

先の産業五ヶ年計画もそうですが、これは何も戦争のための準備をしたわけではなく、当時の日本の経済力・産業構造の弱点にやっと気づいた日本の政財官界が、つまりは日本のリーダーたちがだした結論だったのです。

誰でも知ってるように、現在の最先端技術や、かってのトランジスターからインターネットまでも、もともとは軍事や兵器開発から生まれましたね。
実は、これとよく似たことが、経済や産業をひっくるめた日本の国策の分野にも起こっていた。最初に国力が極端なまでに脆弱になっていることに気づいたのは、一部の軍人たちのようです。

軍人の習性に、最悪の場合を想定して作戦を練るというのがあります。
国防というのはある種の危機管理でしょうから、その意味では災害対策に似てますが、もし××が起こったらどうなるかを研究するわけです。
まえに、石原莞爾が参謀本部に入って、日本の真の姿を見て驚いた云々と書きましたが、彼はそこで日本の国力の実態を知ったわけですね。

この後に来る支那事変に際して、石原が「蹴飛ばされても、鞭で叩かれても、隠忍自重してひたすら我慢しろ」といってます。
余談ですが、よく満州事変の当事者がなにを今更戦争反対か、などと笑いますが、これは的外れな非難? 
というのは、石原莞爾はそれまでは外様?、軍中央とは無縁で外に出ていた。つまりは、出先にいれば、日本の国力は明治以来営々と伸張してると思っていたでしょう。満州事変で作戦能力を発揮したのが認められて、参謀本部に呼ばれた。そこで、諸種の統計数字を集めてみて初めて日本の国力の、真の姿を知って愕然としたわけですからね。

これは大変だということで、石原も陸軍の立場から考えて5ヵ年計画を云々してますが、この5カ年計画というのはいわば計画経済、全体主義国家の経済になりますが、この場合の手本はおもにソ連でした。
面白いですね、自由主義経済国の日本が、全体主義国家と同じ手法をとらざるを得ない。極北はあい似たり、は少し違うかな、日本は右翼国家だったわけではないですから。
当時ソ連は相次ぐ五カ年計画で国力や軍事力をつけていましたから、その効果の上がってる方法を見習った、と考えたほうが当たってるかもしれません。

国家総動員とか経済統制とかのことも、実は十年もまえから研究されていて、後に総理大臣になる小磯国昭などもてがけていたはずです。

ところで、この近衛文麿は支持政党を持っていなかったのですね。
与党第一党の党首が総理大臣になるという、いまの政界を考えるとちょっとちがう? 味方がいないから、法案がもめたときには淋しかったらしい。
当時代議士の数が一番多いのが民政党、第二党が政友会、これらはまず国家総動員法案に反対。ちなみにあの鳩山一郎も河野一郎も政友会、河野は一年生議員でした。
この法案に積極的に賛成して、政府与党的立場に立ったのがなんと社会大衆党でしたから、なんとなく驚きます。

この頃、共産党は非合法で地下にもぐっていたわけですから、社大党はいわば一番の左派? 党首安倍磯雄はあの幸徳秋水とも関係のあった人物です。
確か早大野球部のグラウンドに銅像があったはずですから、ハンカチ王子も頭を下げたかもしれない。
社会大衆党の掲げる三反主義というのは、反資本・反共・反ファシズムだったそうです。その幹事長西尾末廣が、法案成立に力を貸すのですが、浅沼稲次郎も一緒だったとか。ちなみにこの二人は、戦後日本社会党を結成しています。

ところで西尾が近衛文麿を励ます演説に、五箇条の御誓文を引用したあとに、
「もっと大胆率直に日本の進むべき道はこれであると、ヒトラーの如く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く大胆に、・・・・・」と、ハッパをかけているのにはまたまた驚きます。
議場はもちろん騒然としたようですが、スターリンとは何ごとかということで、確か懲罰になったはず。

ただ国家総動員法案は、結果的にはほぼ満場一致で成立します。

これこれの法律ができた、国家統制が始まった、これでは味も素っ気もありませんが、裏のドラマも知ってみれば興味深いものがあります。
意外にいまの政治の流れが、見えてきたりもしたりして・・・・

帝国議会も、現在の国会も、委員会と本会議のやり方などはほとんど変わってないみたいですね。
貴族院が参議院にかわっただけ?

そうそう、統制という言葉の意味も、一義的に戦時統制で考えてしまうと、だいぶ的外れの勝手読みになりそうですが?


posted by shuuin at 17:28| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月06日

原爆と長崎と

後継の防衛大臣小池百合子が、初登庁で儀杖隊の栄誉礼を受けている写真がでていた。
キューマ氏よりも、様になっているようでした。小池は国防なんて詳しいの?元アナなのにというブログに出くわしたが、総理の安全保障担当補佐官として、つとに訪米して大統領補佐官と会談もしています。
まあ、いまの政府では最適任かもしれません。

記者団の質問に対して、「ジョセフ氏は前から言っているので、目新しさはないが、日本の見解とは異なる」、と述べたといいます。
とっさに、こういうしゃきっとした物言いができることが、大臣には必要だな、そんな気がしました。
それにしても、ロバート・ジョセフ核不拡散問題特使(前国務次官)がここにきて、「原爆が終戦をもたらし、何百万人もの日本人の命を救った」と発言してたんですか。

ということは、久間発言もなにかこれに関連していた?
まえにちらっと、この発言はなにか様子見のアドバルーンかもしれない、日本人がいまどういう反応を示すのかを確かめるための、なんてバカな想像をしたものですから。

最近どうもおかしな歴史認識が、洋の東西を問わずに現出し始めてると感じていましたが、これはどうも世代の問題がからんでいる気がしてなりません。
現実を動かしたり、考えたりする政治家も学者も戦後世代ですから、まったく知らない時代の解釈を、平気で決め付けます。

多くの者が、「黒かった」といい続けると、それを引用して定説になってるといってみたり、よく検証もしないで「黒であったらしい」と認めてしまったりする。

きりがないので話題を戻します。
あの、広島、長崎への原爆投下ですが、あれには画期的な新兵器の人体や建物への『実験』の要素があったのでは、ないかと思っています。
とにかく実際に使ってみないと、新兵器の威力や効果はわからないですからね。

もうひとつ、スターリンのソ連に対する示威、つまりデモンストレーションの意図があったのでは?
これはある意味では恐ろしい疑義ですが、まったくの荒唐無稽ではない気がします。

そして、いまの長崎ですが、怒るのもいいけど地域代表に選出したのはどこの誰なのか、パフォーマンス以外に何もしないプロレスラーをおくったのも、怒ってるのは国民全体?
キー?が滑りましたが、美輪明宏さんも長崎とか?
コンサートの挨拶で、「日本の男はみっともない。どこの戦場で女をぞろぞろ連れまわす国がありますか」と、説いてまわっているとか。
これなどは、従軍慰安婦(これもマスコミ造語)を既定の事実として、説教しているわけで、冗談ではすみません。

そんなことより、対馬の無人島を韓国人に別荘地としてどんどん売り渡していることを、奨励していていいのですか?対馬の日が現実になったらどうしますか。

いま長崎が熱いので、大好きな長崎のことをつい・・・・・

それにしても、昭和戦後はまだつづいてますね。

ふと、昭和九年ごろの資料眺めてたら、八月の東京は連日30度を越す猛暑だったとか。男性に開襟シャツにノーネクタイ、女性に簡単服にノーストッキングが流行。純白の涼しげで上品なモガ、モボの写真が・・・・・さしずめクールビズの嚆矢。うーム、モテ度は昭和戦前にとてもかなわないかも。









posted by shuuin at 17:39| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月04日

キューマ危機?

マスコミのネーミングにも、時々感心するようなものが登場する。

今回のこれも、後世の政治史に名を残すかどうかはわからない?
「しょうがない」大臣といっても、普通名詞みたいにたくさんの該当者がいらっしゃるでしょうしね。

「しかし、バとマは通音だし、うまいこという」と感心したら、JFK のキューバ危機を知らない世代には、ただの駄洒落以下だよ、といわれてしまった。
「JFKはいま、JKFだよ」と阪神ファンから横槍が入った。意味違うんだけど?
かくして現代はいよいよ、混迷の度合いを深めていきます。

たまたま、読んでいたものの中に、「統制派、皇道派というのは報道陣が勝手につけた呼び名です。当人たちは、まったくそんなこと、思ってもいなかった」という証言がありました。
相沢事件から226事件の前後で、昭和史を語る上の歴史用語として定着してる言葉が、当時のマスコミ、多分新聞記者の作り出したものだとするとちょっと驚きます。いや、案外そんな例はたくさんあるのかもしれません。

この元防衛大臣はもともと重量不足で、就任挨拶からひどく違和感を覚えた人物でしたから、今更驚きません。
ただ、歴史をまったく知らない、半可通の発言にちょっと腹がたちます。

昭和20年の、ヤルタ会談からポツダム会談にいたるあたりのことを、少しでも知っていれば、こんな浅薄な講演ができるはずがない。

人道的見地から、原水爆の使用そのものを問うのはこの際別にしますが・・・・・

ソ連を対日参戦させようと、懸命に誘いかけたのはそもそもアメリカだったはず。
ヤルタ会談に集まった三巨頭、これも今考えるとずいぶん思い上がったものに思えますが、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三人が集まったのは、大戦後の獲物の分捕り合戦?といえば言葉が過ぎますが、実体はまさにそれ。
このときの秘密協定で、千島樺太を餌にソ連参戦を頼んだのがルーズベルト米大統領です。これが確か20年2月。

その年の7月17日から8月2日にかけて、ポツダムで米英ソの三巨頭が再び会談します。ベルリン郊外のポツダムでということは、すでにドイツが降伏していたからで、日本ではこの会談で決まったポツダム宣言=日本の無条件降伏だったことから、対日戦終結のための会談と捉えますが、比重の大半はドイツ、ポーランドの戦後処理の問題にあったといわれます。

ところで、ヤルタからポツダムの間に、ルーズベルト大統領が亡くなって、米大統領は副大統領のトルーマンが昇格します。トルーマンは初めての、対外会議でかなりの緊張をしていたといいます。英首相チャーチルが頼りだったようです。そして、この会談では一人スターリンが上機嫌で主役だったといわれます。
ドイツ、ポーランドに対する賠償や領土欲の強さに、チャーチルが警戒感を深めてスターリンを牽制したのもこのときです。
そのチャーチルも、英国選挙で保守党が破れたため、会談の途中で労働党の新首相アトリーと交代しています。

こんなドラマがあったことなど、無論日本側はまさに「神ならぬ身の知る由もなし」でした。

ところでアメリカ側はルーズベルトが、米軍の人的損害をこれ以上増やさないために、戦後鹵獲するはずの領土を割いても、ソ連の対日参戦を希求したのでした。
ところが、たしかトルーマンがポツダムにむかう船上でか、着いてからかに、かねて開発中の新型爆弾=原爆の完成が知らされます。
つまりその時点で急に、わざわざソ連に頼まなくても、日本に勝てることがはっきりしたのでしたが・・・・・・・・

スターリンはなんとなくそれを悟って、あるいは情報網もあったかもしれませんが、分け前にありつけなくなってはまずいと、あわてて参戦して日本がポツダム宣言受諾した後で、樺太はじめ北方領土の島々に攻め込んだわけです。


米軍は、ソ連占領から日本を守るために、やむを得ず原爆を落としたわけでは、決してない。それだけは、はっきりしています。
ただ、結果論として、占領軍が米軍であったことで、ともかくいまの日本が残ったとはいえるでしょう。


日本人はお人よしですから、たとえば京都や奈良の古都は、空襲されないだろうなどと当時思っていました。原爆の標的にされてた都市がどこであったかを知ったら、今でもびっくりするはずです。標的候補はいくつもあったのですから。

たしか、長崎なども上空の雲のかげんで選ばれてしまった、不幸な都市だったわけですよね。あの日、長崎はこよなく晴れた青空だった・・・・・
いろいろな意味で、原爆はわれわれ日本人全員の、頭の上に投下されたともいえるかもしれません。


ところで、ポツダムに集まった首脳たちはだれも、天皇の戦争責任などは口にしなかったそうです。
天皇の戦争責任を言ったのは、連合国では中国の蒋介石だけだったのです。







posted by shuuin at 19:02| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月02日

歴史の因縁

日本の周りの全方位で、日々さまざまなことが起こり続けています。その多くが、好むと好まざるとにかかわらず日本にからんでくるのですから、現代世界の中で一国が生存してゆくことは、大変なことだなとつくづく思います。

かねてから、いろいろな意味で日本の戦後は終わっていないというのが持論でしたが、この頃とみにその感を深くします。

いわゆる特亜とかいわれる地域がらみのことは、すべてがそうだといっても過言ではないでしょう。
他方では、いまわれわれが頼らざるを得ないアメリカが、発信してくる下院議決とか、南京事件映画のようなものまであります。
硫黄島の読み方まで、日本が歴史を書き換えたとFOXニュースが報じたとか、ばかばかしいニュースばかりがはしります。

日本の周りで、勝手に日本の歴史を、書き換えている気さえするほどです。


こんなときだからこそ、より一層、日本人が日本の昭和史をしっかりと細部まで知っておくことが、大切なのではないかなどと思います。


ところで、昭和11年の226事件で岡田啓介内閣が倒れた後を、広田弘毅、林銑十郎を挟んで、昭和12年6月4日には近衛文麿内閣が誕生します。

この近衛内閣の誕生は、国民の熱狂的な歓迎を受けるわけですけれど、その人気のほどは小泉純一郎など足元にもおよばいほどだったといったら、わかりやすいでしょうね。
47歳の青年宰相は、実は前年に岡田内閣の後継として組閣の大命が降下したのを辞退しています。それだけに待望久しい、公爵宰相というわけでした。
ちなみに、この内閣の外相には元首相広田弘毅が就きます。

この近衛内閣の時に、支那事変(日華事変)が起きるのです。
現在では、まとめて日中戦争と大雑把な?表現になっていますが、当時は軍部もふくめて、事件、事変、戦争というものの概念がわかれていますから、シナ事変と歴史上の呼び方をしておきます。
一例を挙げますと、戦時予算などの法令を事変にも適用するか否かが、国会で議論されたりしますが、これなども事変と戦争が別のものと認識されていた証拠になりそうです。

承久の乱、壬申の乱、正中の変、本能寺の変のように、変と乱とを使い分ける、日本人の微妙な感覚というのと似ていますか。

ところで、近衛内閣は6月15日の閣議で「産業五ヶ年計画」を決定するわけですけれど、これは簡単に言えば日本の経済力の根本的な弱さを実感して、何とか早期に国力をつけようという主旨だったのです。

「持てるもの」と「持たざるもの」の対立をなくすこと、それが近衛の世界観、社会観の根本にあった理想のようですが、この考え方はいまの國際格差、社会格差の論にあまりに似通っているので驚きます。ちなみに日本は、資源を輸入しないと生きてゆけないから、いうまでもなく「持たざる国」です。
時代は変わっても、人間社会の対立相克は同じなのかもしれません。

で、ここで興味深いのは、わずか4日後の「ニューヨーク・タイムズ」が、早速牽制記事をだしていること。
「すべての産業を準戦時状態の基礎の上に置き、これによって国防を充実しようとするのは、支那に対する弾圧政策を結果するであろう」

ほかのところでも、朝日新聞、同盟通信、NYタイムズという流れを目にしましたが、これってなにか昔もいまも変わってない?


ところで、ちょっと飛びますが近衛首相の後が平沼騏一郎ですけれど、この人の養子があの平沼赳夫議員。
近衛内閣の議会には、河野洋平の父親や、鳩山由紀夫の祖父などもでてきて、政府を攻撃するわけですから因縁しらがみは連綿とつながっている?
二人の父親の名前が、ともに一郎なのはまったくの偶然で、これは因縁ではないでしょう。冗談はともかく、ずっと昔のことと思っている戦前戦中が、知らないでいることが恥ずかしいほど、すぐそこの出来事だったということにあらためて気づかされます。











posted by shuuin at 18:56| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月21日

歩兵の戦法

陸軍の歩兵の戦法が、どんなものであったかなどと、どうでもいいことなのかもしれません。けれど、新戦法に変わった、だけではなんかぴんときまから、少し細かいところまで・・・・

ところで、近代戦になっても、最後には歩兵が出てゆかないと決着はつかない、といわれます。
IT使用の機械の戦闘?になっても、やはりそうなのかもしれません。

で、前線に歩兵が到着して、まず散開をします。
映画などでもよく見かける、あたりにさっと広がる、あれですね。

従来は横一列散開で、横一文字に広がってそれぞれが何かの影に隠れて射撃姿勢に入る。さもなければ、その場にがばっと身を伏せて、射撃の構えに入る。

これは第一次大戦のドイツの戦法に、範をとっていました。つまり明治以来、ずっと続いてきたわけです。

その戦法が、このときに傘型散開というのに変わったのです。
敵に向かって傘を拡げかけたような形で、散開する。その傘の先端に、軽機関銃が進出するという陣形。
それと、新戦法では散開するとまず、自分のもぐる壕を掘る。

この辺からも、対ソ戦法だということがはっきりしてきます。
なぜなら、まさに当時のソ連歩兵の火力の中心は、重機関銃だったからです。それに対応するための戦法でした。

重機というのは曰く、「連続的にタマを撃ち込む機械」、だそうです。
つまり、パンパン、バリバリではなく、ドッド、ドッド、だと。
で、歩兵が横一線に散開したら、一薙ぎで全滅してしまいます。

それではどうするか?縦に散開して、身を避ける穴を掘って、重機の掃射をかわす。分隊の先頭に、軽機を置いて敵の火力に対抗する。それがつまり、対ソ戦法の傘型散開だったわけです。
従来は歩兵の間隔は4歩だったのが、6歩になつた、と。

ばらばらっと散ってるようでも、なんと歩数まで決まっていた。一度の被害を少しでも減らすために、より広く開くとか・・・・・

ところで従来の歩兵操典の、小隊の編成は6個分隊で、第1から第4までが小銃分隊で、第5,6が軽機関銃分隊。
小銃分隊は分隊長以下12人、軽機隊は分隊長と射手、小銃持つものが6人の8人編成。
つまりは、一小隊に軽機関銃は2丁だけ。中隊全体でたった6丁。あとは三八式歩兵銃だけでは、とても近代戦どころではない?

新操典では、小銃隊と軽機隊の区別をなくして、第1、2,3分隊が軽機と小銃、第4が擲弾筒分隊に変更された。
一分隊の兵員数は16人になった。
試しに、算数的計算をしてみたら、小隊の人数は64名で増減はありません。
軽機関銃が1つ増えて、あと擲弾筒という火力がふえました。
日本陸軍には、まだ迫撃砲は採用されてなかった?

歩兵の装備という点でも、早くから懸念されてたように、かなり遅れていたかもしれない気がします。
三八式歩兵銃というのも、とうとう昭和20年の終戦まで使われましたが、自動小銃をつくる技術がなかったわけじゃない。ただ、昔に大量にその銃の弾を作ってしまって、いわゆる弾のストックがたくさんあったから、とどこかで読んだ記憶があります。
弾にあわせて、銃を造っていたのかと、呆れたことが・・・・

それはともかく、昭和12年5月の時点、つまり盧溝橋事件の2ヶ月前の時点に、陸軍の歩兵操典が変わりました。
現場にしてみれば、下士官も兵たちも、いや上官にとっても、まさに革命的な変更になりますね。

サッカーやバスケットボールの、フォーメーションが変わったどころの騒ぎじゃない?当然、目の色変えて訓練をはじめます。

しかも、夜戦訓練で、歩兵の戦法は最後は白兵戦を想定してますから、激しさはいよいよ増します。
おまけに、都会っ子の新兵の体力増強が加わって、途中でしくじったら、また一からやり直しとか。


これを、河原の上から眺める中国軍としたら、この変化を日本軍がなにかたくらんでると、考えたとしても無理ないでしょうね。

相手の目に、どう映ってるかを考えていなかった?現地や内地の上官たちに、問題があったといえるかも。
こちらは、まったくこちらだけの思惑、事情で動いていたわけですけど。

戦法や操典の改訂をしていた、陸軍歩兵学校教官の千田大佐が、関東軍はじめ各地をまわって、対ソ戦法の説明や実地訓練をしたわけですが、シナ駐屯軍のところに来たのも、その一環。
同じ時期に、陸軍じゅうが新しい戦法に早く慣熟しようと、やっきになりはじめていたのですけどね。
傍目にどう映るかなどは、考える由もなかった?


ラベル:戦法 射撃 想定
posted by shuuin at 18:52| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月19日

誤解されても?

昭和12年3月1日に、新兵が到着して、同じ日に三年兵が帰国する。
あの秋田から来た二年兵は、交代がくるまで残ったから三年兵・・・

ところで普通、徴兵検査を受けるときは、本籍地にもどって入営するのが決まりでした。仲間意識とか郷土愛とか、いろいろあるでしょうが、それが日本陸軍の伝統的編成方法。
県民も郷土部隊を誇りにするところは、さしずめプロ野球やサッカーの本拠地球団に対するのと似ている?

ところが、ここにやってきた初年兵は、関東出身の者たちでした。
こういう編成配置は、軍中央で黙って決めますから理由などわかりませんが、どう考えても、前年の「二二六事件」がからんでいるようです。

東京近県の出身者は、本来東京に集められて第一師団入営がきまり。
ところが、麻布三連隊など叛乱軍の主流とされた第一師団は、すでに遠く満蒙の地に出されています。
ちなみに第一師団といえば、本来は首都東京防衛の部隊ですが、これ以後二度と帝都東京にもどることはありませんでした。
そして、最初で最後の戦闘があのレイテ島での戦いでした。
最強とうたわれた第一師団でしたが、実戦はこのレイテが初めてだったのです。考えてみると、8年にわたる寒冷地での猛訓練だったわけですが、熱帯に送られて全滅に近い激戦を強いられました。

余談になりましたが、二二六事件の影響はこの頃の陸軍では、想像する以上のものがあったようです。青森の連隊でも、福岡の連隊でも、若手将校の中にシンパはいたようですし・・・・
「一緒に呼応しようとしたが、あまりに遠くて、どうしょうもなかった」
そんな声もありました。軍中央でも秘かに要注意人物とか、マークしたりして、粛軍のなかみはそれなりに大変だったようです。
そうそう、前に触れた海軍の松田千秋少将も、二二六事件シンパの一人で、要注意人物にリストアップされてたとか・・・・・


で、シナにやってきた初年兵ですが、
「かなり気合は入っていたが、東北の人間と比べて、いかんせん身体が弱かった」
前年に、十九歳の志願兵できて、すでに上等兵に昇進した同年代の若者の証言です。
やはり都会っ子は、弱かった?それではということで、訓練はよりいっそう激しくなります。猛特訓で体力をつけさせようとするわけですから。

この日本軍の訓練振りを望見した中国兵は、どう思ったのか?
あらぬ想像をたくましくしだろうことは、間違いないでしょう。


陸軍の仮想敵はソ連なのですから、シナ駐屯軍の増派はある意味では関東軍を対ソ戦に専念させるためのものともいえます。
関東軍が対ソ戦の訓練をするのは当然ですが、実はシナ駐屯軍も対ソ戦訓練をしていたのです。
そのときの下士官や兵たちが、口をそろえていう事があります。
「お前たちがやっているのは、対ソ戦闘だぞ」
「われわれの仮想敵はシナではなく、あくまでソ連である。そのことを忘れるな」
上官たちから、口をすっぱくして言われた、と。
そのために、かれらは多少の侮りや嫌がらせを受けても、がまんしてたのかもしれません。どうも、目の前のシナ軍を友軍、味方と思っていた節すらあります。

ところで対ソ戦といっても、古くからの歩兵操典の戦法では通用しないことがわかってきます。そのことから、歩兵の教科書である操典が改正されます。はっきり対ソ戦戦法にかえられます。

で、明治以来の歩兵操典が変わるのですから、まさにこのタイミングで、歩兵の訓練が文字通り様相が一変して激化します。
新戦法の猛特訓、しかも夜戦が主になるため激しい夜間訓練として開始されます。

様子をうかがう中国軍にしてみれば、誤解するなというほうが無理?
それこそ、思いっきりに大誤解でも六階でもしちゃうでしょうね。






posted by shuuin at 16:46| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月18日

不気味な嫌がらせ

北シ処理のことはシナ駐屯軍司令官のみに任せることを、くどいくらいに関東軍に釘をさして、そのために駐屯軍の人数を増やしました。

その結果として、生まれた第八中隊ですが、ふつう三個小隊で一個中隊が構成されます。ちなみに中隊長は大尉クラス。
小隊はさらに4分隊にわかれます。ですから、ひとつの中隊には12の分隊がある。分隊というのが最小戦闘単位になるわけ。
この、大隊→中隊→小隊→分隊という構成は、どこの国の軍隊も同じようですし、現在でもかわってない?
違うとすれば、人数とか隊数ですか。

日本陸軍では戦闘時の一個分隊は定員16人でしたが、この当時、駐屯軍は12人編成だったそうです。つまり、戦時編成ではなかった?
ですから第八中隊の人数は、将校を入れて約150人になりますか。

海軍でもそうですが、平時の兵隊の仕事はただひたすら訓練ですから、大変ですね。宿営地のほかに演習場が必要になる。
受け入れにどうぞといっていた、シナ側の動きが裏で変わってきていたのですが、その変化の真相は日本側にはずっと後になるまでわかりませんでした。
ソ連共産党やコミンテルンの力が、深く浸透し始めていたことに・・・・


ともかく兵士たちは、内地でやるのとまったく同じ訓練を、離れた広い河原のジャリ場にかよって行いました。
途中で中国軍兵舎の前を通るときなどに、さまざまな嫌がらせをされたらしい。
唾を吐く、大声を出す、聞こえよがしになにか言う、急に歌いだす。
悪態をつかれて、意味はわからないけど憎々しさはつたわる。
銃を向けて射つまねをする。銃をガチャガチャ言わせて威嚇する、等々。
最近の反日デモや、いろいろなニュースを見てもおよそ想像はつきますが・・・・・・・
手をださなかったのは、日本軍の威光?をおそれたからだったのか?

一人で街に出て、殴られて血まみれになった衛生兵などはいましたが。
北京や天津では、外出禁止なども下令されてたとか。

初年兵が歩哨のときに、中国兵が入れ替わり立ち代り、はしごで日本軍の宿舎を覗き込む、と。
なんか気味が悪いな、と思ったと述べてますが、注意することもできなかったようです。

先の、数々の嫌がらせにしても、兵隊同士仲間内では「なんだか変だなあ」「なにが起こっているんだろ」、と噂しながらも、それが中隊長や上のほうまで伝わるわけでもない。
ちょうど、子供が嫌がらせやいじめにあっても、親はまったく知らないという状況に似てませんか?
悪口言われました、ツバはかれましたと、一々報告できませんしね。
「なんていわれたんだ」「よくわかりません」では、逆に叱り飛ばされそうです。

いじめに似てるといったのは、北京にいる上層部に、まさにこの時期の空気を、「二十九軍(中国軍)とは、うまくいってた。むしろ好感を持っていた」などと証言した参謀長がいましたから、かなりのずれがありますね。

現地の様子を聞かれるのも、中央に報告するのも、兵隊ではなく彼ら佐官クラス以上ですから。

現代社会にも、学校や会社にもよくあることのような・・・・・・
いや、政治の世界にこそあてはまる?

ところで、年が改まると昭和12年。
あの二年兵が満期除隊で内地に、代わりに内地から初年兵がやってくることになります。

なんだか、二年制の学校の運動部みたいだと気づきました。
兵隊は軍隊そのものが兵隊学校?
内務班というのは、毎年新人教育するための学校だったわけですか!

ところで分隊というのは、戦闘時の分け方でした。陸軍での軍隊生活は、内務班単位で行われたそうです。いざというときには、内務班長が分隊長になる仕掛だとか。

で、新しい初年兵の訓練が、ある二つの事情で激しいものになるのですが、これはあくまで「こちらの事情」。シナとはまったく無関係だったのです。








posted by shuuin at 18:27| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月17日

初年兵と二年兵

つい忘れてしまいがちですが、われわれは徴兵制度のない、幸せな国民です。考えてみれば、現在80歳以下の日本人は、軍隊経験はないことになります。
したがって、軍隊のことなど、なにがどうなのか漠然としかわからない。

で、たとえば盧溝橋事件を読んでいると、「シナ駐屯軍第一聯隊第三大隊第八中隊」がでて来ます。この部隊が事件に遭遇するわけです。まとめて日本軍でもいいけれど、歴史好きは歴史探偵?の楽しみがあるから、もっと細部も知りたくなります。

そもそも第三大隊が編成されたのは、実際には通州についてからだそうで、秋田聯隊第二中隊が第八中隊になります。
ほかに第七(青森)、第九(山形)があって、この歩兵3中隊で第三大隊が作られます。東北の3県から抽出して編成したわけですね。
ほかに機関銃中隊と、歩兵砲中隊がこれは混成でつくられて、5中隊で一個大隊が構成されるわけですね。

秋田聯隊の中で、シナ駐屯軍にと選抜されたのが、この中隊だったわけですが、その兵隊たちは初年兵と二年兵でした。

一般に初年兵は徴兵検査をとおって、正月に入営して新兵教育を受けるそうです。四月に検閲を受ける頃には、小銃射撃ができるようになって一人前。翌年、二年兵になって、二年間の勤務が済むと満期除隊。
つまり、日本の徴兵制による兵役期間は二年だったわけですね。

派遣されたのが、昭和11年5月ですから、初年兵も一応一人前になったばかり?
旧軍のこのシステムが、あとで翌年の盧溝橋事件に微妙にかかわってきますが・・・・・・

外地勤務になると、歩兵銃も新品になり、兵装も「一装」になるそうです。昭和の時代、子供でも「よそゆき」といって、外出着に着替える習慣がありましたが、兵隊さんもやはりお洒落?をした。
余談になりますが、北京には各国の外交官などもいるから、そんなところに馬匹はおけないと、軍馬は市内に置かなかったそうです。
ごく当たり前にしたのでしょうが、規律や礼儀、国の体面を大切にする日本人の心意気を感じてしまうのは、私だけですかね?

兵たちはみんな二十歳か二十一、なかには十九歳の志願兵も混じりますが、初めての外地勤務。それぞれに、わくわくするような気分であったようです。

新潟から船に乗って(当時、東北方面からシナに行くのは新潟港)、玄界灘にもまれて塘沽についた。
そこに出迎えた在留邦人の婦人会の歓迎ぶりに、いいところに来たなと感じたり、身の引き締まる思いで責任を感じた、とか。
若者らしい感性が読み取れますが、一方で在留邦人にしてみれば、もっと切実な思いがこめられていたでしょうね。


普通、初年兵教育は内地で行われるものだそうですが、今回は外地で。
でも、訓練は内地と同じように行われました。

                     (続く)





ラベル:徴兵 中隊 新兵
posted by shuuin at 15:16| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月16日

こちらの事情、あちらの見方


いわゆるシナ事変のはじまる前の、現地の状況などをみていると、現在伝えられる中国の姿に、あまりに似通っていて驚きます。

ところで昭和11年5月に、シナ駐屯軍が2倍に増強されました。
このことも今では、急に倍増して陸軍が戦争の準備をしたのだ、というような見方で片付けられています。

でもこれは、実は北支(今の中国東北部)に、関東軍に口出しさせないための処置だったのですね。

だいたい駐屯軍ですから、これは居留民の保護が目的。
シナに駐屯軍を置いていたのは、これは北清事変以来の取り決めで、各国ともに置いていました。
北清事変は、いまは義和団事件と呼ぶんですか。かって、「北京の55日」という映画になりましたね。

で、昭和11年5月の時点でも、日本以外に、英、米、仏、伊が駐屯しています。
居留民の数は国によって違います。英国、米国はそれぞれ千人ですが、駐屯兵は英千人、米千三百人。仏、伊に至っては居留民の2倍半の兵力です。
これはなにを物語るんでしょう?
つまり各国とも、居留民一人当たり一人以上の警備をつけないと、安心できなかった・・・・・・

ところで、日本人居留民は13800人。
日本人が多いのは、過去の交流と、なによりもその地政学的な宿命ですか。
これに対して、シナ駐屯軍は1874人。

この当時、各地で日本人が殺される事件が、それこそ頻発していました。よくこれだけ、日本人が殺されてと、不思議に思うほどで多発しています。
勝手に想像すると、これがアメリカやイギリスなら、すぐに全員を本国に引き上げさせたのではないか?


関東軍にしてみれば、そんな駐屯軍の応援のつもりか、事あるごとに北シナに容喙する。
ところで、このとき参謀本部と陸軍省は、シナとは事を構えないようにと方針を決めていたのですから、とにかく関東軍をおさえる必要があります。
その結果としての、シナ駐屯軍の増派だったのです。
これで、旅団規模になったわけですから、北支のことは駐屯軍に任せて、関東軍は満蒙の本来任務に専念しろ、というわけです。

これはまったく、こちらの事情ですが、それが向こうにどう見えたかということまでは、あまり考えてなかったようですね。














ラベル:関東軍 事情 宿命
posted by shuuin at 18:50| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月11日

五十六と千秋

戦艦「大和」の完成は、昭和16年12月16日。

そうです、真珠湾攻撃の8日後です。

間に合わなかった?
と思う人もいるようですが、もともと「大和」の速力では、空母と一緒は無理なので、最初から想定外。
機動部隊の援護は、高速戦艦「金剛」・「扶桑」らが務めました。

で、「武蔵」の完成は翌17年8月5日。
ミッドウエイ海戦は6月すでに終わっていました。

ところで、あれだけの巨大戦艦ですから、建艦には工期がかかります。まずその計画がたてられたのが、満州事変のあとで、しかも陸軍も参謀本部もまったく知らされてなかった。

総力戦といいながらこの始末、とは参謀本部のだれやらのぼやきにありました。

たしか昭和11年には、海軍軍縮条約の有効期限がきれるため、各国が建艦競争に入ると、予測されていましたね。
海軍は、それに乗り遅れまいとしたのでしょうね。

それにしても、軍事予算の組み方とか、それぞれの機密保持とか、いろいろ興味はつきませんが。現在だったら、あっという間にバレバレでしょうね。


ところで海軍内でも、意見はわかれて、山本五十六大将などは反対だったといいます。
それでも、「大和」級は生まれたのですから、かなりの力がはたらいた?

いつかどこかの座談会での、松田千秋少将の発言。
「『大和』はおれが造らせたんだ。だから、最後を看取ったんだ」
と、いうようなことを読んだことがありました。
オレがつくらせた、というのがすごく印象に残っていました。

松田少将は、捷一号作戦のとき、小澤機動部隊の第四航空戦隊司令長官。旗艦「日向」に乗って、「伊勢」「大淀」「多摩」を率いて、ハルゼー釣り上げに成功している。
栗田健男の反転を怒っている一人でもあります。

最後を看取ったというのは、あの昭和20年の「北号作戦」で、奇跡に近い内地回送任務を完遂して持ち帰った油のこと。

沖縄に出撃する「大和」の、伊藤聖一長官に頼まれて燃料を回したことをさしています。

その松田千秋は艦長としても、戦術家としてもかなりの海軍軍人のようですが、大艦巨砲主義者だった?
一時、軍令部にいたことがあるから、そのときにでも、「大和」をつくらせた?
しらべたら専門はやはり砲術でした。

若い人から、「彼は山本五十六を批判してますよ」といわれたことがあります。なにをどういっているのか、聞かなかったのですが・・・・

山本五十六は親米派、松田千秋は駐米武官経験者には珍しい反米派だったとか。

二人の考えは、事毎に反対だったかも。
例の南進論とやらも、山本反対、松田賛成だったかも知れませんね。

海兵32期と44期、だいぶ離れた二人ですが、開戦後山本長官の聯合艦隊司令部にいた黒島亀人は44期。
まったくかけ離れてるわけでもないですね。

だいぶ後になって、松田が山本を批判しても、死者は反論もできません。毀誉褒貶も時の運?

人の好悪って、ずっと尾を引くこともあるようですしね。

それにしても、その「大和」に座乗し、遺骨になって「武蔵」で還った山本長官の運命も、ちょっと不思議な気もします。


















posted by shuuin at 19:03| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月08日

仮想敵国

なんとなく海軍のほうが好き、という人も少なくないようです。

戦艦大和とかの、軍艦好き?もふくめて、WEBサイトでも海軍にまつわるものの方が、多いような気がします。

で、真珠湾攻撃で始まる大東亜戦争(戦後の呼称は太平洋戦争)が始まったのが、昭和16年12月8日。
むかし、「行くよ一発真珠湾」と年号覚えた1941年、今の子供はなんて覚えるのかな?

その開戦前夜はどうだったのか、と遡ってゆくと「いくさ難儀な日華の変」で1937年(昭和12年)の支那事変(戦後は日華事変、さらに日中戦争と)にぶつかる。

私見ですが、この歴史上の呼称をさかのぼって変更するというのは、対中国の場合がきわだつのですが、これは何かの特別な事由があるのか、いつも不思議でした。というのは、一次資料とか根本資料なども改変して記述するものさえあるようですから。
時代劇の登場人物が、現代語で喋ったら感じる違和感、に近いですか。

話を戻しますが、この事変が有名な盧溝橋事件で始まりますが、さらにその前夜は?
前年(1936)に、二二六事件が起こっています。

この二二六事件を契機にして、軍部が前面に出てきて一気にあの時代の日本を壟断し始めた。というのが、戦後になって戦前を総括した史家の定説になってます。
事件を起こしたのは、陸軍の青年将校たちですし、参謀本部は陸軍ですから、その後のすべては陸軍主導の戦争だった。海軍はやむを得ずそれに協力したに過ぎない、と。

あらすじでいえば、そうなのかもしれませんが、ことはそれほど単純ではないから、歴史は奥が深いし面白いですね。

ところで、陸軍の仮想敵国はずっとソ連でした。
これは、ソ連に攻め込むということではなく、ソ連の南下政策を警戒してのことですが。

満州事変、満州建国なども対ソ戦の基地の要素が大きかった。

で、二二六事件前後の日本の国力では、万一の場合にソ連と戦うことはできないことを、実は参謀本部が気がついていました。

簡単にいってしまえば、陸軍はこの時点でまったく自から戦争をすることなど考えていなかったんですね。
支那との戦争などまったく、想定していない。
まして、米英を敵などとは夢にも考えていなかった・・・・・

南太平洋に進出して、石油資源を欲したのは、実は艦隊を持っている海軍でした。海軍の南進論というのは知ってましたが、この海軍の強い意向で、広田弘毅内閣の国策まで一変せざるをえなかったとは知りませんでした。
つまり、海軍が仮想敵国に米・英両国を加えてきたわけですから、外交方針から根本的に転換しなければならないことになります。

その時、参謀本部の組織改変をやったのが、石原莞爾大佐です。
第二課(戦争指導と情勢判断を主務)を新設して課長になります。
これが通称で「戦争指導課」とよばれましたが、実はこれ、海軍の南進論の歯止めでもあったのですね。
石原はあくまで、産業の拡充計画を推進するための課。戦争をせざる参謀本部、筋の通った国防国家をつくるための参謀本部を考えていた、と。まったく、ソ連に対抗できない戦力国力を知っていたからでしょうね。
で、この戦争指導課という言葉は、結構誤解をされています。

それと、広田内閣のときの「軍部大臣現役制」。
この言葉も、軍部が政権に強い影響力をもつ意図で、復活させたというのが、常識になってますね。
ただ、これも最初の目的は全然別のところにありました。

あの、二二六事件の責任をとるかたちで、ほとんどの大将・中将が予備役に編入されました。
もしも、それらの将軍たちが政党などにかつがれて、大臣になったりしたら困る。それを防ぐ意味の現役制だったのですが・・・

歴史も多分に、結果論で語られることがありますし、その人(国)の史観やスタンスによっても、大きく見方が変わります。


現代史などでは、後からメディアがつけた呼び名が、「いわゆる×××」などと定着して、しかも現今ではそれがグローバルに駆け巡ることすら少なくありません。言葉による誤解などが増幅されるわけですか・・・・・・


ところで、あの戦艦『武蔵』『大和』が、陸軍にはまったく内緒で作られていたとは、知りませんでした。
満州事変を口実に予算を取って、造ってしまったとか。
造艦計画は、陸軍にはまったく知らされなかったそうです。
極秘の壁は、想像以上に厚かったのですかね。


















posted by shuuin at 18:27| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月06日

歴史を読む


歴史が好きだ、という人はたくさんいます。

それは言いかえれば、歴史に関する書物を読むことが好き、ということになりますかね。
歴史小説、時代小説から、ノンフィクションや史資料、専門書まで幅を広げれば、それこそ際限もないくらい多様な世界です。

世界各国史はおいといて、日本史(戦前は国史といいましたか)だけでも、政治経済だけでなくて文化史もとなると、われわれが触れることのできるのは、ほんのさわりに過ぎないなと悄然としてしまいます。

「どの時代に惚れ込むかで、だいたいその人間がわかる」
と言ったのは、『室町記』を書いた山崎正和でしたか?
わたしの場合は、近世のあとから中世の室町でした。

江戸といっても、寛政から天保ぐらいの限られた時代に深く入ってしまっていました。

いつか若い人に、「近世ですか、じゃ明治にお詳しいですね」といわれて、返事に困ったのを思い出します。きっと、近代とかん違いしたのでしょうね。
近現代史は、なぜか少し敬遠していました。

今、昭和史を振り返り始めて、これまで断片的に理解していたことが、次々に脈絡を持ってつながりだすと、ふとした興奮を覚えたりします。
歴史を読む醍醐味はこれかと、ひとりうなずいたりしてます。

たしかSF作家の光瀬龍さんの言葉に、「晩年は日本の歴史を趣味に生きる」、と。妙に心に残ってますが、歴史好きは一生歴史好きで終わるはずです。

たまたまいま、昭和前期史を読むのに、時間を遡行してゆく方法をとっていますが、これには別の喜びがあります。
まるで自分が、歴史探偵にでもなったような、推理して謎を解いているような・・・・・


学校で歴史を学ぶときは、だいたい時系列にそってというのが、普通でしようか。
でも、自分で歴史を調べるのは自由です。時には因果関係を逆にたどると、謎解きの面白さがあって、思わぬ整合性を見つけたりして、楽しくなります。

歴史にも「歴史の機微」があるような気がしたり・・・・・
ま、歴史を生み続けているのが、人間ですから当然と言えば当然。


ところで、あの昭和の戦争は、軍部それも陸軍が主導で引き起こしたというのが、定説だったはずですが?











posted by shuuin at 18:31| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月05日

北の国から

先月だったか、サハリンから帰国した日本女性が、テレビに映ってるのを偶然に目にした。

サハリンという名は、例のサハリン2の問題で、ついこの間もニュースになっていたから、知ってる人もいるかもしれない。
この半島は、日本名は樺太といって、昭和20年までは南半分は日本領でした。ですから、当然住んでいるのは日本人、行政もインフラもすべて日本ですね。

昭和の戦争で、日本がポツダム宣言を受諾した日に、すべてが終わった。普通はそうなるはずですね。
樺太にいた日本軍は、もともと米軍が北から攻めてきたときの備えでしたから、すでに武装解除をしていました。

テレビの中で女性が、「あの樺太で戦争があったんですよ。そのことを知って下さい」と、笑顔で静かに訴えていました。
そこで起こった出来事を、歴史を日本の人に覚えていて欲しい、そういう切ない願いがこめられているようで、胸を衝かれました。

あのときのことを知る人は、今の日本人に何人いるでしょう?

サハリンに残された日本人が、はじめて一時帰国を果たしたのが、平成二年だったと聞いて、驚きました。
日本人であることを隠して、朝鮮語や中国語で暮らしていたと聞けば、苦労のほども偲ばれます。

その女性は、北海道の親戚に会うための、何度目かの帰国のようでしたが、日本に時々帰れるだけでも幸せという風情でした。
一緒に娘さんが同行してましたが、朝鮮語しか話せないとか・・・・

北の海で、日本の漁船が拿捕された。サハリン当局に連れて行かれたと、ニュースがながれた。

ロシアの外相が、初めて北方四島を視察したという。


テレビでは、食べ物の旅番組とかで、「日本の最北端の島、礼文島」などと、女子アナが何度も強調していました。最北端?・・・・・・

21世紀になっても、戦後はまだ終わっていないのではないのかな?


樺太の戦争を、エピソードまでふくめて、つぶさに知りたいと思った人は、『昭和史の天皇』第四巻を読んでごらんになると良いです。
この本は、多分たいていの図書館にはあると思いますけれども。


*ウイキペディアは、終戦直前のソ連軍の侵攻で・・・でしたが、終戦 後なんですがね。









posted by shuuin at 18:55| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月04日

敷島のやまとの国の山桜

一昨日、ちょっと触れた、某大学教授のサイトで面白い解説?がありました。面白いというより、気になる記事。

例の海軍の最初の特攻隊の、部隊名のことなのです。
敷島、大和、朝日、・・・これを聞いただけで、往時の日本人にはすぐにピンと来ます。本居宣長の歌にちなんでいることは、誰でもわかったはずです。あらためて、本歌を示すほどもないほど、人口に膾炙していましたから。

ところがその教授は、その部隊名を決めるときに、参謀長とかがなんと、「愛国百人一首」の札をめくって決めたと。
まことしやかに、HP上で史実として書いていたのです。

戦時中に、そんな歌留多が作られたのは事実ですが、そんなものを引っ張り出さなくても歌は浮かぶはずですね。

日本の国花は、ソメイヨシノではなくて、白い山桜のことだよ。
これは子供が、親や先生から、あるいは上級生から聞かされること。
そのときに、引き合いに出されるのが、宣長の歌でした。
しきしまの、やまとごころを、ひととはば、あさひににおう、やまざくらばな。

ですから、命を散らす→桜→宣長の歌を連想するのに、なにも歌留多をだすまでもない。

おそらく、教授の教養の程度を露呈しているのか(自分がそこで歌を知って、結び付けた?)、いわゆる半可通のひとりよがり。でなければ、なにか為するための記述かもしれません。

問題は、曲がりなりにも現職の私大教授ですから、若者たちを教えているということ。

ところで、昨日の薫空挺隊の隊長は、中重男中尉という24歳の青年でした。記者のメモ帳によると、柔道剣道ともに4,5段で、いつも『良寛論語』という本を、愛読していたといいます。お兄さんも戦死していたとかで、いよいよ出撃のときにつくった辞世の歌は、「亡き兄の教え守りて吾もまた、往きて守らん武士の道」。

出発の前まで、一人部屋で雑誌を読んでいたとか。それが、当時の文芸春秋で、横光利一の「旅愁」の連載が始まったところだった。
その雑誌をパタンと閉じて、「生きて帰ったら、続きが読めるな」と、記者に笑顔を見せたそうです。
生還はありえないことは、本人が一番知っていたでしょうね。


物語の続きはついになかった・・・・・・・














posted by shuuin at 17:27| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。