2007年06月03日

死の約束

例の栗田艦隊が、レイテの湾頭で突入をやめて引き返したのが、昭和19年10月25日。その半月後の11月9日には、実は14方面軍司令官の山下奉文大将は、南方総軍に「レイテ決戦中止」の意見具申をしています。

南方総軍→第十四方面軍→第三十五軍、という命令系統があって、それぞれ総軍・方面軍・軍という呼び方をしてました。その「軍」のもとにいくつかの師団があるわけです。
で、総軍の司令官が寺内寿一元帥、寺内正毅伯爵の長男ですね。
その寺内が「やれ」といえば、山下は「はい」といわざるを得ない。
実際にもこれに近いやり取りだったとか。結果として、レイテ決戦は続行されたわけです。
それとちょっと余談ですが、よく歴史の証言とか読んでいると、「その時、軍はこれこれと判断していた」などと出てきます。この軍を、陸軍とか軍部とか参謀本部とか、と思いがちですが、方面軍の下の軍をさしている事がよくあります。気をつけないと、とんでもない読み違いをしてしまいます。

そのレイテに投入された戦力のひとつに、昨日ふれた「高千穂挺身隊」と「薫空挺隊」がありました。
数の上では微々たるもの、戦果のほどもわずかにすぎなければ、誰にも知られることもないかもしれません。でも、そこにも一人一人の人間が、日本人がいたのだということは知っておいてもバチはあたらない、そんな気がするのですが。

今の冒険小説や映画でいえば、さしずめ特殊部隊とか、レインジャー部隊といったところですか。高千穂とか、薫とかの呼称も日本式のコードネームですね。

実はこの二つは、所属も編成もまったく別のものなのです。高千穂は航空総監部所属ですから、東京直属の部隊で2個連隊の約千人がフィリピンに来ていた。薫はもともとが地上の切り込み部隊(こんなのがあったのですね。切り込み決死隊)、20数名だったとか。
薫の親部隊はモロタイ島にいたけれど、落下傘部隊と一緒に使うということで、派遣されたわけです。
でも、地上部隊は降下訓練していない?そこなんですが、これが最初から胴体着陸をして地上戦闘するという計画です。

「切り込み」というと、日本刀だけでと考えますが、銃器を持っていてもこういう決死隊をこう呼んでいたのですね。まあ弾がなくなれば、最後は白兵戦になるでしょうが・・・・・

彼らの戦いは、初めから生還が期し難いのですから、やはり特攻ですよね。出撃前から、確実に死が約束されていた。
その目標はレイテ湾近くにあって、すでに敵に奪われてしまった日本の4つの飛行場でした。
地上から呼応するはずの日本軍は、すでに師団が全滅したりしてる時ですから、まったく単独で敵中に飛び込むことになります。

こんな作戦で何かが変わるわけではなかったでしょうが、飛行場を奪えばバランスが変わるかもしれない、そんな考えで決行されました。

この飛行場にむかった高千穂挺身隊にも、薫空挺隊にも一人の生還者もありませんでした。

日本側には、戦闘記録もない薫空挺隊ですが、その出発を見送っていた報道班員の方がいました。同盟通信の特派員ですが、どうせ死ぬなら新聞記者として死にたいと、志願してフィリピンにいったそうです。
そして、「薫」に出会うわけですが、非常に特殊な部隊で、隠匿勢力というか忍者部隊のようなものだった、と。
地味な部隊で、ほとんど知られることなく死んでいった。そのことがとても気の毒で、記憶に焼きついていると、後に語っています。

最初に第四航空軍をたずねていったら、参謀の一人が地区司令部にいって話を聞いてみろとなぞめいたことをいった。地区指令にあって一緒の風呂に入るまでになってから、そこで薫部隊の話を知ったといいます。
秘密部隊ですから、おいそれと新聞記者に教えるはずもないですよね。
司令官としても、誰にも知られないままに死なせるのは、あまりにかわいそうだと思ったんでしょう、とその記者はいってます。

ジャングルの奥の飛行場の、粗末な二軒の家にいたそうです。着いてすぐに感じたのは、隊員同士の仲がよくて、気持がいい。炊事なんかも、兵士も士官もなくて、みんなで一緒にしてたそうです。

よく似てますね、ラクビー部の合宿所みたいだったという、落下傘部隊の隊員たちの雰囲気と。

第四航空軍ですが、これは総軍の隷下にあります。前の船舶司令部もそうですが、いずれも山下奉文大将の指揮下にないのですから、山下司令官も苦労したようです。比島作戦というとすべてが、山下奉文ということにされますけれど、実際は違う。ほかに海軍も別ですから、なにをするにも連携が大変だったとか。

そんなことより、高千穂挺身隊や薫空挺隊を送るのは第四航空軍の役目。特に薫は強行着陸ですから、操縦士や整備員も切り込みです。
つまりこの人たちもまた、名も無き特攻だったわけです。
ダグラス4機に、操縦士と整備員が8人いった、と。

ダグラスというのは、その方が人数が乗れたからだといいます。
米軍機で行くからといって、敵を欺くためじゃないんだと、日の丸を鮮やかに塗りなおしていったそうです。いかにも、日本人らしいと、思いませんか?

薫空挺隊の隊長、若き中尉の出発前のエピソードにも、ふっと胸をつくものがありましたが、それはまた別の機会に。

送り出した第四航空軍の司令長官が、あの富永恭次中将なのがちょっと引っかかるのですが・・・・・










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2007年06月02日

若者の笑顔

読書だけは、日々欠かさないのだが、日記は頭の中だけで終わっている。

一方通行のブログに、いわゆるモチベーションがさがった状態なのかもしれない。

そんなところで昨日、ある若手大学教授のサイトに偶然に入ってしまった。専門は経済学者らしいのだが、軍事も手がけているようで、昭和の戦争もかなり調べてはいらっしゃる。

ところで、特攻自然発生説というのがでてきましたが、そんな説があったとは知りませんでした。さしずめ教授の立場は、特攻上層部強制説になりますか。

その記事のなかに、一枚の写真がありました。出撃前に、司令官と盃を交わすところなのですが、みな笑顔なのです。その説明が、「笑顔からはうかがい知るよしもないが、・・・・」
要するに仲間の手前、弱虫といわれないために笑っているというのですね。
ということは、それが作り笑いということになりますが?

ここですぐに浮かんだのが、いつか触れようと思っていた陸軍の落下傘部隊の話です。
空の神兵と歌われた、パレンパンの落下傘降下は有名ですね。そのあとシナで訓練を続けていた空挺団でしたが、二度目があのレイテ島でした。

高千穂挺身隊と、薫空挺隊がそれですが、戦後もほとんど知られることもなく、歴史の闇に消えています。

戦闘記録の残っていない部隊、帰らざる部隊だったのです。

そのときに従軍画家だった吉岡賢二画伯が、出撃直前のスナップを撮り、それが貴重な記録になっているようです。

で、その吉岡画伯の次のような証言があります。

「わたしが一緒に暮らした感じでは、これが特攻隊だという、せっぱつまった緊張感みたいなものは全然ありませんでした。ひどくなごやかで、朗らかで・・・・。どういえばいいのか、ちょうどラクビー部の合宿所にいるような雰囲気でしたね。隊員の中にはひげをはやした人もいたが、みんな若い人でした」


いよいよ出発のときに、送る方は感傷的な気持ちなのに、送られるほうは冗談を言っていたそうです。

覚悟を決めてしまったとき、人は吹っ切れるとかいいますが、死地に向かう仲間の連帯感がそんな雰囲気を生んだのでしょうか?

作り笑いなんかではなくて、自然に浮かんだ笑顔だったんだなと思うことで、少し救われるのですが・・・・・

薫空挺隊のことは、明日書きます。






タグ:落下傘 笑顔
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2007年05月24日

忖度すること

昨日は触れることができなかった、もう一つの特攻隊の後日談。

海軍の神風特別攻撃隊、関行男大尉にかかわる話なのです。

関大尉は前に触れたレイテ海戦のときの、敷島隊の隊長として有名です。いわば最初の特攻隊で、そのまた一番隊長ですから、いろいろと語り草にもなりますね。

あの海軍特別攻撃隊の隊員たちは、ほとんど全員がいわゆる予科練出でしたから、海軍兵学校からも誰か行かねばまずいのでは?
そんな空気の中で、関大尉がゆくことになるわけですが・・・

「私に行かせてください」
そう彼が申し出たというのが、まわりの関係者たちの言葉として残っていました。


ところが、戦後になって、あれはでっち上げで本人は行きたくはないのに命令されたのだ、という説が出てきます。

「彼の性格からして、絶対にそんなことを申し出るはずがない」
関大尉の幼馴染の友人とやらが、どこかでそう語っていました。まだ新婚ほやほやの妻を残して、自ら死を選ぶはずはない、と。

これを読んだときにも、やはり心の中に疑問符が浮かびました。
例え、どんなに仲の良い親友だとしても、そこまで言い切れるものだろうか?
まして兵学校で教育を受けて、戦闘機乗りになって最前線で決戦に臨んでいる人間の心を、そう簡単にきめつけられるのか?

そもそも一人の人間が、生死の関頭に立たされたとき選んだ決断や行動を、そこまで忖度してよいものだろうか?

もしも、関行男大尉が伝えられるとおりに、自ら選んでその行動をとっていたのだとしたら、友人の言葉は逆に死者を冒涜していることになりませんか。
命令されていやいやながら、仕方なしに突っ込んでいったんだ、などと決め付けることは誰にもできないはずです。

さまざまに、推し量って死者を偲んであげることと、勝手に忖度して決め付けてしまうのとは、まったく別のことです。

愛妻を残して、恋人を残して戦争にいった人は、数え切れないほどいたはずです。特攻でなくても戦場はいつだって、死と隣り合わせですから、かれらはみなその覚悟はできていたのでしょうね。

彼らを送り出した、基地指令の猪口航空参謀が確かいってましたね。
遅かれ早かれ、自分たちも死ぬんだと思っていた、と。






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2007年05月23日

それぞれの胸のうち


岸恵子主演の特攻隊の映画のことが、あちこちで少し話題に上っているようです。岸さん自身があちこちのテレビで、あの戦争のことを語ったりもしています。

完成試写会でだったか、「志願という名の命令で・・・」という言葉が最初にありましたが、「?」という気がしました。
それがモデルになった「特攻の母」の言葉なのか、岸恵子本人の言葉なのか、判然としなかったからです。

映画はフィクションですから、歴史をそのままに再現することは無理だとは、わかっています。ただ、この手の映画の時には、中途半端な作り物を見せられるのがこわくて、たいてい二の足を踏んでしまいます。

ただこの頃は、ちょっと違った考え方をするようになりました。
例えば昨年の「男たちの大和」にしても、おかしなところはたくさん目に付きますが、大勢の人が映画を見て評判になった。そのことに意味があると、感じはじめたのです。そこを入り口にして、昭和の歴史に関心が生まれれば、それはそれで無意味ではない、と。


ところで前から、特攻についてのあれこれで、いつも気になっていることがあります。

だいぶ前のことですが、こんな記事を読んだことがありました。
「うちの息子をつれていかないでほしかった。恨みます」
ある特攻機の操縦士の母親の悲痛な叫び・・・・・

あの昭和20年8月15日、終戦の詔勅をうけたあとで、宇垣纏中将が沖縄に特攻出撃しました。詔勅に逆らう形になってしまいますから、軍服の徽章もすべて剥ぎ取って、搭乗したといいます。
つまり宇垣中将は、自決するための特攻であったのですが、その機を操縦した若者の母親が後年もらしたという、恨みの言葉がこれだったのです。

宇垣纏は、かってブーゲンビルで山本五十六長官が撃墜されたときは、二番機に乗っていた聯合艦隊参謀長。自らも海に墜落して重傷を負います。山本五十六の遺骨を運ぶ「武蔵」で内地に帰り、海軍病院に入院。比島沖海戦(レイテ)では、「大和」艦橋にいましたが、その後は鹿屋基地で特攻隊の指揮を取っていました。
宇垣中将の特攻自決は、送り出した隊員たちの後を追ったのでしょう。
中将なりの責任の取り方、だったのではないでしょうか。

その時感じた違和感は、(果たして操縦を命じただろうか?)というものでした。もしかしたら、若者は「ご一緒させてください。私も連れて行ってください」と、すがって頼んだのかもしれない・・・・・・
もしも、もしもそうであったら、お母さんは息子の気持ちを貶めることにならないか?
そのときは、ふっとそんなことが頭をよぎりました。母親の気持ちはわかりますが、例え肉親であっても、死んでいった者の気持ちを忖度するのは難しいものです。

後になって、このとき同行した機が10数機だったと知りました。
かれらはみな特攻隊員だった。突然の終戦で目的を失った。後世の目で冷静に判断してれば、というのは無理でしょう。やり場のない興奮の中で、何時間か前に出撃した戦友たちの後を追ったのでしょうね。
終戦の詔勅を聞いて、ああ命拾いした、と思った若者はそうはいなかったような気がしてなりません。

余談ですが、少年時代ははいつも「自分だったらその時死ねるかか」と、心のうちで自問する癖がありました。もしも私がそこにいたら・・・迷わずいっしょに飛んだだろうな。

この、いってみれば最後の特攻隊の若者たちの、純粋な気持ちと純情さを素直に受け入れてあげたほうが、死者を悼むことになりはしないか?
そんな気がしてなりません。




posted by shuuin at 17:47| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月16日

ねずみ輸送

ねずみ輸送といっても、ねずみを運んだわけではありません。
クロネコや、ペリカンがあるから、ねずみもあり?などと若い人につっこまれそうですが、それでもありません。

ねずみ輸送という呼び方は、かって水雷戦隊が、ガ島に陸軍部隊を運んだときに、こう呼んでいました。
度重なる輸送船の被害で窮余の一策、もともと人や物を運ぶようには造られていない駆逐艦で、ガダルカナルに夜間に強行陸揚げしたわけです。夜になって活躍するから鼠というわけ。

レイテ島の場合も、最後はネズミ輸送になったそうですが、こちらはいわば小ネズミ輸送?だった。

前に書いた輸送船続きの話なのですが、レイテの場合すでに船が足りなくなってるから、たまたまマニラ湾に入港した船は、片っ端から頼み込んで使ったといいます。
とにかく、師団を送り込むということになると、兵員だけで万単位になるわけです。装備も含めると大変な量で、当然大型船が何杯も必要。

レイテでは、あのレイテ湾の反対側オルモックに上陸したわけですが、そこが遠浅だったことがわざわいします。
海軍では、あのキスカ撤退作戦で有名な木村昌富少将の水雷戦隊などが、船団護衛につきました。が、船足のおそい輸送船にくわえて、沖泊まりしての揚陸に手間どるために、駆逐艦にも輸送船にも被害が甚大になってきます。

実は、陸軍航空隊の第四航空軍も、船団護衛をしていました。
この船団護衛というのが、かねてから南方戦線での四航軍の宿命だったといいます。
これが案外に大変だったらしい。数がいるし消耗する、と。
船団が出れば、夜明けから少なくとも一個中隊(12機)は船の上に置く。敵が来そうなときは、もう一個中隊いる。昼間明るいうちは、一時間から一時間半交代でずっとこれを続ける。つまり、百三四十機が必要になるわけですが、ひとりに二回ずつ出動させて不足をカバーする。その結果パイロットに疲労がたまる。護衛は受身だから、それだけ大変だそうです。いつも低いところを飛んでないといけない。そのため上空警戒の機と2層になって飛ぶそうです。
航空戦闘ではいかに敵の上につくかで、勝負が決まることは映画でもよくみますが、艦隊護衛は不利な戦闘を強いられて消耗する。
消耗とは撃墜されて、パイロットは死ぬということですよね。
どんな仕事にも、聞いてみて初めてわかる苦労がありますね。命がけで、縁の下の力持ちの役目を果たした男たち・・・・・

そうそう、小ネズミの話がまだ途中でした。当時はあちこちで、大発、漁船、機帆船まで十トンから三十トンぐらいの船を、内地から運んできて使っていたんですね。船員はいわゆるねじり鉢巻の漁船員たちでした。夜出発して、朝になるとどこかの島影に隠れて、夜になるとまた動きだして、マニラからレイテまで時に1週間かけて、運んだそうです。
空襲が激しくなって、ネズミ一匹漏らさないようになっても、やめるわけにはいきませんよね。

「船長を督励して『頼む』というと、あの人たちも気合が入ってましたね。『大丈夫ですよ、まかしてください』といってね・・・・」

ぐっときますね、この男たちの心意気に。
天気図をみて、明日からくずれそうだというと、「それっ」てでかけたそうです。悪天候なら、敵機が来ないから。でも、自分たちは小さな船で大変なはず・・・・・

このネズミさんたちも、帰ってこない人が多かったそうです。
通信能力不十分だから、どうなったかも、どんなに勇敢だったかもわからずじまいだそうです。
船を出しただけで、十二分に勇敢だったと思います。
無名だけれど、間違いなくこの人たちも昭和の日本人ですね。



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2007年05月12日

特攻と特攻隊と

「特攻は嫌いだ」
つい先日、朝のテレビでこう言い放った男がいた。まわりからカントクと呼ばれていたから、何かの監督なのか?よくバラエティー番組とかで見かける顔なのだが、名前は知らない。

それにしても、先の大戦での「特攻」という行為を、好きとか嫌いとかで判断するのか。戦後の教育は、とうとうこんな日本人を出現させたのかと、あきれました。ほんとに日本人なのかなあ?、と疑う始末。

近頃は、「先祖代々の」、「生粋の」、「純粋の」などなどと形容詞をつけないと日本人をあらわせない、と横からいわれて暗澹としました。
狭義の日本人と、そうでない日本人がいるのだそうです。

別に国粋主義とも、ナショナリズムとも関係ないですが、わたしは祖先からずっとこの島国に生きてきた人間のことを、形容詞などつけずに日本人と呼ぶことにする、ついにそう宣言する始末でした。
まさかまだ、昭和は遠くなってないよな?などとバカな問いも発しそうになって、あやうく踏みとどまりました。

ところで、先のばかげた発言は、何でも石原慎太郎都知事が作った映画のことだったようです。(ちゃんと視てなかったので曖昧?)

映画や本で「特攻」を扱っても、それを見たり読んだりしても、別にそれが「特攻」が好きということにはならない。
ただ、昭和の歴史にあった出来事を、ほんの一端にしても知って記憶しておくことが、大切なのだという気がします。

たしか、知覧といってましたが、あれは海軍の基地だったかな?

レイテ海戦のとき、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将が生み出したということで、特攻隊といえば海軍特別攻撃隊が有名です。
あのサマール沖で、栗田艦隊の反転した直後に、敷島隊などが突っ込んだことは前にも触れました。

実は、陸軍にも特攻隊はあったのですね。レイテ島に、空挺部隊の特攻というのもありました。
海軍とはまたすこし事情が違って生まれたそうですが、それはまた別の機会に書くことにして・・・・・


あの捷一号作戦で、レイテ島には陸軍の兵力が次々に送り込まれたわけですが、そのための足は輸送船が受け持つことになります。
それを担当したのは、第三船舶輸送司令部(シンガポール)です。
ちなみに、船舶輸送というのは、内地,外地を問わずその間のあらゆる物資や資材の輸送を担当する、陸軍船舶司令部(宇品)という独立した部門でした。
戦場に兵隊や装備や糧秣を運ぶのは、作戦輸送。

で、その第三船舶輸送司令官稲田正純少将の言葉。
「この作戦輸送をどうやったか、一言でいえば私の仕事は船員たちに、『行って死んでくれ』と頼むことでした。どんどん兵隊たちを送り込まねばならぬのに、どんどん船が沈む。うまく上陸させても帰りに沈められる。仮に帰ってきても、また行かねばならぬ。船がないんですから一度でお役ごめんというわけにいかない。沈められるまで行かねばならんのです」
マニラとレイテの間を三度往復できた船は、多くの輸送船が動いた中で、たった一隻だけだったそうです。
『死んでくれ』というよりほかに、言い様もやりようもなかった、と。

船員さんたちは、地方人(民間人のこと、軍隊では一般人をそう呼んでいた)ですから、特攻隊とは呼ばないですよね。でもこれは、その心は特攻とおなじではないでしょうか。

船を出すときは、山下奉文司令長官が船長や高級船員を呼んでご馳走をしたとか。これなども、せめてもの司令官の心づくしですか。
それを見習ってか、稲田少将は帰ってきた時に席を設けて、輸送の様子を聞くことにしたそうです。
「みんな九死に一生を得て帰った苦労話のあとで、『すまんがもういっぺん行ってくれんか』と頼むのです。頼む方はつらいが、頼まれるほうはしかしいやな顔はしませんでしたね」

あの昭和、戦前の日本人はそうだったんですよね。頼まれたらいやとはいえない。むしろ頼むほうの辛さまで察して、黙って呑み込んでしまう。みなまで言うなよ、と以心伝心。男は黙って死にに行く、といったらいいすぎでしょうが、うまくいえないけど、何か今と違う日本人の一体感というものが確かにありました。少なくとも自分の命を惜しんで、しり込みするようなことはしなかったでしょうね。

そのときの船長や高級船員の訴えで、決して忘れることのできないことがある、と稲田氏が戦後語っています。

その頃の船は、壮年の船員が全部兵隊にとられてますから、幹部は40歳以上、残りは十代の少年がほとんどだったそうです。
その若者たちが兵隊を運んでいて、自分とあまり年の変わらぬものが向こうは兵隊で死ぬ、われわれは地方人で死ななければならない。同じ死ぬなら、軍服を着て死なせてくれと船長たちに訴える、と。

ここまで読んだときには、不覚にも涙がでました。少年たちのいじらしい願いにです。
死ぬのがいやだというのではなくて、せめて死地に赴くにふさわしい装束を・・・・・
この若者たちはきっと、年の近い兵隊たちと心情的に同化して死んでゆきたかったのではないでしょうか。同じユニフォームで戦いたい、そういうことだったのでは?

「そんなことをいうな。船員は大切な仕事なんだから」と慰めても、
「どうか、これだけは聞いてやってくれ」と、船長たちは涙を流していったといいます。いっしょに死地に連れてゆく若い者のささやかな願いを、何とかかなえてやろうという船長たちの姿にも胸を打たれます。船長らと若い船員たちの年回りは、ちょうど親子の関係になりますか。

勇敢な船員たちの海員魂にも、昭和の日本人の誇りを感じますし、私にとっても忘れられない話になりました。

これらの記録の上では無名の人々のことを、日本人が時に思い出すことも、ささやかながらひとつの鎮魂になるような気がするのですが。












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2007年05月11日

参謀長の胸中は

レイテ海戦の栗田艦隊の反転に触れた最後は、参謀長小柳富次少将の発言の中で、ちょっと気になったことを書いておきます。

味方の各艦があと一歩のところまで、敵を追い詰めていたことがわからなかった、と。「大和」の位置がそれほど後方だったことになりますか。

このとき、敵の逃げてる先にレイテ湾があったのですから、米軍側は日本艦隊を引き連れて来てることに、困惑していた。
しかもこのとき、米軍側は弾薬や魚雷が足りなくなっていた。もっともこれはあとからわかったことですが。
それで、敵機の多くがなんとフェイク攻撃を繰り返したといいます。でも、見せ掛けのフェイントでも、雷撃機が突っ込んでくれば、艦は回避運動をする。それで追い足が鈍ることになる。

「どうせもう、上陸した後だから(初上陸は5日前)湾内は空っぽではないか?」
これは、出撃前にもそんなことをいってました。
「せめて湾内の様子が見えたらと思っても、もう飛行機は飛ばしてしまってない」
あの、北に走ったために飛ばした艦載機は、こんなところで響いてきました。
「それと、スリガオ海峡で西村艦隊や志摩艦隊を叩いた敵艦船群がレイテにもどって待ち構えているんではないか?」
日本の両艦隊の結末は、志摩長官からの電報が栗田司令部に届いてわかっていたのですが、これでは敵艦隊の威力を恐れているように聞こえます。

首をかしげたのは、次の一言です。
「それに敵は湾の入り口に機雷網を敷いているかもしれない。自分たちだけは通路がわかるようにして」

?????オイオイ、そんなことはこの期に及んでいうことか?

日本海軍の最後をかけて、「レイテ湾突入」と決めて、決死の出撃をして生還を期せずだったはずなのに、機雷があるかもしれないとは・・・
今更それはないだろう、という気がします。

ここで思わず本音が出てしまったなと、どうしても思ってしまいます。

「大和」の通信士が艦橋に報告に上ったときに、参謀長と栗田長官だけが防弾チョッキを着ているのを目にして、驚いたという話と符丁があってきます。「うちの長官と艦長は端然と白服でいるのに」は、宇垣中将と森下大佐ですね。

防弾チョッキ組は、やっぱりちょっと命が惜しい口だった?、とつい考えたくなります。

それと、輸送船なんか相手にしたって、というのが海軍軍人なら当然の考え方である、と参謀長は再三いっています。
もし、その輸送船群をやられていたら、戦争に負けないまでも取り返しのつかないほどの深いダメージを負っていた、というのは米軍側。

あの時、レイテ湾には100隻からの艦船がひしめいて、物資や兵員の陸揚げの順番を待っていたといいます。








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2007年05月08日

海軍軍令部作戦室


昭和19年当時、霞ヶ関の海軍省の三階に、軍令部がありました。
作戦室は南側、中央に大机6つくっつけて、畳6畳分の作戦図が拡げてあった。
インド洋から太平洋の東半分までの地図の上に、コマを置いて、敵味方の位置、兵力、艦船の種類を示すというしかけです。

毎朝そこに、軍令部総長及川古志郎大将、海軍大臣米内光政大将、各局長、部長、課長まで、大佐以上の首脳部が2、30人集まるわけですね。
そこで、第一部(作戦)の当直幕僚が10分間ぐらい、前日の戦況説明をする。これは6人の中佐の輪番制。

この説明会は軍令部の日課だそうで、総長と大臣は必ず出たといいます。それというのが、戦況というのは特別のことがない限り、この二人に一々報告しないのだそうです。

ちょっと驚きました、大将たちは出席しないと、前線がどうなってるか分からなかったんですね。ここで戦況を聞くのが普通だったといいますから。

作戦計画の検討をする場合は、この戦況説明が終わってから改めてしたといいます。
さしずめ、米内海相は退席する、なんて想像してしまいますね。

作戦室には各地から、報告、行動、命令などなど次々に電報が入ってくる。幕僚が整理して資料にまとめるわけですが、戦況逼迫のこの頃は、中佐幕僚も多忙を極めたようです。
事務的な仕事は兵学校出の若いのにやらせよう、ということで野村實中尉はマリアナ海戦出撃直前に、「瑞鶴」電測士から軍令部に転任したというわけでした。

その野村中尉が、栗田艦隊反転を知ったときの、軍令部の人たちの反応をつぶさに見ていました。

戦況は逐一、海軍省内の東京通信隊で受けて、暗号を翻訳して持ってくるから早いのは一時間、遅くとも2時間で届いたとか。
現代の通信と比較しても意味がない。パソコンと人力の違いですが、考えようではそれだけ人間の能力にかかる比重も大きかったといえそうです。
東京通信隊は設備もよく人も多かったから、よくとったそうです。つまり通信傍受の能力があったということでですか。
電報は1日で2、3寸たまるそうです。懐かしい単位ですね、モダンな海軍でもここは尺貫法。

でも、ひとつも愁眉を開かせるものがなかった。悲報ばかり10センチもたまったら、たまりませんね。アレッツ?

しかし、戦況がどうあれ、栗田さんの艦隊に進撃してもらうほかわない――――全員の祈るような願いだったでしょうね。

同じ海軍だから、艦隊の乗組員はみんな自分の友達、上は上なりに下は下なりに、みんな良く知っている人たちが乗っている。いわばおなじ血がかよっている。栗田艦隊のなめている辛さは、直接こっちにも通じてくる。それでも、なんとしても進撃してもらわなきゃならん、そういう全員の空気だったといいます。

だから、栗田艦隊の反転の電報は軍令部の全員にとってショックだった、と。

作戦室は神聖な場所で、みな百戦のつわものだから、大騒ぎになることはなかったが、口々に進撃しなければいかん、といったそうです。
いまやらなければ、帰ってきてももう戦争は二度とできない、それなら失敗しても戦うしかない。
第一部長中沢佑少将は、特に強い語調でそういった。及川総長も軍令部次長伊藤整一中将も同じ意見。

引き返してもいいという意見は、ひとつも出なかったといいます。

引き返したら、作戦全部がダメになる。小澤さんも西村さんも志摩さんも、基地航空隊も全部ダメになる。それに、引き返したところで、相手は飛行機だからすぐに追いつかれてしまう・・・・・・・

やはりみなそう考えていたのですね。栗田艦隊のレイテ湾突入という目的のためだけに、すべての将兵が身を犠牲にしてもと支援していた。その全部を無にするような作戦中止を、どうして決められるのかと不思議でならなかったのですが。
みなの犠牲が無駄死になる、必死の奮闘も辛苦も水泡に帰する、そのことをダメになるという言葉で現したのでしょうね。


それでも栗田健男とその幕僚は、その反転をやってのけました。




タグ:海軍 戦況 犠牲
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2007年05月05日

軍令部では

栗田艦隊の反転の報に接したその日の霞ヶ関の軍令部の反応は?

海軍軍令部というのも、離れたところでかなり的確に状況を把握していたのだな、と感じさせるものがあるので少し詳しく書きます。

あの真夜中にサン・ベルナルディーノ海峡を抜けるときに、栗田司令部は兵力と行動予定を打ってきたそうです。
戦艦4、巡洋艦8、その他駆逐艦などが、攻撃に向かっている、と。軍令部作戦室では、まだかなり戦力が残っていると、ほっとしたようです。というのは、シブヤン海でどのくらいがやられてしまったのか、分からなかったからです。

で次は、海峡の出口で待ち構える敵機動部隊との交戦を予期します。戦闘が起これば電報が殺到するはず。
ところが、それが一向に来ない・・・・・??
そのうち、恒例の朝の作戦説明の時間になった。定刻08:30に毎朝これをやってたのですね。

及川総長、伊藤次長、米内海相、井上次官ほか20名ほどがあつまって来た。当直幕僚が、経過を報告します。
栗田艦隊は進撃を続行中、小澤艦隊は昨日艦載機を放って攻撃したが戦果報告は未着、基地航空の総攻撃で敵空母一が炎上し大傾斜してる、味方潜水艦12隻はサマール島東岸に突撃に転じた。
そして今朝入った最新情報として、西村艦隊ほぼ全滅、志摩艦隊は魚雷攻撃のあと退避行動に入った。

さすがというか、当たり前というか、10月25日の朝の時点ではほぼ完璧に状況を把握してますね。
実は小澤艦隊は、まだ発見してもらえなかったから、報告はしようがない。炎上して傾斜してるのが軽空母プリンストン、これは基地航空の彗星艦爆の一機が、敵艦長に悪魔のような巧みさといわせた技量で、結果的に沈めたもの。実はハルゼーが、小澤機動部隊がいるのでは?と、疑うきっかけになったのですから、戦場の機微はここにも。ハルゼーはこの彗星艦爆が空母から来たものと思ったのですね。
ほかにはいつも忘れられてしまいがちな潜水艦部隊はレイテの海に突撃して、たしか半数以上が還らなかった・・・・・


で、この説明の終わるころ、突然作戦室の電話が鳴りだした。
埼玉県大和田村の海軍通信隊から。こんなところに敵信傍受専門の通信隊があったんですね。
米軍の緊急平文電報を傍受したから、との知らせ。
「われわれは今、敵の戦艦4、巡洋艦8、駆逐艦多数から砲撃を受けている。緊急援助をこう」
最後に、This is not a drill.

実は、この電話をとった方がそのとき作戦記録担当の野村實中尉。
いまでも、あちこちで活躍されてるから、知ってる人も多いかもしれない。シュミレーションゲームの監修とかもしてたかな?

軍令部の電話が、箱型の手回しハンドルの旧式のやつだったとは、ちょっと想像のほかですね。
で、聞こえないから、エッ、エッて聞き返す。
静かな部屋で、総長、大臣以下耳を澄ましてる?
横から、つっと受話器をとったのが、航空参謀の源田實大佐だったと。かっては南雲艦隊の航空参謀、戦後参議院議員にもなって、航空自衛隊の誕生はこの人の力といわれてますが、このときはここにいた。このときの電話は、敵の傍受電だけでは信用できなかったのか、源田大佐がのみこんで披瀝しなかったそうです。

そのあと、栗田艦隊からの報告がはいるのですが・・・・・

ちなみに伊藤次長は、沖縄特攻のあの伊藤聖一中将です。



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2007年05月04日

歴史のif

栗田艦隊の反転について、マッカーサーの側近でその伝記を著した人物(たしか情報畑の中将だったか)が、どこかに書いています。

戦後、小柳参謀長がいくら論理的に言い訳しても、あれは間違いであった、と。
つまり、栗田中将の判断は司令官として誤りであった、と明言しています。
そう考える人は、米軍側には少なくなかったようです。
逆に、正しい判断と評価したものは無かった、と。

昭和19年10月25日のこのレイテ海戦が、『第二次大戦中のアメリカ軍の最大の危機』であった、などとは日本側は夢にも知らなかったわけです。

よく歴史にif はないといわれます。
私自身、そういう仮定で云々する類のことは嫌いなのですが、栗田艦隊が命令にしたがって突入していたら、現出したであろうことを知ってみると、驚いて言葉にならなくなります。


レイテ湾に突入しなかったばっかりに、一万何千の将兵が助かったからと、栗田健男を庇護する声もあります。でも、突入していたら、直後にレイテ島での八万近い戦死者をだすことは避けられたでしょうね。

それどころか、早くに停戦が成立して(無論、日本の敗戦は決まりですが)、日米双方ともその後の多大の犠牲は避けられた可能性が高かったと思われます。

硫黄島戦も、沖縄戦も、原爆投下もなかったかもしれない。

そう考えると、一提督の判断に過ぎないけれど、恐ろしいほど重大な歴史的反転だった・・・・・
歴史とは極めて個人のものだ、という思いがあらためてよぎります。

無謀な、やけくそに近いといわれる「捷一号作戦」そのものが、場合の作戦としては間違ってはいなかったのでは?

戦争は多分に水物である、戦機は一瞬にして去る、そんな言葉が次々浮かんできます。




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2007年04月29日

昭和82年


今年から今日が「昭和の日」になりましたね。

かっては、昭和天皇のご生誕の日であるから「天長節」と呼ばれていました。
敗戦という歴史がなければ、さしづめ「昭和節」でしょうか。

で、わたしの雑記ノートの表紙を見たら、今年は昭和82年。
断っておきますが、いくら昭和の人間だからといって、いまだに昭和の年号を使っているわけではありませんよ。
ただ自分の読書の便宜のために、西暦、平成の年号と併記してあるだけですが。


いまから62年前の終戦の年、国民を気遣われて憔悴された昭和天皇が、皇后様とお二人でご不自由に耐えられた日々のご様子を、最近になって知りました。

今上陛下が皇太子時代の、学習院での日光疎開の生活・・・・・

東京大空襲で宮城内でも宮殿が焼けたこと・・・・・

何よりもあの大空襲の焼け跡に、煙と死臭の立ち込める中、自ら市中を見てまわられたことなど、露ほどもしりませんでした。

宮中のお文庫というのは、コンクリートでできた湿気の強い、陽の射さない、防空壕のことだったんですね。

そんなあれこれを、いまの国民はほとんど誰も知らないのではないですか?

これを読んでから、ジョン・ダウワーの「敗北を抱きしめて」を読み返したら、いかにでたらめな記述に満ちているかに驚きました。
ま、最初から生年からいって、それほど歴史に通暁してるはずがないとは思っていましたけれど。
でも、アメリカではいまや日本通の学者でとおっているようです。
現に東大教授の誰か(ナンジャパですが、名前がわかりません。中?韓?)が、テレビで何度も「ジョン・ダウワーはこういってます」と、決め手?として引用していました。
だれも、気づかずにいるといつの間にか定説として一人歩きするんですね。

また、話がそれましたが、歴史というのは誰かの説だけでなしに、様々な角度から読み取っていかなければならない、ということでしょうか。

その時代を生きたいろんな人の言葉をきくというようなことができれば、理想かもしれません。

単なる懐古ではなくて、過去を探訪することで未来が見えてくる。
頭の中の車に乗って、Back to the future です。さしづめ今日の行き先は、昭和20年の東京・・・・・







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2007年04月27日

疲れた脳で


昭和史を読むことから、レイテ戦に深入りしてしまったわけですが、レイテといえばフィリピンの島の一つです。実はこの比島での戦いが、太平洋戦争の天王山であるといわれていました。
くしくも、米軍側のマッカーサー司令長官も、ここでの戦いをそうみなしていました。まさか、マッカーサーは天王山などとはいわないでしょうが、日本側と同じようにここで勝負が決まると考えたわけです。

ところで、マッカーサーがフィリピンに特別にこだわったのには、個人的な理由があったのですが、あまり知られていないようですね。日米開戦で、ルーズベルトに呼び戻されて司令長官になるまでは、彼はマニラホテルに住んで比島の元帥として、いってみれば植民地総督的に君臨していました。実はフィリピンは長くスペインの植民地だったのが、1898年の米西戦争でアメリカの植民地に代わっていたわけです。
マッカーサーは、父親の代からフィリピンに多くの利権、つまり私有財産を持っていたといいます。

比島を奪還することは、自分の財産を取り戻すことでもあったのですが、そう考えると有名な言葉も意味深く感じられますか?

 I shall return.

マッカーサーの執念と、彼我にいわれていたものの正体の一部は、案外こんなところにあったかもしれません。


それはともかく、ここで敗れたら終わりであるという認識があったればこそ、日本軍はとにもかくにも陸海空総力を挙げて、すべてをつぎ込んで戦おうとしたわけです。

米軍側の史料や、その他をつきあわせればつきあわせるほど、あのときの栗田艦隊の反転が、非常に重要な意味をはらんでいたということがわかってきました。
一提督の判断云々というだけではない、歴史のターニングポイントといってもよいほどの出来事だったのだ、そう思えてきました。

戦後、栗田健男が、海軍省記者クラブの伊藤正徳の質問にだけ答えています。
「なにしろ命令なのだから、その命令を守らなかったのは、軍人として悪かったというほかはない」
「考えて見ると、非常に疲れている頭で判断したのだから、疲れた判断ということになろう」
三日三晩ほとんど眠らなかったあとだから、身体のほうも脳のほうも駄目になっていただろう、ともいっています。

疲れて闘志を失ったのかもしれないし、あるいはレイテ湾の輸送船などに向かう気は、最初からなかったのかもしれない、そんなことをふと考えました。

帰途のシブヤン海のことと、帰りの燃料のことを心配していた、といいますから、同じ日々に陸で、あるいは空で戦っていた多くの将兵たちとは、明らかに違っていたようですね。




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2007年04月24日

もうやめて帰ろう

そう思ったかどうかは、分かりません。

それこそ、後からまわりがいくら推し量ろうと分析しようと、そのときの栗田第二艦隊司令長官の本心は分からないままです。

ただ、ひとつだけはっきりしてることがあります。
まわりがなにを進言しようと、すべての判断決定は司令長官だけののものである、ということです。
これは、陸海軍問わず、あるいは軍隊というものがそうなのかも知れませんが。
わかりやすくいえば、たとえば幕僚全員が左といっても、実戦現場の司令長官が右といえばそれで決まるということです。つまり合議制ではないから、意志決定はあくまで司令長官だけが持つ特権であるということ。

戦争というものも、結局は個人の問題に帰するのか、と考えさせられることがよくあります。戦争を歴史と言いかえても、おなじかもしれません。
それはともかく、司令長官とはそういう権限を持っているだけに責任は重大ですし、人を得ていたかどうかで局面も左右されることになりますね。


レイテ湾での栗田艦隊の反転が、謎といわれて歴史に定着しているのは、当の本人が戦後長く沈黙を守ったままでなくなったからです。
その沈黙が、サイレントネイヴィーの伝統に従ったとか、黙して語らずの美徳にてらして、褒められたりもしてます。
敗軍の将は兵を語らず、とも。

でも、これって部下の落ち度をあげつらって、敗因を部下のせいにする卑怯をいさめたものであって、この場合はちょっと違うのではないですかね。部下たちにあたる各艦はみなよく戦ってますし、落ち度をとがめる出来事は起こってませんから。
明かさなかったのは、本人の判断や考えですから。黙秘権の行使?とまでいったら、いいすぎですか。

ちなみに、このレイテ海戦に参加していた第五艦隊司令長官志摩清秀中将は、逆にこの戦いのことを後世に残すのも指揮官であったもののつとめだと思う、と語っています。

人はそれぞれの人生観で生きるものだから、それを尊重してそっとしておく。栗田健男に取材拒否された記者は、たしかそのようなことを書いていました。

ま、栗田健男の名誉のためにいえば、沈黙することで嘘の言い訳だけはしなかった、ということでしょうか?

しかしそのために「謎」は残ったし、それによって栗田健男の名は歴史に残った、というわけになりますか。


                  



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2007年04月23日

謎の反転

戦史、戦記、あるいは体験談を読んだり聞いたりしているときに、いつもふと気にかかることがあります。それは、記録に残されることもなく、消えていった無名の将兵のことなのですが。
時には後まで、その出来事が心に残ったりすることもあります。

たとえば、たしかレイテの帰途だったかに、戦艦「大和」が急回頭したあおりで、随伴していた駆逐艦の甲板からあっというまに波にさらわれていった一乗組員がいた・・・・・・

レイテの沖で栗田艦隊が戦っているときも、そのレイテ島の地上では日本陸軍の第16師団が、次々上陸する米軍と戦っていたのです。
実は、10月20日に米軍が上陸してから、この16師団との連絡がいっさい取れなくなって、軍は困っていました。
つまり通信不能になっていたわけですが、これは米軍の艦砲射撃や爆撃もさることながら、20日の台風の被害が大きかったらしいとか。
様子が不明では、作戦がたてられませんから、マニラから参謀がレイテ島にわたります。
そのときの参謀が進む道すがら、道路脇にひとりまた一人と、電線を引っ張りながら死んでいる通信兵の遺体があった、と。

この今となっては無名の通信兵の一人一人は、弾の飛んでくる中で、勇敢に自分の本分をつくして戦っていたに違いありません。
それはもう命令どうこうのはなしではなくて、ただ自分の職責を果たす、通信兵としての誇りだけだったのでは・・・・・・

波にさらわれた水兵も、人知れず路傍に斃れた通信兵も、きちんと靖国神社に祀られているだろうか?ふと、あらぬ心配をしてしまいます。


ところで、レイテ湾口に迫って、サマール沖で敵の空母艦隊を追撃していた栗田艦隊は、突然戦闘を中止して反転します。
太平洋戦争史で、いや世界の海戦史上でも有名なあの「謎の反転」です。

09:10「逐次集まれ、大和、九時の位置ヤヒセ四了」発令。
位置は暗号だとか。参謀長の進言に即座に栗田長官が応じた、と。

「大和」が、戦場から遠ざかったために、様子が分からなかったのが原因だったようです。巡洋艦隊から適宜適切な戦況報告が来ないなどと参謀長がいう始末。でも、前方で懸命に敵艦隊と接触中の巡洋艦の方では、まさか、「大和」「長門」が反対に走って、はるか遠くにいるなんて思わないのでは?
電話機のつながりもわるかったとか。

とにかく、2時間の追撃で、各艦がかなり分散していたので集まるのにも、2時間かかったそうです。

一般に、陣形を組み替えたり隊伍を整えるときは、艦隊が敵に対して弱味を見せることになります。このときは、こちらが中止しても敵は攻撃の最中ですから、たいへんです。
「鳥海」「筑摩」「鈴谷」の重巡3隻が、自沈するに至ったのもこの間のことでした。

『ここで不思議なことが起こった。09:29、わたしは日本軍の攻撃をかわすことに専念していたが、艦橋ちかくの信号員の叫ぶのを聞いた。
「畜生、敵は逃げてゆく」
わたしは自分の目を信じることができなかった。しかし、事実はその通りだった。自分の脳裡に、この事実をしみこませることは困難だった。最善の場合でも、間もなくわたしは泳いでいることを予期していたからである・・・・・』

追われていた敵の司令官の言葉が、「謎の反転」の状況をいみじくも表している。
ほかでも、「ひやーっ、敵は引き返してゆくッ」と叫んだのが記録にありました。
オオ、ジーザスとか、オウマイゴッドとでも叫んだかな?

この歴史的な出来事は、もう少し検証しないといけないかもしれません。







タグ: 反転 無名
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2007年04月21日

その場その場の命令で

この日記は、独り言だし四方山話ですから、話があちこちに飛ぶことが多いのですが、昨日のテキストをのせた後でふと気になったことがありました。

それで、古い雑誌を探してみたら、なんとありました。

偵察機と書いたのは、正しくは「零式水上観測機」、通称ゼロ観。
複葉の水上機だった、と分かりました。
そして、記憶の隅に引っかかってたその手記の筆者が、「大和」から最後に飛び立った飛行士だったとは・・・・・

私の中だけで起こっている偶然に、ひとりで黙って驚きました。
ま、誰にもよくあることかもしれないけれど、これも歴史を読んだり調べたりするときの、快感のひとつかも知れません。

それにしても、まだまだ知らないことがありすぎる。
人生、いくら時間があっても足らないかもしれない。
あと百年、本を読み続けたとしても、読みたい本は残っていそうな気も・・・・・


ところで、サマール沖で「大和」から飛び立った2機は、なんと無事に水上基地に帰っていたのでした。

かれらは、後甲板の搭乗員待機室にいて、「大和」の世界最大の巨砲がびりびりと艦体を震わせて撃ちだしたのを、頼もしい思いで聞いていた、とか。
実は45サンチ主砲ではなく、副砲で射っていたはずですが、それでも十分に轟音が轟いたかも。

弾着が判定できないらしく、観測機の発進が決められた、と。
08:14に今泉中尉機が出発。上空には敵機が乱舞しているので、生還は期し難く、中尉は見送りの整備員と固い握手を交わしてから、カタパルトで打ち出されていった。
やはり、決死行ですね。30分後に、「敵戦闘機の追撃を受けている」と報じたまま、連絡が切れたそうです。

08:51に、手記の筆者である安田飛行兵曹長が飛び出します。
ところが、スコールと積乱雲で敵艦の影も形も見えなかったとか。
味方の巡洋艦と駆逐艦の列ばかりが見えた。4,5機の戦闘機に捕まって銃撃され、雲の中に逃げこむ。それを繰り返しながらやっと、雲の切れ目から逃げる敵空母らしきものを発見、打電と同時にまた襲われて・・・

5,6発被弾して翼がふらつくようになり、超低空飛行で敵の目をくらませながらセブ島へ・・・
だが、敵機の数の多さからそこは危険と判断して、ミンドロ島サンホセ基地に向かうことにして、12:00になんとか着水。
そこに、今泉中尉機も還って来たといいます。二人そろってマニラ水上基地に帰投します。

それから3日間は無線封止もあって、「大和」の所在がわからなかったとか。10月30日、残存艦隊がブルネイに帰ったのが分かって、基地にかけつけ帰艦できたそうです。

かれらはベテランの飛行士だったからこそ、こんなことができたのでしょうね。
安田飛行兵曹長は「甲飛2期」とあります。甲種飛行予科練習生といえば、七つボタンの予科練ですか。その2期生といえば昭和13年に入ったわけで、まだ少尉任官制度ができる前、制服も水兵服の時代だったはず。ただ、十分訓練された、腕っこきの搭乗員だったはずです。

支那事変は巡洋艦「鳥海」で、大東亜戦争になって戦艦「比叡」でハワイ、ジャワ、スマトラ、インド洋、ミッドウエー、南太平洋海戦の各作戦に参加。そして、「大和」に移ったといいますから、ずっとゼロ観乗りだったのでしょうね。カタパルトで打ち出されるのも、熟練をようするのかな。それと、機種による慣れとかもあるのかもしれない。
「ついに、一度も観測機として役立つ機会に恵まれなかった」
という言葉が、印象にのこりました。

昭和20年2月、安田飛行兵曹長は「大和」を離れて六三一空に転勤を命じられます。特攻機「晴嵐」の操縦員になったけれど、出撃前に終戦になって、・・・・・

「晴嵐」!これってあの晴嵐?六三一空は第6艦隊(潜水艦)の飛行隊です。伊400、羽根をたたんだ飛行機を積んで、カタパルトで射ちだす世界初の潜水艦・・・
有泉司令官→真珠湾の特殊潜航艇→晴嵐大隊長は海兵72期の・・・伊400という大型潜水艦の建艦技術が、現代の原子力潜水艦をうみだした、などなど。
頭の中に次から次へと、いろいろなことが押し寄せてきてとまらない。


>「戦況が不利になっているのはおぼろげに知っていたが、われわれ下士官兵には、艦隊作戦の全般は知らされず、その場その場の命令に従って戦うだけにすぎなかった」

そして、かれらはみな自分の役割を果たして、仲間のために最善を尽して戦ったのでしょうね。











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2007年04月20日

偵察機を射出

「大和」と「長門」が、そっぽを向いて走るはめに陥ったことを、「大和」の艦橋にいた宇垣纏中将は、こういってます。
「きわめて不運だった」

この宇垣中将の、レイテ戦の回想を読んでみたいと思うけれど、中将は終戦の日に沖縄に、特攻機を飛ばして自決してしまいましたから、それはかなわぬ夢。
畢竟、後の栗田司令部のあれこれは、小柳参謀長や大谷参謀の言葉によるしかありません。

で、二戦艦が雷跡を見つけて回避したのが、07:54。
重巡たちに突撃を命じてから、わずか24分後のことでした。
「大和」はそれ以後、ついにこの敵の姿を目にすることは、なかったそうです。無論、追撃戦に加わろうとしたのですが、スコールや敵の展張した煙幕のせいで、目視できなかったといいます。
その戦況を見ようとして、栗田長官は偵察機を飛ばします。

偵察機を飛ばす、なるほどと読み流してしまいますが、これってまさに一種の特攻と同じですよね。
いったん飛び上がったら、帰れない。近くには基地もなければ、味方の母艦がいるわけではないでしょうしね。

非情の命令ですし、必死の偵察になります。100%の死を覚悟したかも知れません。

カタパルトから飛び出してすぐに『敵針路、南東』を報告、そのまま消息を絶ったそうです。
「大和」は、その方向に電探射撃を行います。

そして二機目の偵察機も飛ばします。実はこれが大和の持ってる最後の偵察機だったのですが、この機はすぐに消息を絶ったそうです。
実はこのときは、敵の艦載機や陸上からの攻撃機が、わんわん飛び回って、必死で戦艦「金剛」「榛名」はじめ4隻の重巡戦隊の進撃を食い止めようとしてる最中ですからね。無防備な偵察機では、ひとたまりもなかったでしょう・・・・・

そっぽに向いて反れなかったら、こんな必要もあるいはなかったかもしれませんね。違う戦いがあったのかも。

このあと、かの重大な決定がなされたのですが、そのこととも微妙に関係している気がします。あの、北に走らされたことが。

そして、実はこのとき上空からは、敷島隊の特攻機が突っ込んでいたのです。それがまさにこの戦場だった。

関行男大尉率いる最初の神風特攻隊です。






タグ:偵察 煙幕 特攻
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2007年04月17日

戦艦二隻は真北に走る

今日読んだある本に、こんな記事がありました。

筆者の方が、かってレイテ島に慰霊の旅をされたときに、フィリピン人のガイドの方に質問されたそうです。

>「日本の観光客がたくさんセブ島に来るので、向こうに見えるレイテ島では、八万人もの日本の兵隊さんが戦死されたのですと説明しても、多くの人は黙祷するでもなく、ただ眺めているだけ。一体、日本の教育はどうなっているのですか?」

言葉を失いますね。・・・・・

中国人の口から、大岡昇平の「レイテ戦記」も読んでないのか?
お前らアホか、といわんばかりに歴史に無知であることを面罵されて、一言も返せない日本の若者をみて、涙が出たこと思い出しました。

言われたくないですね、外国の人に。
秘かに知性を疑われ、軽蔑の目でみられているかもしれない。


作家大岡昇平が、レイテを書いたことをきかれて、こんなことを言ってます。(大岡は輸送隊の補充兵としてレイテに行ってます)

>「われわれ兵隊仲間としては、弔うには、お墓に行って花束をささげる、涙を流すというようなことより、何かわたしとしては、戦場のことを書いて、その状況を再現するということ・・・・・」

「レイテ戦記」は文学ですけれど、戦史とか戦記とか書くことが、墓標に花束をささげる行為であるとすれば、それを読むこともまたささやかな花を手向けることになりはしないか?
もしかして、このブログでもシブヤン海に、白い菊を一輪捧げられたかと・・・・・・

10月25日の日出は06:27
(海軍用語では日の出のことは、ニッシュツ)
海峡を抜けるときは、千メートル間隔の単縦陣、抜けたらすぐ夜間接敵序列。いちいち陣形を組み替えるのですが、十隻でも大変で一時間半かかったそうです。そして日出一時間前には対空接敵序列すなわち輪形陣に・・・
各艦が「大和」を基準にして、ずっと輪になろうと動いていたときだそうです。南東はるか水平線すれすれに、飛行機がみえた。
そして、マストが、飛行甲板が、空母に飛行機が発着艦してるのが、次々に見えてきたわけですね。

「恨み重なる敵機動部隊を捕らえたのだから、ついに大願成就、レイテ突入なんか後回しにして、この敵に突っかけてゆくのは海軍軍人として当然」
小柳参謀長の述懐です。

「全力即時待機」(突撃用意)
「130度方向に変換」(各隊一斉130度方向に変針)
「展開方面110度」(味方艦隊の進むべき方向)

矢継ぎ早に下令。実際の「大和」艦橋の命令です。このほうが臨場感がありますよね。ちなみに、よく映画でも出てくる「○○度」ですけれど、コンパス、つまり羅針盤の目盛りの通りですから、0度を真北にして、ぐるっと360度時計回りに方向がすぐ分かりますね。
130度は南東よりやや東、その向きに回頭してから、戦闘進行方向は20度東に調整するというわけです。

この附近は、つねに東よりの貿易風が吹いているそうです。
ところで、空母というのは艦載機を発艦させるときには、必ず風に立つものだそうです。その方が艦も安定するし、飛行機は揚力が得られるからでしょうね。

だからこのとき、敵の空母は東を向いていたことになります。つまり、栗田艦隊はその風上に立とうとしたわけです。
陣形にこだわらず、攻撃に入ったのもただただ敵の逃げ足をおそれたからです。

第1戦隊、戦艦「大和」「長門」から撃ち始めます。
第3戦隊、戦艦「金剛」「榛名」がそれにならいます。

続いて、07:30栗田長官は、巡洋艦戦隊に「突撃」を下令。
すなわち、
第5戦隊、重巡「羽黒」「鳥海」
第8戦隊、重巡「熊野」「鈴谷」「利根」「筑摩」。
駆逐艦主体の2つの水雷戦隊は、「後より続行せよ」と命じます。

マッチ箱を射程外に逃がしたらこっちが危ないから、一気に砲力でつぶすために、大型艦の全速突撃したわけですね。

このやりかたは、艦隊対抗決戦展開(すごい名前?)という定石に外れてるのだそうです。水雷戦隊から突っ込むのが、海軍の伝統。
でも、定石にこだわるより、臨機応変のこの戦法でよかった気もしますね。
相手に高速で走り回られて、それを高速で追いかけ回したら、駆逐艦の燃料はすぐなくなる。そこまで、読んでいたらしいですから。
敵がまわりこんできてから、「全軍突撃」下命してます。


恐怖を誘う美しい水柱がたったとき、相手の空母群の司令官スプラーグ少将は戦史の中で、こういっています。
 「迅速な敵の接近は、ほどこす術がないほどであり、射撃の量と精度はますます増大しつつあった。このとき、我が隊の艦で、あと5分と残りうるものが、一隻でもあろうとは思えなかった。わが隊は、絶望的状況の中にあった」
5分以内に、全部沈められてしまう、そう思ったわけですね。


このときの砲撃で、各艦は日ごろの訓練の成果を発揮していたのですが・・・・・

「慎重に、非常に小さな散布界の(23メートル以内だったと)射弾を撃ち込んできたので、急速なジグザグ運動で回避できた」
つまり、もう少し腕が悪くて、弾がばらけていたらさけきれなかったことになります。

「でも、命中したことは、命中した。幸い日本軍は徹甲弾を使っていたので」
薄い鉄板をすっぽぬけて、炸裂しなかったのです。
じつは、相手が護送空母であったがために、砲弾の威力が強すぎて、いわば貫通銃創になってしまった。

わが戦艦「大和」は、前方の駆逐艦を射撃中に、右舷百度に雷跡を発見して、回避のために左へ変針します。それから、ほとんど真北へ走ります。後続の「長門」もつれて。
二隻の戦艦は右に4本、左に2本の魚雷に挟まれて、右にも左にも回避できずに、約10分間、雷跡が消えるまでひたすら北へ・・・
南に逃げる敵空母群とは反対の方向でした。

アメリカ側の戦史には、もっとも強力な戦艦「大和」「長門」は、しばらくあらぬ方向に、走ったため云々、と。

逃げることを、北に走るといいましたね、たしか。敗北の北。
またこの魚雷が、遅い魚雷でやり過ごすこともできなかった、と。

やっぱり天運は、すでに無かったのかもしれないですね。


前日に、猪口「武蔵」艦長がその遺書の中で心配していた射撃の腕のことですが、翌日のこの戦いの米軍側の記録によれば、それほど悪くなかったようです。むしろ砲手たちは、優れていたといって良いかも。彼らの名誉のためにも一言つけくわえたくなりました。

海戦のときというのは、敵艦も自艦も動き回るのですから、狙いをつけることの困難さは想像以上でしょう。それに対空火器ときては、変針しまくる艦の上から、飛び回るものを射つのですからね。

弾道学というのは高度の数学でしたが、何十キロも飛ぶ弾の空気抵抗、風向きや風速まで計算するとなると、・・・・大変です。







タグ:水平線 命中
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「敵の射撃は天然色映画だッ」

捷一号作戦のレイテ海戦で、「武蔵」を失った栗田艦隊はその後、サンベルナルディーノ海峡をするっとぬけて、レイテに向かいました。

実はこの作戦では、日本側では4つの艦隊が連携して、作戦行動をしていました。
アメリカ側も早くに、3つの艦隊が別々にレイテに向かってきていることは発見しています。

もっとも、米軍も日本艦隊がほんとうに出てくるとは、あの最初に「愛宕」「摩耶」を沈めた潜水艦の報告があるまでは、思っていなかったそうです。
栗田艦隊発見の報告があってから、索敵機を飛ばして見つけたわけです。スリガオ海峡に向かっってくる西村艦隊、後に続く志摩艦隊を。

ところで、日本側の作戦は栗田艦隊のレイテ湾突入の援護のために、小澤機動部隊が南下していました。有名な囮艦隊ですね。
ところが皮肉なことに、発見されることを願ってやきもきしてる小澤艦隊を、アメリカ側が見つけてくれなかった。
ハルゼーの機動部隊は、北方に小澤機動部隊が進んできていることを、考えもしなかった。
わざとらしいと怪しまれないように、でも見つかるようにと、通信量を増やしたりして、あれこれ苦心していたのに。
いつもは、なるべく秘かに行動する機動部隊が、少しでも早く発見されたい、しかも普段どうりにみせかけて。これ意外に難問だったみたいです。

実はこの囮作戦のことは、米軍は早くに知っていたといいますから、ちょっとややこしくなります。海軍の暗号はミッドウェイ海戦の前から解読されていましたし、スパイ網もあったのかもしれません。ただ、その作戦そのものを、ばかばかしいニセ情報だと、一笑に付してしまったらしいです。

まったく戦争の機微とでもいうか、事実は小説より奇なりとでもいうべきですか。

で、その結果、ハルゼー機動部隊の猛空襲が栗田艦隊に向けられ、「武蔵」が沈んだわけですね。
その後の展開から、小澤艦隊の成功と、栗田艦隊の失敗というのが、この作戦の一般的評価です。確かにそうなのですが、囮艦隊半分成功ぐらいかもしれないと勝手に思っています。悪いのは気づかなかった米艦隊のミスですから、小澤艦隊には落ち度はないですけれど。

あるできことから、もしやと気づいたハルゼーが、そこで向きを変えて全力で小澤艦隊を追いかけることになります。

栗田艦隊が海峡をするっとぬけたのは、そういうわけでした。
この間に、後に問題になった「通信」のあれこれがあるのですが・・・・・
とにかく、「大和」の艦橋ではまったく様子がわからず不思議だったようですね。急にまったく攻撃されなくなったことが。

そして、栗田艦隊では、前方に夢にまで見たアメリカの空母艦隊を発見します。天は我を見捨てなかったか、といったかどうかは分かりませんが、とにかくその気分でしょうね。幕僚の中に、涙を流して快哉を叫ぶものもいたそうですから。
レイテ突入という本来の任務は後回しにして、まず目の前の獲物から、というわけですね。好餌を前にした猟犬の群れに例えたら、栗田艦隊に失礼かな?

その一方で、米軍側の驚愕は想像以上のものになります。ハルゼーが破損艦の集団に過ぎないといっていた艦隊が、7時間のあいだ発見されずに240キロの海面を通過していたわけですからね。
のちに、米海軍内で大きな問題になりました。

栗田艦隊は、船体がまだ水平線下の距離から、砲火を開きます。

ところで日本の軍艦は各艦ごとに、水柱の色がちがうこと知ってますか?自艦の砲弾の弾着を、正確に知るための工夫ですね。

別々にきれいに着色された水柱が、自分たちのまわりに立ち始めたとき、多くのアメリカ軍水兵は自分の目も耳も信じられなかったそうです。

タイトルは、そのときの一水兵の叫び声でした。













タグ:事実 通信
posted by shuuin at 00:29| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月15日

航空母艦と戦艦、どっちが強い?

鮫と鰐、犀となんとか、どっちが強い?
バーチャルの世界で、流行っているようです。
そのひそみに習って、空母と戦艦ですがどうでしょうか?

昭和の戦争、つまり太平洋戦争が語られるとき、航空機の時代に大艦巨砲主義の日本は遅れていたといわれます。大艦巨砲には日清戦争以来の由来があるのですが、それはともかく航空機の時代を招来したのは、山本五十六でした。

さかのぼれば、二つの海軍軍縮条約のせいで日本の建艦が制限されてしまったことから始まってます。
それならと、海軍航空隊を育てて、マレー沖海戦で英の戦艦、巡洋艦を沈めた。それが逆に航空機の威力を世界中にしらせてしまったわけです。

で、航空母艦時代が到来します。最強なのは空母か?

実は、空母が強いのは、艦載機が守っていてこそなのですね。
空母自体には、いくつか弱点があります。

まず、飛行甲板があるために、防御兵器が著しく制限されます。つまり大砲や銃器が積めない。

さらに、オクタン価の高い航空燃料を大量に積み込むために、爆発の危険がさけられないのが、最大の泣きどころなのです。
あのマリアナ沖海戦で、小澤冶三郎中将の旗艦、新造の重防御空母「大鳳」が、たった1本の魚雷をうけて沈没したのがこれですね。
被雷の衝撃でわずかにもれたガソリンのガスが、後に大爆発をひき起こしてしまった。

それと、空母の命である飛行甲板は、たった一発の爆撃や砲撃で使えなくなることもある。とたんに発着艦のできない艦載機は、無きに等しいことに、これも空母の弱味です。飛行機なしではただの浮かぶ鉄の箱かも?

「大鳳」が重防御空母といわれたのは、飛行甲板を750ミリの厚さの鋼板にしたからですが、皮肉なことにその威力?を示すこともなく、三月あまりの短命に終わりました。
ただ、飛行甲板を強化できたのは、海軍国イギリスについで世界で二番目でしたから、日本の空母建造技術の高さは誇ってもいいかもしれません。空母に限らずこの造船技術こそが、戦後日本の復活の原動力になったのですから。

で、この数々の弱点を補うために、空母にはなにが備わっていたか?
それは足の速さでした。空母は見かけによらず、逃げ足が速かったともいえます。
重い飛行甲板をのせた「大鳳」でも、最大戦速33・3ノット出します。ちなみに、戦艦「大和」は27ノットですから、追いかけっこでは捕まえられませんね。
アメリカの制式空母も34ノットは出したといいます。

空母VS戦艦が一対一でもし戦ったら?
両者の距離が40キロ以内だったら、空母が50機の艦載機を飛ばして雷爆撃を敢行したとしても、まず戦艦が勝ちそうに思えます。

空母は海上の航空戦ではめっぽう強いけれど、砲戦になると水上戦闘では最弱だそうです。
戦艦、巡洋艦の射程内に入ったら空母はマッチ箱みたいなもんだ、と。鉄の箱どころじゃなかったですね。
だから、空母の戦い方は必然的にアウトレンジ戦法になるわけです。つまり、艦砲の届かない距離にいて、艦載機を飛ばす。

よく先のマリアナ沖海戦で、小澤司令長官がアウトレンジ戦法を取って失敗したと書いてありますが、第一機動艦隊はいちおう空母9隻が基幹ですからアウトレンジ戦法は当たり前?
ただ、この海戦は敵も空母ですから、あとは艦載機の航続距離の問題になる。日本の方が勝っていたから、少し遠くから飛ばしたということでしょうか。
ほかのいろんなファクターが絡み合って、戦運我に非ず、だったのですかね。


さっき40キロ以内といったのは、想定「大和」です。主砲は40キロまで届いたそうです。その上35キロまでは、見ながら射てたといいます。艦橋が高いから遠望がきくわけですね。

レイテに近づいたとき、栗田艦隊はいわゆるサマール沖海戦を戦ってますが、日本側が思っていたよりはるかに大きな戦果を上げかかっていたようです。艦隊の各艦は、さすがの砲撃の力をみせていたのですが、あまりに射撃の腕がよすぎた?、それと弾の威力が強すぎた?・・・・・・・
あの「武蔵」の猪口艦長が、最後まで心配してた射撃の錬度は、そんなに悪くなかったみたいです。








タグ:空母 造船
posted by shuuin at 19:13| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月13日

作戦計画

『昭和史の天皇』にもどって、読んでいたら、次のような文章にであった。

 >「だいたい作戦計画というものは、やったことのある人ならだ れしも経験することなんですが、はじめのうちは、自信もなく無 理だなあと思いながら手がけていたものが、計画がだんだん進む につれて、なんだか成功するような気持ちになってくるものなん です。そのうち確信になり、はては既定計画の修正をかたくなに 拒み、それを他人が検討することさえ、許さないようになりがち のものなんです」

うーん、あるある、まったくそのとうりだ、と頷きました。
これって現代でも、政治家や官僚たちはもとより会社でも、しょっちゅうあるのでは?

思い込みもこれですか?個人でも、恋の計画とかで(そんなものがあるかないか、とんと知りませんが)、やってませんかネ。

もしかして、ストーカーやその他の犯罪者も・・・・・
いや不謹慎な想像はおいといて、話を戻します。

これは、第十四方面軍作戦参謀だった田中少佐の言葉です。

14方面軍は、あのフィリピンで山下奉文司令長官が率いていました。
と、国民は記憶するのですが、その山下大将、田中少佐がマニラに着任したのがなんと19年10月6日だったのです。

すでに、9月21、22日にマニラは本格的空襲を受けています。
米軍のレイテ上陸まで何週間もなかったわけですね。
しかも、参謀長武藤章中将がスマトラから着任したのが10月20日の夜になります。
「わたしは、当時、レイテ島がどこにあるのか、その位置さえ知らなかった」これは、武藤中将の遺稿のなかの一節です。


はじめの、田中少佐の言葉は、こんな言葉の後に続くものでした。

 >「だからといって、地図の上で太い青線を引いて、それで強固 な防衛線ができたと考えた総軍参謀がいたとしたら、云々」
  (南方総軍は、方面軍の上にありました)

ま、上のほうの図面上の計画と、現場で実地に実行する側が抱える困難。これは計画と実践に宿命的についてまわるものかもしれません。まして、実践するのが実戦?ともなれば、洒落や冗談ですまない。生死にかかわるし、時には国の命運にもかかわるかもしれない・・・・・

いろいろ考えさせられますね。それにしても、知れば知るほど興趣が尽きません。
「日本人は歴史を知らない」と、他国から謗りや嘲笑を浴びせられてますが、知らないことを見越して付け込まれてることがたくさんあります。
この場合、歴史とは大東亜戦争とか太平洋戦争の時代をさしています。


ほんとうは日本の国民が、ひとりひとり昭和の歴史をもっと知ってほしいです。それを願ってささやかなブログ日記を書いています。










posted by shuuin at 19:27| ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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