2007年11月07日

三丁目の夕日の頃

行く川の流れのように、日月は休むことなく過ぎてゆきますね。

いろいろな事情で、放置しているうちに時代の空気もすっかり変わってきて?、なにやら昭和ブームが起こっているのかなという気がしています。

それがあの「三丁目の夕日」がきっかけだとしても、とくに若い世代の人たちが自分がまだ母親のお腹に宿る前、つまりは親たちの生きた時代を知りたいと思ったとしたら、とても自然で健全な感覚だと思うのです。
文学や歴史へのほんとうの入り口はそこから始まるのかも知れません。

過去を知りたいという感情は、生き物の中で多分人間だけが持つことのできるものでしょうね。
それは、自分のアイデンティティーを知ること、ひいては日本人であることを確認することにもつながってゆくかも?ナンテネ。


それはそれとして、映画「ALLWAYS三丁目の夕日」のこと。
続編上映にあわせて、先日テレビでやっていたのを、もう一度じっくりみてみました。

その昔ごく当たり前だったことが、失われかけるととても貴重に見えてくる、そんな感覚を味わいました。
人のぬくもり、人情味、日本人独特の優しさと連帯感・・・・・

今の人たちには、別に日本人だけじゃなくて、人間ならみな同じだろうという意識が強いでしょうから、誤解のないようにすこし説明します。

やはり長い歴史の間、一国一民族の今から振り返ると世界の中でも稀有の国民でしたから、そこからかもし出される同胞意識は知らないうちに日本人の中に流れていました。いわばそれが日本人の血、DNAでしたね。

「なにしろわれわれは草食人種だから・・・」というのは、明治以来いわれ続けてました。日本は「水穂の国」でしたから、いたるところに田んぼがありました。
動物でも肉食獣と草食獣は性質が違うといわれますが、日本人のやさしさは弱い草食動物の持つ天性のものだったのですね。
で、最近は食生活の変化から、欧米人に負けない獰猛なのもでてきたわけですか?

ま、余談はさておき日本人は本来やさしい人種だったんですね。気の弱い、控えめで疑うことをしない、思いやり深い民族。

いつだったか寅さんが、光男を探して九州の島についたとき、あのトランクを道端において、通りかかった自転車の駐在さんに、
「おい駐在、この島に泥棒はいるか?」
「いません」
「そうか」とかなんとか、トランク置きっぱなしですたすた歩き出すシーンがありましたが、島の人たちには悪人なんていないのです。
ちょっとおおげさに言いますと、かっての日本は全部がそんな感じの大きなひとつの島、いってみれば元をたどるとみんな身内みたいなもの。
どこの町内だって町ぐるみで全体家族、夕日を見てたのは三丁目の人たちだけじゃなかった。一丁目、二丁目、四丁目だって・・・・・・。


ところで、映画のことで細かいことをいくつか。
最初に気になったのは、あの路面電車のことなのですが、あの継電器はあのころあったかな?

戦前からの市街電車は、全国どこでもポール式だったはず。
まえにNHKで田辺聖子の「芋たこなんきん」という朝ドラで、CGで再現した戦前の大阪の町を、現行の継電器の市電が走っていて仰天したことがありました。
昔の表通りを再現するときに、路面電車はかかせないようだからとても気になってしまう。
あの「華麗なる一族」では、神戸の街の再現に上海ロケを敢行したようですが、ポール式の本物の市電が走っていました。
CGで再現するのは、比較的簡単なのでしょうが、要は時代考証の問題なのでしょう。それにしても、昭和にも本格的に時代考証が必要になったということに、感慨深いものがあります。

ほかには、とにかく全体的に汚しすぎ、穢くしすぎの印象。
服部時計店なんてもっときれいだった。
最初にこの映画を見たときに、これは敗戦の20年代からのごちゃ混ぜだなと感じた覚えがあります。
昭和33、34年といえば銀座はもっときれいで華やかだった。

横浜の町にはまだところどころで、戦後の傷跡が残っていましたが、さすがに東京はほとんどわからなくなっていました。
もともときれい好きの日本人ですから、10年もたたずに首都は復興していましたよ。それに何より、空気がきれいだった。
あの頃、空が広かった、というようなコピーがありますが、映像で表せないものに空気がありますね。

外車は走っていましたが、国産車はまだまだですから、とにかく空気がきれいでした。
それと、東京の街はとても緑が多かった。古い写真を見ると、公園はもとより空き地や人家の庭先や、街路に至るまで草花や樹木の多いことに驚くはずです。


映画のスタッフたちが、昔をセピア色にするのは、かれらの考える昔、古いものは穢くて汚れてて古ぼけてるという先入観から、あえて汚しているのでしょうが、ちょっとやりすぎ?

鈴木オートの三輪車が、ダイハツミゼットだなと思うのは年のせいですが、実はミゼットが発売されるのは実際は昭和34年10月ですから映画の設定とは1年ずれます。そんなこまかいことはどっちでもいいのですが、問題はあの車ボロにしすぎです。
貧しくて頑張ってる時代にしたのでしょうが、あのとき三輪車はぴかぴかの新車であったはず?


ところで、三丁目に住む懐かしい人々ですが、淳之介少年や一平君たちを除けば、あの町の人たちはみんな戦前生まれなんですね。
六子ちゃんが戦中生まれかな。言葉を変えれば、みんな戦前に教育を受けて、古き良き時代を知っている人たちなんです。
その記憶があるからこそ、終戦の何年かで未曾有の辛い経験を受けても、不死鳥のように生き返ったのですね。

人情も連帯感も、お互いが日本人だからという誇りと矜持をみんなが持っていたから、誰が言わなくても自然に発露されたものなのですね。日本人同士という根底にある信頼といったらいいのかな。


いずれにしても、あの頃の日本と日本人にもどれたら、どんなにいいだろうという夢を見させてくれるだけでも、いい映画なのかもしれません。

実は、続編を見るのが楽しみなのですが・・・・・
























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2007年08月25日

歴史の業

現在、北朝鮮の核軍備をめぐる問題が、日本の政治外交と安全保障のあらゆる局面に大きくかかわっていることは誰でも知っています。

北の核開発を可能にしたのは、ソ連つまりロシアですが、この共産主義国家群?に、結果的にですが日本が大きく貢献してたと知ると、歴史の業の深さに驚かされます。しかもその因果はいまも尾車のように、回り続けているのですから。


数日前、某紙の記事に「資源戦争」というのがありましたが、資源というとすぐに石油や天然ガスを思い浮かべますが、いま焦眉の急になっているのはレアメタル。かっては稀元素とよばれ、いまは希少金属ともいわれます。

地球上の資源というものは、均一に分布しているわけではなくて、かなり偏在しているために、そこからさまざまな悲喜劇が生まれているといっても過言ではないかもしれません。身近な石油からしてそうですね。

で、現在の「レアメタル危機」、資源の産出国が中国・ロシア・南アなどの一部の国に限られるとわかれば、危機の中身がどのようなものかおよそ想像がつきますね。
実は日本の最先端技術、そこから生まれる生産物のたいていの物に、さまざまなレアメタルが使われています。いや、アルミ缶のようなものさえ、マンガンがなければつくれないのですから、現代文明はレアメタルが欠けたら成り立たないし、日本はレアメタルの消費大国なのですね。


昭和を語る、このブログではこれ以上現代経済について触れることはやめますが、この稿の冒頭に触れた北朝鮮ですがここが意外に資源大国?なのですね。

なかでも、核開発に欠かせないウラン鉱石の産出国だったのです。
そして、その鉱山調査を手がけてかずかずの鉱山を発見したのが、日本軍部からウラン爆弾の開発依頼を受けた理化学研究所の研究員たちでした。

終戦まぎわに、日ソ条約を破棄してソ連が参戦しましたが、満州から朝鮮半島北部をいち早く確保したのも、日本が発見したこのウラン鉱山を手に入れるため。

アメリカで原爆を開発したとき、ソ連がいつ開発するかを予測しましたが、数ヵ月後から数十年後までさまざまな意見が出てまとまらなかったといいます。
が、意外に早くソ連が原爆を開発して、そこから東西冷戦時代に突入するわけですが、それを可能にしたのが豊富に入手できたウラン鉱石のおかげだったのです。

ウランを出す代わりに核の技術提供を受けて、後には北のミサイルが出来上がったということになります。

ところで日本の原爆研究が正式に依頼されたのは、昭和16年の4月頃だったとか。そこから、地質的に有望な朝鮮を基礎調査したわけだったのですね。

現代の資源戦争でも、外国のあちこちから国立国会図書館にこの65年前の調査資料を調べにくるそうです。その正確さと緻密さに評価が高いといわれると、誇らしいと同時に今の日本にとってはますます不利益がますわけですからほろ苦さも否めません。

理化学研究所と、後に京都大学も加わって、日本物理学の叡智を集めて研究がすすめられたのですが、それはまた別の機会に。













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2007年08月23日

サイパンから硫黄島へ

あの硫黄島が激戦の末に陥落したのは、昭和20年3月27日でした。

この間もB29による空爆は、連日のように日本各地を襲っていましたが、そのうちに傷ついたB29がバンホーを呼ばなくなったそうです。
米軍機は、海上ではなく硫黄島に不時着すればよくなったわけです。

日本側では、硫黄島の飛行場が使用可能になるのに1ヶ月かかるとよんでいました。ところが、陥落一週間後には、ハワイ、ブラウン、サイパンが硫黄島にさかんに電波を出していたそうです。そして輸送機らしきものがさかんに発着してる様子が、察知できた。そこで中央通信調査局では、陸軍に偵察を依頼しました。新司偵を飛ばして高度1万メートルから、硫黄島を空中撮影したところ事情が判明したそうです。

硫黄島には、千鳥・南の2本の滑走路がありましたが、どちらも1000メートルの短いものでした。大型爆撃機であるB29の発着には長さが足りないはずでした。ところが、米軍はこの二つをつないで一本にしてしまっていたことが判明します。
物量と機械力のアメリカ軍は、得意のブルドーザー作戦で、あっという間にやってのけたのかも知れません。当時、飛行場建設などは人力が主体の日本側の読みとは、大きく違っても仕方ないかも知れません・・・

かくて、B29の消える機体番号はすくなくなって、新しいのが増えるばかりで、一覧表の登録機数が600になったわけです。600機が入れ替わり立ち代り、面白がって?焼夷弾投下にやってくるのですから、警戒警報、空襲警報のサイレンが日本中で毎日鳴り響いていたわけです。その間にも、ロッキードとかカーチスといった艦載戦闘機が、列車や車や動くものを、どう考えても遊びとしか思えない銃撃を加えてくるのですから、警報が間に合わなかったり、国民も大変でしたね。

変なところでまた脱線しましたが、調査局のほうでは戦隊の400番台がサイパン、500番台がグアム、700番台がテニアンということまでわかってきました。
サイパン、テニヤン(たしかこう呼んでた?)は、ヤップなどと一緒に日本の委任統治領でしたね。マリアナ諸島でもグアムはアメリカ領。
これらの島が観光地になって遊びに行けるようになったとき、そこが日本爆撃のB29の基地だったと戦後に聞かされた世代は、どうしても遊びに行く気分にはなれなかったものです。まして、サイパンは玉砕の島ですしね。

「大変だ、敵は一夜にして周波数を変えた」
20年の7月下旬のある日、通信士が真っ青になって報告したといいます。それから二十四時間、聞き続けたらサイパンの新しい周波数をつきとめたそうです。
二十年、三十年のベテラン通信士がきけば、周波数を変えても、相手通信士のキイを叩く癖などで見破るそうです。すごいですね、熟練のちからは・・・・
そして、この新しい周波数のコールサインのなかに初めて600番台で機番号が一桁のものが、現れたのだそうです。
ひとつの戦隊なのに、数機しかいないとなるとやはり奇異な感じがしたでしょうね。後でそれが原爆投下部隊だと判明したわけです。


ところで、先ほど偵察に飛んだ新司偵ですが、百式司令部偵察機というのが制式呼称。三菱重工業が設計製造を担当した複座偵察機です。
九七式の後継機で百式、敵にも恐れられてかダイナというコードネームをもらってます。ちなみにニックネームは別に「写真屋ジョー」と。超高性能偵察機といわれ、海軍もしばしば借用して偵察任務に使ったとか。海軍にはたしか彩雲という艦上偵察機がありましたね。
強行偵察機ですから、速度だけが命。改良を重ねて1500馬力エンジンに換装したV型では、時速650キロをだします。
終戦まぎわの四型ではターボチャージャー装着で、高度一万メートルで巡航630キロ、傑出した高高度性能を発揮します。戦後米軍がアメリカ空軍の航空ガソリンで飛行実験したとき、時速689キロを記録したといわれます。
軍の要望で、三菱の技術者がエンジンの機械的性能向上のみで、スピードを獲得しようとした成果でした。
ちなみに、ガソリンのオクタン価を高めればより高性能を引き出せることは、とっくにわかっていました。
何しろ最初から石油がない戦いだったのですから、飛行機の飛べるぎりぎりの薄さで特攻機も飛んだわけですよね。それは開戦前からの日本の宿命でした。
いま、バイオ燃料でアルコールが騒がれますが、戦前からガソリンを薄めるためにアルコールが混ぜられて、車などには使われていましたから。

そうそう、百式司偵改三型防空戦闘機というのがあります。これが機銃を装備してB29の迎撃戦闘機の役目も果たしたのです。実はこれも、九州の航空基地が沖縄戦で消耗したために、東京防空の部隊が九州に転出したことによる穴埋めだったのですが・・・・・・・

それから、高度一万メートルから航空写真を撮ったのが日本光学のエーロニッコール、あの世界に名高いNIKONの日本光学です。
本来の航空撮影は高度にあわせた何種類ものレンズが必要なのですが、増産のために50mm、F5.6(高度一万メートル用)にしぼって、モーターで露出からフイルムの巻上げまでを行う全自動式にして納めたといいます。

硫黄島の上空一万メートルは、その距離しか取れなかったのですね。
でも、考えてみれば敵の制空圏の只中に一機で偵察するわけですから、やはり勇気のいる任務ではないでしょうか。






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2007年08月22日

硫黄島とB29

太平洋戦争末期のアメリカの爆撃機B29の動きを、逐一探知していたのは「陸軍中央通信調査部」だったと前にふれましたが、ちょっと通信情報の面がどうであったのか書いてみたくなりました。

現代の電子機器的な通信技術の発達した時代から見ると、もしかしたら歯牙にもかけずに見落としてしまいそうですが、なかなか興味深いものがあります。一言で言えばデジタルと、アナログの違いですか。
それだけに人間的なというか、ヒューマンファクターが占める領域が大きいというか、人間の技術、通信士の熟練度がものをいう時代だったような気がします。

で、上記の名前が防諜上の隠れ蓑で、本当は「大本営特殊情報部」。
たしかイギリスのMI5とかの本部は、民間のビルに民間会社名で運営されていたようですが、日本の場合はいかにも日本らしいというか、あまり隠れてるとも思えませんが?
たとえば、茨城県警の中に机があるけれど、正体は警視庁捜査1課の刑事だとでもいってるような?


終戦当時、この通信調査部には臨時雇用を含めて500人ほどいたといいます。理数系の学生も動員されて、全国から集められた二世が80人ほどいたそうです。ハワイなどにいた日系二世は、442部隊でヨーロッパ戦線で戦ったことは、戦後公開された“GO FOR BROKE”という映画で日本人は知りましたが、日本にもどっていた二世の人たちもいましたからね。とても協力的だったといわれています。米語を傍聴解読するのには、適任だったでしょうね。

本部は市谷台で、傍受所は田無、千葉の館山、白浜、三浦半島の三崎、兵庫県の小野など。一般情報も聞くけれども、暗号解読が主だったといいます。重要通信は当然暗号でしょうからね。でも時に緊急電は平文だったりして、通信傍受技術は地味なようですけどなかなか重要です。時には作戦や、艦船の運命を決めたり、もっと大きなものの死命を制すこともありそうですから。

ところでこの「通信」に関してはもともと陸海軍で、役割が分かれていたようです。通信情報蒐集は太平洋に基地と艦船持っている海軍の役目、陸軍の重点は暗号解読ということに。戦局とともに海軍が手足をもがれてゆくにつれて、陸軍が情報収集をせざるをえなくなったのが19年に入ってからとか。

アメリカの暗号はかなりむずかしかったそうですが、まだらにわかるだけでも、大まかな解読はできたといいます。
通信は作戦の根幹だといいますが、電波の複雑なやり取りを追跡することで、作戦がどこで動いているかがわかるそうです。
海上の艦船の出す電波を図上に記入してゆくと、蛇が獲物を呑み込んだように、ふくれたりしぼんだりして動いてくる、という表現に出会いましたが、目に浮かぶようによく分かりますね。
偽電をうったり、無線封鎖をしても、大きな作戦行動中は通信皆無というわけにはいかないでしょうしね。
米軍の、比島、沖縄上陸予定はこの方法で割り出したのだそうです。
やってくることがわかっても、心の準備をすることぐらいしかできなかったかもしれませんが・・・・・・・

B29が本土に来はじめたのは、19年の秋からだったといいます。
その頃は、基地とB29の交信は無線電話でナマでやっていたとか。その米兵のスラングがわからないから、二世に頼んだというわけでした。

サイパン島で日本軍が玉砕したのは昭和19年6月でしたが、このサイパン、テニアン、グアムなどのマリアナ諸島が、その後の米軍の日本本土爆撃の基地として使われたのでした。
このサイパン基地のコールサインの解読に、特攻機の犠牲が間接的に役立っていたなんて、ほとんどだれも知らないことかもしれません。
というのは、サイパンに大きな基地が作られるだろうと予想して、サイパンから出る電波に聞き耳を立てていたそうです。
「NPN5PPP」という変な信号、そしてしばらくしてまたNPN5のついた信号が・・・・・・
ふと海軍に問い合わせたら、まさにその電波の発信時刻に海軍特攻機がサイパンに攻撃をかけたが、全機帰還せずとの返事がきたといいます。
NPN5がサイパンの航空基地指令の記号とわかった、PPPは空襲警報発令。この後は同周波数に固定して、ハワイ方面からの輸送などの動きまで全部わかったそうです。

そのうちに、15V425、16V425・・・などがやたらに増えたそうですが、これがB29だったわけです。
15ヴィクター425が、第425戦隊15番機というわけ。
空襲して全弾投下して2分後には、必ず戦果報告を入れるそうですが、その内容も全部解読していたようです。

そんな具合にして、今日は何号機と何号機がいま飛び立ったまでは分かっていたわけですが、それだけでもレーダー基地に知らせれば気構えが違うから捕捉し易かったようです。

日本軍の迎撃が成功して敵が被害を受けると、ナマ文のモールスを発したそうです。「エンジン出火」・・・・「バンホーよこせ」。
バンホーとはB24改の救助用飛行艇だったとか。つまり、B29一機撃墜、調査局リストからその番号機は消えるわけです。

終戦まぎわには日本にやってくるB29の一覧表は600機をこえたと言います。

この稿のタイトルの硫黄島に、たどりつきませんでした。続きはまた明日書くことに致します。




posted by shuuin at 14:21| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月21日

カミカゼと核の恐怖

ご存知の方も多いでしょうが、ディスカバリーチャンネルというのがあります。多分アメリカの放送局なんでしょうが、時々現代史を扱ったりもします。

時期に合わせたのでしょうが、19日に「神風特攻隊 その時」というセミドキュメンタリーの番組をやっていました。
残念ながら初めから視たわけではないのですが、ちょっと聞き捨てならない表現がありました。

それにしても、今年は証言をもとに構成する番組が内外ともに目立ちました。なかには何で今頃そんな新たな証言なのか? と、疑問に思うものもありました。60年以上が経過して、関係者や当事者の多くがすでに物故されて、確かめようもなく反証もあげられなくなってからの証言・・・・・・
事件現場の目撃証言のあやふやさというのは、よく聞かされることですが、歴史の証言にもやはりそれがありそうで、鵜呑みにするわけにもいかないような気がしたりします。証言者の年齢やスタンスや、その後の人生や、思い込みやあるいはイデオロギーなどで変わってしまうのではないか?とか。

話がそれましたが、上記の番組では最後の特攻隊という呼び方で宇垣纏を扱ってましたが、多分作家城山三郎あたりの小説の史観。
宇垣中将を悪者にしておけばそれですむという、切り口でした。
「毀誉褒貶は時の運」という言葉がありますが、諦観か達観かはしらず死者たちはあの世で苦笑いをしているかもしれません。
それにしても、勝手な忖度をやめて、死者を悼むだけの史観というのは無理なのですかね。

ところで、聞き捨てならなかったのはアメリカ側の証言者たちの言葉のなかに、あの原爆は戦争終結のための最善の選択だった、という意見が定着していることでした。
戦後、戦果の乏しさから神風特攻をただの無駄死にだったという評価が日本に広まりました。一方で、米軍側はカミカゼを恐れていたということを、前にレイテ海戦のところで触れましたが、まさにその恐怖が原爆を落とす理由になったというのです。なぜなら、日本本土に上陸をしたら、日本人は最後の一人まで特攻精神で向かってくるはずだ、それでは自分たちの犠牲者が増えるだけだから、原爆を落として戦争を終わらせた、と。

そして、番組の締めくくりのナレーションはこういって終わりました。
「したがって、カミカゼはその後の世界を核の恐怖に突き落としたともいえるのです」

なんとこれでは、神風特攻隊が原爆を開発させ、原爆投下を引き起こし、その後の冷戦時代を導いて今に至ったのだということですか!

日本人の何人がこの番組を見たのかわかりませんけれど、かなり真面目な番組であるだけに、驚きます。

風が吹けば桶屋が儲かる式の論法?にしても、神風が核兵器を産んだなどという説が、そのうち世の定説にもなりかねない?
神風がいまアメリカの核の傘になって日本を守ってる、なんて冗談にもならない気がするのですが・・・・・


原爆つながりですが、ある番組で原爆投下の肯定論の是非を云々しているときに、あのいま売れっ子の石破元防衛庁長官が、「一発目はともかく、二発目の長崎は許せない」とおっしゃってました。ところであの二発はたしかそれぞれタイプの違う原爆だったはずですから、威力を確認して人体実験などの科学的データを蒐集するためには、二発セットで使う必要があったのですね。

そして三発目の目標は、やはり東京だったようです。もっともあの時点では三発目はまだ完成していなかったのですが、長崎の後で東京上空に飛来する原爆機を長崎投下の翌日だったかに探知しています。原爆担当機は、あらかじめ攻撃目標上空訓練を繰り返してから来ていましたから、もしなおも戦争が継続されていたら、三発目はおそらく東京だったはずですね。


ところで、昨日の書いた戦艦ミズーリ艦上での降伏文書調印式に、ソ連のなんとかいう中将が参加していましたが、各国武官は式後その日のうちに帰国したのですが、ソ連代表だけは後に残って北海道を欲しいという意思表示をしたといいます。これを、マッカーサーが一蹴したわけですが、この力関係の背景にあったのが原子爆弾の威力でした。
この時点で、ソ連はまだ原爆をもっていませんでしたから、ごり押しはできなかったということです。


日本人にとって、なんとも複雑な歴史の綾ですね・・・・・・












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2007年08月20日

戦後62年目の夏

まさに酷暑という言葉が、ぴったりの夏ですけれど、今年ほどテレビであの昭和の戦争が取り上げられたことは、最近ではなかったような気がします。

考えてみれば、去年の終戦記念日前後は、靖国神社の参拝問題一色でほかはかすんでいたのではなかったか?


とにかくさまざまな観点から、日本の戦後が終わってはいないという思いをあらためて深くしました。
それとともに、考えることの多さに頭の中だけで次々にあふれるものがありすぎると、筆ならぬキーボードに指が乗らないという悪い癖が始まります。かくて、空白の日記がしばらく続くはめになってしまいました。

今日は20日、あの八月では玉音放送を聞いてからまだたった五日しかたっていない日、でも人々は黙々と後片付けを始めていたのではなかったか。温和で節義のある日本人らしい国民性が、あのときほど自然に発露されたことはなかったかも知れない。
敗北を胸に畳み込みながらも、明日に向かって歩み始めた日本人。まだこのときは、これからやってくるアメリカ軍になにをされるかわからないという不安はすべての国民にあったのですが。


BSで、世界のドキュメンタリーをいくつか再放送していました。
その中の「マッカーサーが見た日本の降伏」というのみたときに、日本人って素晴らしいな、とあらためて往時の国民の姿に感動しました。
    
映像は、東京湾30キロ沖合いの戦艦ミズーリの艦上での、降伏文書調印の模様が主で、書物で知るさまざまな人物といっても軍人がほとんどですが、その実際の動作をみられる興趣はあります。家族の土産にするためにと、五本のペンで署名をするマッカーサーには、けれんみを感じましたが。

署名がすんだら、祝杯を挙げるためにさっさと引き揚げる連合軍首脳の態度には、外交官としての礼儀は欠如していたと感じましたが、降伏文書の調印などはあんなものなのかもれません。
シルクハットで正装した重光外相の姿が、かえって痛々しかった。大日本帝国の全権特使としての毅然としたたたずまい、署名欄を間違えてる公式文書を訂正させたのはさすがでした。

正式な登舷礼ではなかったみたいですが、一応水兵が敬礼して迎える間を義足の重光葵がステッキを頼りに歩を運ぶ姿に、あらためて朝鮮人のテロを思い出しました。
あれは確か第一次上海事変のとき、天長節の祝事を催してる日本軍の会場に、朝鮮人が仕掛けた爆弾事件でした。白川義則大将が亡くなり、重光は片脚を失ったのでした。


日本人が素晴らしいと感じたのは、ちょっと別のシーンでした。このドキュメントはフランスが製作したものでしたから、つけられてるナレーションにはおいおいそれはちょっと違うだろと思わせるものがあったのですが、背後に映っている終戦直後の東京の姿に驚きます。

この、調印式のあったのは昭和20年9月2日のことですから、瓦礫の街が写るのですが、その瓦礫がすでにまとめられて、東京の街はきれいに掃除されているように、すさんだ色など見せていないのです。
そこに行き交う人の、穏やかな表情やはにかんだような笑顔、質素でもきちっとした身なりなど。あれほどの被害を受けて、初めて敗北を喫した国民の姿としては驚嘆に値するほどの秩序と礼節が見て取れました。レンガの建物の壁を背に、もんぺ姿の若い女性が新聞を売っていましたが、活字に飢えていた往時の日本人が次々と求めてゆくのですが、その整然としていること。一人ずつが手に持った小銭を渡して流れるように、次から次に新聞を受け取ってゆく・・・・・
カメラはスナップのように、さまざまな光景を切ったのでしょうが、すでに都電が走っていました。そして、国鉄の車掌が制服制帽で出発の敬礼をしています。いつものように、・・・・・・・
敗戦何日か後でも、動かせるもの復旧できるものはすぐに元に戻してゆく。日本人の不屈の魂と底力を、あらためて見る思いがしました。

国民の教養の力、民度というものをあらためて考えさせられました。



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2007年08月09日

原爆機を探知して

残暑厳しい今日は長崎忌ですが、この日になると必ず思い出すのはあの「長崎の鐘」のメロディーです。
「こよなく晴れた青空を、悲しと思う切なさよ・・・・・・」
この歌いだしの文句が、条件反射のごとく頭の中に浮かび、声に出さずに口ずさんでいる自分が不思議です。きっと昭和に育まれた私の脳に、刷り込まれた記憶なのでしょう。

永井隆博士のことを思い出して、あらためてWEB上で調べてみましたが、今年はふと、あの遺児のご兄妹がどうされているかと気になってしまいました。幸せにご健在で、間もなく迎えるお盆にはご両親の昔を偲んで語り合われるといいな、そんな空想をしてしまいました。

余談ですが、長崎市のHPの中に、永井博士のことが要領よく書かれているサイトがありました。
昭和の時代に、こんな素晴らしい日本人がいた、それを知るだけでもきっと感動して、また勇気をもらえると思います。10代20代のみずみずしい感性を持った若い人たちに、ぜひ知って欲しい。
人間の尊厳とはなんなのか、生きて行くことの誇りを教えられるはずです。


ところで、日本の上空をB29がわがもの顔に悠々と飛んで、焼夷弾で絨毯爆撃をして、かれらのいわゆる「火攻め攻撃」焦土作戦を敢行してました。
いくら戦争末期とはいえ、そこまでやられっぱなしだったのは、このB29は高高度を飛ぶために、高射砲や通常の戦闘機が届かなかったからのようです。

では、探知はしてなかったかというと、探知はしていたんですね。
B29による本土空襲が始まって以来、その一機一機の番号を全部識別していました。今日はどこの誰が日本にやってきたか、どこで誰がケガをしたかまで、全部わかっていたそうです。

それを探知していたのが陸軍中央通信調査部、この名は創立当時の名称を看板にしていたまでで、本当は大本営中央特殊情報部でした。

で、原爆機とまではわからなくても、なにか通常のB29群とは別の特殊任務らしい単機が、しばしば日本本土の上空を飛ぶのをはやくから不審に思いマークしていたといいます。

そのうちに、広島に原爆が落とされてからは、異様に見えた特殊任務の実体がわかって、長崎の時にはいち早く警戒警報を発したそうです。

でも、原爆機が向かっているぞと直前に知らされても、どうすることもできませんね。長崎のときはですから、その情報を知らされた人々はもうすぐ原爆が落ちてくると知っていたことになりますね。
何かの役に立ったのでしょうか? かえって苦しみが早くきたかも知れないなどと、あらぬことを想像しました。


それにしても、長崎を最後の原爆被害都市にしたいというのは、ヒューマニズムの観点からは誰も異論がないことでしょう。
考えてみれば、イデオロギーとか政治とかは愚かしいものかもしれませんね。

核兵器保有国は、米、英、仏、露、中、これ安保理常任理事国ですね。(日本が常任理事国入りしたいなんて、大それた願望だったかもしれない?)それに印度、パキスタン。北朝鮮、イスラエル、イランが続いている。現実世界はこの十カ国で動かされるかも、というのは暑気あたりの真夏の悪夢で終わって欲しいものです。

ところで、B29のBはボーイングのことだとご存知ですか?
いま日本の空を飛ぶ旅客機はほとんどがボーイングですけれど、戦後に日本の航空業界が復活して、羽田に日本航空のボーイングが・・・・・
あの時、日本人の胸中をよぎった複雑な思いを知る人も少なくなったでしょうか?







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2007年08月07日

第一目標は京都

日本の八月は、まさに夏の盛りで暑さも自然の風物詩なのだけれど、昭和20年の夏はひときわ暑かったとよく言われます。


昨日は広島の原爆忌。テレビの前で黙祷を捧げることに、なにほどの意味があるかと問われれば言葉もありませんが、ひとには言わぬ自分だけの習慣になってしまいました。
そして明後日は長崎の日になります。

前にどこかに書きましたけれど、ルーズベルト大統領が進めた原爆開発計画、いわゆるマンハッタン計画ですがこれはもちろん極秘ですから知る人も限られる。ルーズベルトの死で大統領に昇格して実際に原爆投下に署名したトルーマンも、副大統領時代にはまったく知らされていなかったほどです。

原爆が完成したら、日本に対して使うということは、つとにケベック会議のときに決定していたそうですね。あのレイテで決戦をするというマッカーサーの意見を採用することを決めたカナダでの会議ですか。

こうして日本投下は、既定の事実としてことは進行したわけですね。

ところで、このマンハッタン計画には多くの亡命科学者たちが大きな役割を果たします。当時のヨーロッパの情勢と絡み合わせると、ドイツ、ハンガリー、ポーランドなどの研究者がアメリカに流れ込んだのも歴史の綾というしかない。その知識と技術を借りて、原爆が生まれたのも皮肉です。
後に彼らの一部が、予告なしの投下に反対の意見を出したことなども、政治的に既定の事実となってしまってるものを変える力はありませんでしたね。

原爆投下推進派の意見は、何より国民である米軍兵士の生命をこれ以上犠牲にしない、というこの一点でした。
ところで戦後も長く続いた公民権運動でもわかるとおり、当時のアメリカは人種差別の国でしたから、イエロージャップである日本国民の命などは眼中になかった人も少なくなかったのも、時代の背景として見逃してはいけないのではないか? 最近言われる戦争を早く終わらせるために、日本国民の生命を守ったのだという議論は、後からとってつけた政治的な発言のような気がします。反米論者とはなんのかかわりもありませんが、歴史をありのままに見ようとするとそう解釈せざるをえません。

私見ですが、最近の日本人は自らが黄色人種だと知らない人もいるようです。皮膚の色で、人種を差別しないことは素晴らしいことなのですが、さかのぼって歴史を見たり語ったりするときには、その時代の観点に立って事象を検証することが不可欠だと思います。
とりわけ近現代史において、いま決定的に抜け落ちてる視点がこのカラードということだと感じます。
例えば日露戦争や東郷平八郎の世界的評価なども、黄色人種を抜きに語れないように、西欧人の目にはイエローに見えていることを日本人は意識の隅においておくべきではないのかな?


話がそれましたが、原爆の投下目標ですが、それを決める目標委員会が設置されます。
最初の都市は、爆弾の威力を十分に示せる規模を持つこと、つまり日本人の意気を阻喪させる目的を果たすために、大被害が見込める都市ということです。軍事的性質を持つことと、これまでに爆撃の被害のない都市という条件がつけられます。


実は、製造責任者のグローブス少将の目標にはまず東京が上がります。東京はすでに大空襲の被害都市ですから、この場合は宮城を狙ったわけですが、元日本大使で国務長官代理グルーとスチムソン陸軍長官の話し合いで、天皇は日本の象徴以上の存在で、日本の再建にはなくてはならないとして反対されます。

そして、目標委員会が挙げたのが次の四つでした。

 小倉―最大の軍需工場がある。(八幡製鉄所など?)
 広島―軍港。
 新潟―日本海の要衝。
 京都―日本の旧首都。人口百万。

で、グローブス少将の第一目標は京都だったらしい。
「この爆弾の効果を最もよく点検できるし、京都には大きな工業地帯があるから」、と。

京都には舞鶴軍港があって、海軍工廠もありましたね。
この場合京都の人口に比例した人的被害効果を見ることが、大きな目標になってたことが、伺えます。

当時の日本人はアメリカはまだ歴史のない国といって文化面では蔑みましたが、実際、アメリカインディアンの遺産を別にすれば、建国百数十年の米国はきれいさっぱりというほど歴史遺産などない国。
千年の都の、古都の歴史遺産の価値などは、頭をかすめもしなかったのも無理はありません。

その京都を救ったのは、ひとつの偶然にすぎなかったかもしれません。
参謀総長マーシャルに報告する前に、スチムソン陸軍長官が目標計画を見たのは偶然。京都を第一目標とするグローブス少将の説明に、京都はダメだということを縷々語ったといいます。
京が日本の芸術と文化の中心であるという、長い歴史をあげて反対したと。スチムソン自身が知日家であったのか、あるいはグルーの話を聞いていたのか、興味深い気がします。

一方で、このスチムソンは原爆を日本に投下した後の、戦後の政治上、外交上の武器としての役割をすでに考えていたそうです。
そのためにも、アメリカとしては、あるいはイギリスはじめ自由主義陣営としては、原爆は日本に投下されなければならなかったわけですね。
その恐るべき威力を世界に示すための、実地試験場?として・・・・

さらに製造担当者たちには、20億ドル以上かけたマンハッタン計画の成果がもし使われずに戦争が終わってしまったら、議会でどれほどの追求を受けるか知れないという差し迫った理由があったのです。

あの頃の日本の都市は、B29が連日現れて、執拗な爆撃を加えられていました。B29というのは、幼児でも知ってる言葉でした。
その爆撃飛行団を指揮したルメイ少将の、「火攻め攻撃」の予定表では8月中には日本には都市はなくなり、9月には鉄道路線でも爆撃するしかなく、10月にはB29だけで戦争を終わらせることができることになっていたそうです。

グローブス少将の焦りは、そこにもあったのです。目標都市がなくならないうちに、一刻も早く原爆の投下を急がなければならない。

かくして、八月は悲劇の月になってしまったのですね。
小倉上空は、確か雲で視界が悪かったとか。長崎は小倉の代わりの目標になったわけです。
長崎も軍港でしたし、関東軍との間を断つために、本州西部の海港を狙えというマーシャル参謀総長の意見もあったようです。

ちなみに、グローブスに聞かれてルメイが挙げた原爆投下目標は、京都、広島、新潟の順だったそうです。スチムソンの反対がなかったら、金閣も銀閣も、清水寺も八坂神社も、渡月橋も祇園でさえもつまり京都に残る一切合財が消えてなくなっていたのですね・・・・・・・・


初期には日光が候補にされました。これは、未爆撃都市の中で人的被害を少なくして、爆弾の威力だけを示すというものでしたが。

当時、日光には皇太子時代の天皇陛下が学習院の生徒として、学友たちと一緒に、疎開しておられました。まさか、アメリカ側もそこまでは知らなかったでしょうが、東照宮でも狙うところだったのでしょうか?























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2007年07月28日

長い文章、短い文章

「元来、陸軍戦時所要の銃砲、弾薬、器具、器材、被服、糧秣等、各種軍需品整備の情況はその整備担任の部局を異にしていたため、ややもすれば跛行的となり、不経済施設や不適当な貯蔵があり、経済軍備建設の本旨には合せぬ欠陥があったのにかんがみ、さきに作戦資材整備会議という臨時機関を設置して調査是正をおこなったのであったが、将来、整備するものについてもその必要度と所要の資源や工程等を基礎として、事前の按排を適切にすることも必要であるので、この業務処理に任ずるため、前述の会議を廃して常設機関としたのがこの整備局である。」


いきなり引用をしましたが、目にされた方はあるいは驚かれたかもしれません。実はこの文章、これで一文なんですね。

それで、書物の中でこれを読んでいるときにはそれに気づきませんでした。
それどころか、すらすらとその内容が伝わって、理路整然とした過不足のない説明に感心していました。あらためて見直したら、それが一文だったのですね。一息にこれだけの中身を、もれなくダブルことなく書けるということは、やはりかなりの明晰さが必要でしょう。

ところで、いま売れている本でも、ブログでも長い文章はタブーではないでしょうか?
若い人に特にこの傾向が強いようですが、さまざまな理由が考えられますけど、メールとかコミックとかの影響もあるかも?などと想像しています。
脳の働きが短くなっているから、長文だと途中までいって最初のほうを忘れるからこんがらかって投げ出すんだ、という説がありますけどどうなんでしょう。

たしかに国語力の問題が絡んできますね。漢字の力を自在にもちいるから、視覚的にすっと意味がわかるということがあります。ぜんぶひらがなにしたら、よみにくいことかぎりなしになってしまいそうですからね。
説明すると長くなる内容を、二字か三字の熟語で表してしまえる利点もあります。熟語というのは、いまのカタカナの短縮語?みたいな便利な役割をしているのではないですか。

昭和前期の小学生の国語力は、現在とまったく比較にならないほどすごかったはずですね。そのことについてはまた、別の機会にふれるとして、一般に長文で書くことの利点は、文末の言葉が一つで済む。
これにひきかえ短文の場合は、「ですます」調で書いてると、「です。」をやたらに繰り返さないといけない。「である。」にしても同じです。語尾の反復がなんとも気になります。少しずつ言い方変えたり、体言止めにしてみたりして・・・・・・・
それと、接続詞も増えてしまうでしょうしね。
短文と長文と、どちらを選ぶかはやはり難しいですね。

ところで、はじめの引用文ですが、この文章の前には次の一文がはいります。
 「整備局というのはまだ成立間もない局であった。・・・・・」

これは陸軍省整備局の成立の経緯を、後世の人にわかりやすく説明したものだったのですね。筆者はあの小磯國昭で、その回想録「葛山鴻爪」のなかで、整備局長になったときのことのを、述べるときの一文でした。別に名文でもなんでもない普通の文章ですが、形容詞などひとつも使わず一気にこれだけの要約をさらりとメモした例は、もしかしたら珍しいかもしれません。

小磯については、終戦まぎわに東條英機の後継に指名された8ヶ月間の評価が、後世に伝わるすべてのようです。

ところでこの回想録は、戦後に小磯が戦犯として巣鴨に拘置されていたときに、獄中で書きとめられたものでした。
かれらは何かを書き残すことを許されなかったとかで、これらは配られた裁判の経過報告書か何かの紙の裏に、ちびた鉛筆で書き残されたものだったのです。

そのことを考え合わせると、辞書も参考資料もなく、己の記憶だけで後世に資料を残そうとした六十半ばの小磯國昭の文章力に、端倪すべからざるものを感じてしまいました。

「合せぬ(合致しない、あわない)」などという文語的な表現も、あの頃の日本人にはすっと通じたのですね。
前半のくだり、現代の役所の欠陥にそっくり当てはまるので、思わず苦笑しました。

小磯は戦後、生まれ故郷山形の村のひとつで、村長として暮らすつもりだったようですね。ところが、A級戦犯に指名されて呼び出されて巣鴨プリズンに収容、いわゆる東京裁判で無期禁固になりそこで病を得て獄死します。

ふと思ったのは、すでに長く予備役にあった老将軍が、あそこで首班に駆り出されなかったとしたら、当然A級は免れたでしょうね。

実はあのとき首班第1候補は、南方総軍の寺内寿一大将でしたが、戦況すでに末期状態。総軍司令官を呼び戻すわけにはゆかず、二番手の小磯にお鉢がまわったわけでした。
ところでその寺内は、マニラの刑務所で戦犯裁判の前に病死しました。

小磯大将を首班に押したのが、元老平沼騏一郎でした。いまの平沼赳夫衆議院議員の義理の父親、ってこれ関係ないか?









posted by shuuin at 15:58| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月24日

日本の遺産

中越沖地震の原発被害の陰に隠れてしまっていたが、リケンの柏崎工場が地震災害にあったことにも、実は秘かに心を痛めていました。

昭和に生をうけて人生の大半を昭和とともにすごした人間には、リケンという言葉を聞いただけで、ある種の感慨を覚えてしまいます。

現実のニュースでは、トヨタが生産ラインをストップした、その他の日本の自動車メーカーのほとんどが操業停止のやむなきに至った、という報道でなにか大事な部品工場だったのかな? 
マスコミも世間もただそれだけで、もはや忘れてしまったようです。

でも、地方の一工場の被害で日本の自動車工業のほとんどが生産停止するというのは、やはりいろんな意味ですごい出来事かもしれません。
危機管理とか、被害分散とか代替とか、生産様式にかかわるメーカー側の教訓は別にして、ここではリケンの唯一無二の技術力とか信頼性にあらためて敬服します。それと同時に、やはり伝統の力というか過去から伝承された遺産の大いさを感じます。
だって、世界のトヨタが車の心臓部ともいえるエンジンの特定部品調達を、100パーセント一社の一工場に任せるというのは異例?

このリケンという会社は昭和とともに生まれて、戦前戦中戦後と昭和の歴史そのままに生き続けて、現在に至っているんですね。

(株)リケンというのは、戦後も昭和54年になって商号を変えたわけで、それまでは常に会社名に含まれるのは理研の二文字。
つまりは、あの「理化学研究所」を淵源にする数多の理研グループの一社です。

理化学研究所自体は、あのタカジャースターゼで有名な高峰譲吉が提唱して、財界人渋沢栄一などが賛同して生まれた日本の自然科学研究所。
今で言えば、世界的なシンクタンクというか、とにかく財団法人組織ですから、寄付を集めて営利目的ではなく、科学研究第一に日本と日本人のために、むしろ人類のために貢献したユニークな研究所でした。
昔の日本人は偉かったなあと、つくづく思わされます。

そこで研究した綺羅星のような人たち、その残した世界的な業績のかずかず、そしてそこから生まれていまに続くかずかずの技術や企業。

今度の地震で被害を受けたリケンは、そうした遺産のひとつだったわけです。

自動車に限らずレシプロエンジンのシリンダ内を動くピストンに、ピストンリングがついている事は誰でも知ってますが、そのリングの画期的製造方法を発明したのが理化学研究所大河内研究室の海老原博士でした。(こういう研究室が、たくさんあったんですね。仁科芳雄研究室とか・・・)その発明は各国で特許をとりましたが、それが大正15年、つまり12月には昭和元年になった年。

で、翌2年に発明を企業化するための理化学興業(株)が設立されて、日本で初めて実用ピストンリングが製造されます。地震被害にあった柏崎工場は昭和7年に造られました。
昭和9年には、柏崎工場だけを切り離して理研ピストンリング株式会社になります。つまりピストンリング専門で、一本立ちするまでに成長したわけです。ちょうど岡田啓介内閣のできた年です。

そして昭和13年には、理研特殊鉄鋼(株)と合併して理研重工業(株)と改称されます。
この流れに、ずばり昭和の歴史が感じられます。

当時、日本の工業は軽工業中心のでしたが、重工業化がいわれそれが具体化し始めたのがこの頃。近衛内閣の産業五ヶ年計画がはじまり、日華事変が深みにはまりかけた時代にあたります。

昭和14年には、埼玉県熊谷市に自動車と航空機用のピストンリング工場を建設。これなどは、民需より軍需に応じたためかもしれません。
この頃には、産業物資動員計画が動き始めていましたからね。

ところで、理化学研究所が生んだ諸企業はこの頃には理研コンツエルン(会社数62、121工場)と呼ばれるまでに大成長していました。
理化学研究所の各研究室の、各分野の成果をそれぞれ企業化したらこうなったわけですから、いかにすごい叡智が収斂されていて、たくさんの研究成果を産み出していたかわかります。

昭和16年には、理研重工業はコンツエルンの他の6社と合併して理研工業(株)となって、全国に26工場を稼動します。
17年になっても電気炉によるピストンリング製造に成功していますから、大戦が始まっても研究開発は続いていたわけですね。
ピストンリングは、航空機や自動車のエンジンに欠かせないわけですから、理研に対する軍需工業などからの期待と注文はかなりのものがあったでしょう。

昭和20年の終戦で、すべての工場は生産中止。


でも産業がすべてストップしたら日本は消滅しますから、占領米軍の司令部GHQが許可した平和産業と呼ぶものだけが、再開を命じられます。そうです、軍事転用が可能な航空機の製造はその後長く禁じられてしまいます。

理研工業も、自動車用ピストンリングの鋳造品と農機具の製造だけに限って許可がおりて、昭和24年に復活。

その後も、いろいろと戦後経済、産業の波がありますが、脈々と理研魂?は続いて今の、柏崎工場があるのですね。

いま、騒がれているのはおそらくリフロン材のリングシールのことではないか、と思いますが・・・・・
従来のピストンリングなら、代替品はいくらでもありそうですから。

ところで、柏崎工場は早くも再開にこぎつけたようですね。何はともあれ、よかったです。日本のためにも、日本の国民のためにも・・・・・・

先人の遺産を大切に、それがあるからこそ物づくりができるし、新しい技術も生まれるのでしょうから。
コンピューターが何かを生み出すわけではない。それはただのツールに過ぎないわけで、営々とした日本の技術の伝承こそが、本当の日本の宝物・遺産だとしみじみ思います。








posted by shuuin at 19:08| 🌁| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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