2007年07月17日

電力戦国時代

いま年金問題で議論が沸騰してますが、その所轄の厚生労働省は誰でも知ってるように厚生省と労働省が一緒になったもの。ところでその厚生省ができたのが、昭和12年だといったら意外な顔をする人がいます。
近衛内閣の閣議で決まったのが、盧溝橋事件の2日後だったというと、二度びっくり?この成立に関しても面白い話があるのですが、それはまた別のところで。

思いがけない地震災害で、今朝も原発のことで東京電力が大臣からお叱りを受けたとかの報道がありました。
自然災害でも叱られる電力会社ですが、いまの日本のインフラの基幹のひとつである電力会社が、実は昭和12年の「電力国家管理法」によって生まれたということに、触れておきたくなりました。

この法律は、このあとの日本の戦争の歴史などから、いわゆる国家権力による統制、軍事統制と十把一絡げにされているようです。

けれども、よくよくその経緯をみるとことはそれほど単純ではなく、むしろよくそこまでやってくれたと感謝したいほどです。
その遺産があったからこそ、日本の戦後復興が可能だったし、いまの日本の電力事情があるのだな、そう気づかされます。

成立したのは近衛内閣でしたが、これほどの大事業が一朝一夕で決まるはずもありません。実は、あの二二六事件で倒れた岡田啓介内閣にすべての鍵があったのですね。
岡田内閣といえば、二二六関連でしか語られませんし、その事跡についても問題や事件はともかくこれといった印象がありませんでした。
ところが、この内閣のときにできた「内閣調査局」という役所が、なんともすごいことをたくさんやってます。
先の厚生省が生まれたのも、この調査局からだったのですね。
その遺産の中には、戦後に花開いたものもいっぱいあるのですが、いまあらためて進行中のものもたくさんあります。そして電力の国家統制の必要性をあらためて示したのもここでした。


「統制」という言葉から、つい連想するのは物価統制とか統制経済とか、とにかく上からなにか締め付けられるイメージですか。言葉の与える印象というものがもしあるとするなら、あまり良いものではなようです。われわれには、ある種の言葉に持つ先入観があるのかも知れません。

ところでこの「統制」という言葉、もともとは陸軍用語だったんですね。
ほかにも「構築」なども陸軍の言葉、陣地構築などからきています。
さっきも、ギャルみたいな女子アナが、なんとかを構築する云々とニュースを伝えているのを視て、ふき出しそうになりました。なにもわざわざそんな言葉を使わなくても、ほかにいくらでも言葉があるだろうにと。ところが、ネットでもウェブ構築とかLAN構築とかよくつかわれてますね。日本陸軍も何かを残してくれている?

あれあれ、また脱線しました。話を線路に戻します。

電力国営案自体は、明治40年にあの後藤新平が、「水資源は一会社が私有するのではなく、国全体、国民全体のものでなくてはならん」といってから、何度か取り上げられていました。ただ、誰も正面から取り上げたことがなかったそうです。当時は水力発電が主力ですが、水源地を私有する企業が水利権を持っていたのですね。
それを、岡田内閣で初めて本格調査に乗り出したわけです。

昭和10年当時の日本はすごいですよ、もう開けてびっくり玉手箱状態。電力会社は、株式会社組織だけで650社以上あったのですから、まさに電力戦国時代で群雄割拠してました?
電気料金は会社のコストによって違うから、地域によってまるでばらばらだった。

庶民が家庭で使う電球(十六燭光って暗そう?)だけでも、百種類以上あって会社ごとに違っていたといいます。
工場の動力も会社ごとに差があったのでは、困りますね?

五大電力*の間では、送電線もダブっていたそうですからひどい二重投資。そりゃ鉄塔や電柱をそれぞれ建てたのでは、ムダどころの話じゃないですね。家庭の軒に何本も引込み線があって、それぞれにメーターがついていた、なんて話はまさにハナシです。

内閣調査局の調査官によってこういう実態が、はっきりしたわけです。
おまけに、政党を通じての供給区域や水利権の争奪戦があることも、はっきりしたとか?
二二六事件を起こしたのは、政党政治への憤りだったという見方をふっと思い出します。

あまりに自由奔放になりすぎた、つまり乱れたものを統制が取れたものにする。言葉の本来の意味の「統制」、それがこのときの「電力国家管理法」案だったわけですね。


その遺産を受けて、いま私たちが日本中どこでも同じような料金やサービスや安心を、当たり前のように享受できているのだなと、あらためて気付かされました。

いろいろなところで、昭和は脈々と生きているのですね。


* 五大電力というのは、関東では東京電灯(いまの東京電力)、名古屋から阪神にかけて東邦、大同、宇治川電気、日電がしのぎを削っていました。巨大な資本力の数社が、同一地盤で顧客の争奪戦を演じたわけで、いまのいわゆる公共事業的性格は、皆無に等しかったようです。











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2007年07月14日

河川用砲艦?


いま台風4号が日本列島来襲中ですが、70年前の上海で中国軍が攻撃を開始した日も、台風の強風が吹いていたそうです。

黄浦江にいた軍艦「出雲」のことをちょっと調べていたら、面白いことがいくつか・・・・・

上海事変のときのどこにも、軍艦と記されていますが、戦艦とか巡洋艦といった艦種が書かれていません。

もともと「出雲」は大正年間に就役(1900年)した出雲型の一番艦、1万トンにもみたない軍艦でした。
1904年に始まったあの日露戦争には新鋭艦で、蔚山沖海戦、日本海海戦に参加、第一次大戦では遣米派遣艦隊の旗艦を勤めています。
で、1921年に一等巡洋艦に類別されますが、10年後の1931年には海防艦になっています。

ですから、上海事変の時には艦齢37年の老朽の海防艦。でも、れっきとした軍艦でした。

そしてこの「出雲」が、8月14日に中国魚雷艇に攻撃を受けていました。

先に中国軍は、上海の日本租界を爆撃したといいましたが、ちなみにこれは航空戦の最初でした。これも14日。

つまり蒋介石軍は、13日の集結の速かったことといい、戦闘開始と同時に陸海(河ですが)空の三軍で作戦行動をとったことといい、いかに周到に戦争準備されていたかを知ると、舌を巻かざるをえません。


ところで攻撃を受けた「出雲」ですが、ほかの河川用砲艦とともに、敵の魚雷艇を撃退したとありました。

揚子江には河川用砲艦が来ていたようですね。このときの艦名がわかりませんでしたが、終戦時に上海にいて中国軍に接収された砲艦「熱海」がこれかもしれません?
ちなみに「熱海」は「鳥江」と改名されて中国艦に・・・・・・


河川用砲艦「熱海」ですが、全長46M余、全幅7M弱、294トンの細長い艦。特徴は1,13Mという吃水の浅さですか。これならたいていの河川を遡行できそうです。1200馬力で、16ノット、小さいながら高角砲1基、機銃5基を積んでいます。乗員54名。

それでこの砲艦は歴とした軍艦なんですね。
前にこのブログのどこかで、駆逐艦は軍艦ではなかったと書いた覚えがありますが、潜水艦も同様です。これらはみな艦艇の部類、いってみれば、SHIPとBOATのちがいですか?

軍艦は艦首に菊の御紋章がついていました。艦艇にはそれがつかない。
したがって軍艦の艦長は大佐ですが、駆逐艦、潜水艦はたいてい少佐艦長です。ちなみに、昭和18年に軍令部の命を受けて、決死の訪独航をした伊8潜の艦長は内野大佐でしたが、これは役目柄の例外?

で、御紋章をつけた河川用砲艦の艦長は、艦長を歴任した大佐昇進目前の中佐でよいということになっていたようです。
ほかに給油艦、給炭艦、特設艦の艦長などに、大佐艦長が多いわけもこれでわかりますね。
つまり海軍では戦艦、巡洋艦、空母だけでなく、これら補給艦の格付けも高かったということになりますか。

東郷元帥の子息は、戦闘艦の指揮はとれなかったはずでしたが、たしか特設艦の大佐艦長だったと記憶しています。
孫の東郷中尉が「摩耶」で戦死したことは前に書きましたが、息子はどうだったのかと、前に調べたことを思い出しました。

大河川のある国の戦闘には、どこでもこのGUNBOAT(砲艦)が活躍したようですね。大河沿いの各都市の連絡通信とか、いわゆる奥地でのもろもろに・・・・・・

それにしても、出来事の枝葉の部分をたどってゆくときりがありません。歴史って、歴史好きにとってシャングリラなのかラビリンスなのか?

どなたか教えていただけませんか?



ラベル:出雲 揚子江
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2007年07月13日

続上海陸戦隊

近衛内閣の閣議決定で、陸軍の派兵をとりつけた米内光政ですが、陸軍の到着には時間がかかりそうです。
米内は、陸軍の到着までは武力発動をせずに時間を稼げ、と打電させます。

8月11日の朝、午前10時過ぎに商務印書館の建物から、中国兵が発砲し始めました。しかし大川内少将は、訓電にしたがって応戦を禁止します。
午後5時ごろに、突然近くで地雷が爆発して、あたりの三つの橋が破壊され、それを合図に中国軍の攻撃が開始されました。

2000名の中国軍に応戦したのは、上特陸の第六中隊と第五中隊でした。終夜、全線に渡って、つまりまわり中から攻撃を受けたといいます。翌日も戦闘は続き、中国軍は航空機による爆撃も加えましたから、双方の避難民にも命中して、パニック状態。

日本陸軍の上海到着前に陸戦隊を壊滅させようとして、まさに大軍で執拗な攻撃をくわえる中国軍に、上特は一時全滅の危機に瀕しながら陸戦隊魂で戦い抜いたようです。
それを支えたのが、水雷戦隊や駆逐隊の陸戦隊、つまり駆逐艦などに乗り組んでいる陸戦隊でした。日の丸ならぬ軍艦旗のもとに、仲間と在留邦人を救おうと、なんだかてんでんばらばらという感じでの集まり方をしています。
一刻も早く、いけるものから翔んでゆく、おっとり刀とでもいう気配が到着日時からもうかがえます。


包囲する側は入れ替わり立ち代りでしょうが、少人数の方は不眠不休になるのはいまも昔もかわらない。そのうえに上海は、英、米、独、ソ、日本などの共同租界とフランス租界がある中での市街戦ですから、各国の権益を冒さないよう神経を使います。
いわば世界の見物?のなかでの、困難な守戦だったのですね。

蒋介石は、日本軍が攻めてきたから「自衛戦争をする」と宣言をします。これを受けて日本政府は、8月17日の閣議で不拡大方針の放棄を決議しましたが、基本方針はなお不拡大だったようです。
政府も軍中央も、本当の日本の国力の実態を知っていた訳ですからね。

上海事変そのものは、陸軍部隊の準備が整って総攻撃に移った10月27日までかかりました。約3ヶ月・・・・・・



戦死者の数は極秘だったといいますが、陸戦隊の被害も相当だったようです。


先にふれた第三艦隊の旗艦「出雲」ですが、12年7月7日に旗艦になっていました。まさに、盧溝橋事件が勃発した日です。しかも第三艦隊は、軍令部直属で軍艦はほかに給油艦が1隻、つまりは事件の勃発で急遽警戒のためにつくった艦隊のようです。第三艦隊というのは、前にも変事に際して臨時に編成されたことがありましたから。
要するにこの時点では、海軍には支那派遣艦隊も何もなかった。支那方面軍というのができたのも、上海事変が起こってからでした。

盧溝橋事件で支那事変(いま日中戦争)をはじめているとしたら、閣議で派兵を云々するのはそもそもおかしいわけですしね。

つまり日本側には、中国と戦争する気はやはりなかったのでは?

この時点で、戦争の準備を万端整えて、戦争を仕掛けたかったのは本当は誰だったのか? ふと考えてしまいました。
いろいろな、状況証拠から浮かび上がるのは、いまの歴史にいわれていることとはまったく別の人物なのですが?







ラベル:状況証拠 閣議
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2007年07月12日

上海事変と陸戦隊

昭和12年の世相はというと、たとえば映画や流行歌を取ってみても、まだまだそれほど世の中が暗く緊迫していたとは思えない。

ディック・ミネの「人生の並木道」とか、淡谷のり子の「別れのブルース」などもこの年でした。
帝国劇場や日比谷映画、日劇などにかかるハリウッドやフランスの名画も賑やかだし、日本映画も多士済々、まだまだ古き良き昭和初期の香りを十分に漂わせていました。

いまも健在のサントリーの角瓶が、洋酒の壽屋から発売されて一世を風靡するのも、この年からです。

朝日新聞社の訪欧機「神風号」が、東京の立川飛行場を4月6日に発って、94時間17分の世界新記録を樹立してロンドンに到着。昭和はまだまだ華麗で元気でした。

ところで目を満州国の南に接する北支に向けると、支那駐屯軍が北平(北京)の中国軍を追い払ったのが7月28日〜30日の3日間。
その29日に通州で3000人の保安隊と中国軍が、在留邦人と朝鮮人260人を惨殺しました。いわゆる通州事件です。

事件は外交問題として、中国側の謝罪と賠償金で結着します。

しかし8月9日の時点では、揚子江流域に居留する日本人約3万人が、身の危険を感じて上海に引き揚げてきました。
その同じ日に、海軍の上海特別陸戦隊第1中隊長大山勇夫中尉と斉藤与蔵1等水兵が、上海市保安総団員に襲撃されて殺害されるという事件が突発します。

二人は虹橋飛行場のすぐそばを、車で走行中でした。中尉は拳銃も携行せず、運転していた一水は肩につるしたホルスターに拳銃を納めたままの姿で発見されました。おそらくいきなり、問答無用で射殺されたのでしょう。

ちなみに虹口(ホンキュウ)一体が、かねてから上海にあった各国の共同租界のうち日本租界があったところで、日本人がたくさん住んでいました。19世紀の半ばから長崎上海間には上海航路があって交流が盛んでしたから、新鮮な魚や野菜を長崎から運んで、町並みも当時の長崎の市街と同じで、日本人たちは内地にいるのと変わらぬ生活をしていたといいます。

北支で盧溝橋事変が起こったとはいえ、急にあたりで不穏な空気が漂い、こんな事件が起こったのですから驚いたでしょうね。自分たちが外地にいることを、痛感したことでしょう。


軍令部は激怒しますが、偶発的な事件とみなして隠忍自重、責任者の謝罪と処罰を要求しました。
日本側の要求に対して、蒋介石は逆に強硬な態度に出て、8月11日呉淞江口を閉鎖、中国第九集団軍に上海包囲態勢を命じます。つまりはっきりと臨戦体制をとったのです。その午前6時には、もう集団軍の総司令部が到着しています(異例の速さ?)。そしてあっという間に中国軍の総兵力は3万人に達して、上海を半円形に包囲します。反対側は海のような黄浦江ですから、これで上海は完全包囲ですね。

一方で、上海を守備する日本側には陸軍部隊はいません。もともと上海の共同租界の守備ですから、海港だから海軍がというわけで、大川内伝七海軍少将指揮の上海特別陸戦隊2300人、漢口特別陸戦隊300人がいただけでした。
急を聞いてあとから、海軍の各基地から陸戦隊が駆けつけます。
呉鎮守府第二特陸539名、佐世保鎮守府特陸539名、軍艦「出雲」陸戦隊200名、第11陸戦隊200名。それでも総勢4千人ちょっと。

人数が少ないとはいいながら、シャン特の危機にかけつける各地陸戦隊の急行ぶりに、いじらしささえ感じてしまいます。

北支の万一に備えて,青島に向かうはずの軽巡「木曽」が、呉一特陸、横一特陸(横須賀鎮守府)を載せて急遽変針して上海に向かったとき、24ノットの第二戦速で二十四時間ぶっ続けで駆けつけたとか。
日本海軍始まって以来の、出来事だったといいます。

これより先、黄浦江にいた第三艦隊司令長官長谷川清中将は、「此ノ際、速カニ陸軍派兵ノ促進緊要ナリト認ム」と、緊急電を旗艦「出雲」から東京に送ってます。それが8月12日夕刻。
電報を受けた米内光政海相が、四相会議に陸軍の上海派兵を要請します。翌13日朝の閣議で決定しますが、陸軍は海軍とは違って動員をかけても準備が要ります。現地に到着するのは早くても20日後・・・・











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2007年07月09日

北支事変と支那事変

盧溝橋事件から支那事変が始まったと、簡単に言いましたけれど、事件が突発したのが、何度も言うように七夕の夜。

事件そのものは、日本側の懸命な不拡大調停交渉で、7月11日午後に双方が撤退することで合意ができます。

ところでこのときはすでに、中国側は全土で抗日の指令が行き渡っていましたし、コミンテルンでの排日抗戦の指令がすでに出ていました。この変化を、知らないのは日本側ばかり?

シナ通といわれた軍人や外交官たちも、自分の知ってる中国人から全中国人を見てしまう。「人は自分の見たいものだけを見るものだ」という言葉は、ここでも当てはまるのかもしれません。
これは、わたしたちもしばしば、知らず知らずにやっているかもしれませんね。


蒋介石の南京政府がそのいわゆる中央軍を北上させて、華北奪還の姿勢をあらわにしてくる動きを見て、参謀本部は以下のような命令を支那駐屯軍司令官に与えます。
「現任務ノ外平津地方ノ支那軍ヲ膺懲シテ同地方主要各地ノ安定ニ任ズベシ」

当時は、公文書や命令書なども漢字とカタカナでしたね。漢文の返り点などもカタカナだった名残かも?
正式の文書に女文字(平仮名)は使わなかったのかもしれない、といま気づきました。現代女性が聞いたら、柳眉を逆立てて噛み付かれますね。下手をしたらかみ殺されるかも、クワバラクワバラ。
明治期までは、漢文で日記でもなんでも書けることが、男の教養のひとつであったということを知っておくことも、歴史をかじるにはムダではないかもしれません。そもそも教養なんて人から見たら無駄なことをいっぱい知ることなのかもしれませんから?

果てしない脱線ですが、もとにもどして、命令の主旨はなにか。
現任務とは、居留民保護と鉄道を守るという駐屯軍の本来任務。それ以外に、北平=北京・天津地区で動きを見せるシナ軍を懲らしめて、現地の安定をはかるように、というもの。
逆に言えば、本来任務地で駐屯軍としての任務を果たせ、ということ。

7月27日のこの時点では、まだ事変は始まってないので、ただ不穏な動きがあるということで、いまふうに言えば警戒レベル1になったところ? ただし、「ようちょう」というのは即座に武力行使してもよいということですから、支那駐屯軍は28日に北京周辺の中国軍を総攻撃し、30日にはもう追撃を停止します。

ところが、中国軍側がチャハル省に進出してきたために、いわばシナ駐屯軍が側方と背後に回り込まれる形になってしまった。これを、掃討するのがいわゆる「チャハル作戦」ですが、そのまえに万里の長城をこえて北上してくる中央軍を撃破しなければならない。それが参謀本部と現地軍の考えでした。一度に両面で戦うわけにはいかないですよね。
それで、8月11日から独立混成第一旅団と第五師団で長城線への攻撃を開始しました。このときから「北支事変」がはじまったのです。

長々詳しく書きましたが、要するに事変が始まったのは盧溝橋事件が起こってから、1ヶ月以上たってからで、しかもこれはまだ北支事変でした。

万里の長城の山岳地帯での激戦の後、長城線を突破して24日にチャハル省まで進出しました。

ところで、このチャハル作戦には関東軍が独断?で作戦を発起して参加してきたといいます。全面戦争になっているのなら、味方が援軍を送ってきたということになるのでしょうが、参謀本部はあくまで不拡大のいわば局地戦で考えています。

関東軍が、勝手に「関東軍チャハル派遣兵団」を編成したわけですが、なんと兵団長があの東條英機中将だったのです。
東條英機はこの年、関東軍参謀長になったばかり。しかも参謀長が直接前線で部隊の指揮をとるのも、きわめて異例のこと。
ちなみに、226事件のときは関東憲兵隊司令官だったはずですが、東京憲兵隊ではないにしても、関東軍に出されたのはなにか関連があるのか?中将に昇進してますから、ただ普通の移動だったのか・・・・・

いろいろと戦線が拡大しそうな気配に、ついに8月31日に「北支那方面軍」(司令官寺内寿一大将)が編成されます。そして、9月3日にそれまでの「北支事変」が「支那事変」に改められます。支那駐屯軍もここからは支那派遣軍になるわけです。

細かいことのようですが、この呼び方の変遷の中に陸軍中央の考えというか、そのときの認識やスタンスというものが、よく現れていると思います。
そしてこれが、そのまま日本側の事変に対する見方でもあったわけですね。

中国側から見れば、盧溝橋からずどーんとひとまとめに中日戦争なのでしょうが・・・・・・・


ところで、先の第五師団ですが、師団長があの板垣征四郎中将。
なんだか、集まるところにあつまるものだと、妙な感心?をしてしまいます。まさか、類は友を呼ぶというわけではないでしょうが。
後に板垣陸相のときの陸軍次官が東條英機だった、それを思い出したからかもしれません。調べてみたら、陸軍士官学校では板垣が一期先輩、陸軍大学では東條が一期先輩でした。みんな陸軍で青春をともにした、同窓生だったわけですか。
あ、みんなといってしまったのは、後のノモンハン事件の小松原道太郎師団長、比島の本間雅晴師団長などが、東條の陸大同期だったからでした。


ところで実は上海では、これよりさき8月9日に中国側の残虐事件が起こっています。それは第二次上海事変になるのですが、日本側では盧溝橋事件が飛び火したと捉えますが、今から見るとこれは蒋介石側の一斉蜂起だったのではないか? そんなことをふと考えてしまいます。
上海の日本租界の守備には、陸軍は一兵もいません。わずかに海軍陸戦隊がいるだけでしたが・・・・・・






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2007年07月08日

勅令とは?


昨日は触れなかったのですが、ちょうど70年前の七夕の日に、盧溝橋事件が起こったのでした。

その日を境に、いわゆる支那事変が勃発してしまったのですが、はじめはすぐに解決すると思ったものが予想外の雲行きになったのを見てか、9月に5日間の臨時帝国議会(現在の国会にあたる)を開いて、「臨時軍事費特別会計法案」が決まっています。

議会に通常、特別、臨時の三つがあるところは、現在の国会に踏襲されていますね。この法案がつまりは軍事費、簡単に言えば帝国陸海軍が使うお金のことです。
この特別会計というのが、実はすごいことになってます。なにが特別か?

一般に国の予算というのは、単年度会計です。これは昔も今も、変わりはない。ところが、この軍事予算は戦争が始まってから終わるまでを一会計年度としていたのですね。つまり何年でも、戦争が続く限り追加追加でどこまでも・・・・・

不幸にして、支那事変からそのまま大東亜戦争に突入していますから、8年ちょっとがそのままというわけ。
最後は終戦のどさくさですから、ついに会計報告はなし?うやむやにおわります。ちなみに財源はすべて戦時公債ですから、今で言えば国債のようなもの。

ま、戦争の最中に、一つ一つ議会であれこれもんでいたらこれも困るということで、とられた処置なんでしょうが。

これでひとつ納得したことがあります。例えば、あの終戦前後にもビルマのバーモウとか、日本への亡命者が何人かいたわけですが、軍部は気前よく大金を使っていました。戦地や外地でも必要となれば、とにかく金ばなれがよかった。内地の物資の逼迫に比べてよく金があるなと、いつも不思議な気がしていたのですが?

ところで、国家総動員法や電力管理法というのは、12月からの通常議会ですから、決まったのは翌年の3月です。このときには、支那事変はすでに拡大の様相を見せ始めています。
大本営が不拡大方針を諦めたのが、3月の徐州会戦だといわれています。


ところで、法案は議会で決まるわけですが、その実際の施行にあたっては、そのつどそれぞれに細則といったようなものを決める必要がありますね。
最初にすべてをかっちりと細かく決めたら、がちがちの法律になってかえって役に立ちません。わかりやすく例えれば、道路交通法というものがあって、その範囲で警察がそのつど規則を作ったり変えたりして運用する、というのと同じですか?

で、旧憲法下ではそれは勅令でした。この勅令の意味を意外なほど誤解している日本人が多いのには、あらためて驚きます。

もしやと思い、ネットで「勅令」を検索したら絶句しました。
勅令とは、天皇の命令のこと。はてな?
ほとんどがこれ一色に見えましたから、どこかに正しい説明があるのかどうか、調べる気力をなくしました。

これこれは勅令だから、天皇が命じたのだ。あるいは、勅令をだした天皇はそれを知っていた。このての言説をよく見聞きしますが、いわゆる半可通の戯れ言か、なにか為する発言?

勅令とは、いまで言う政令、内閣令や省令の類。言ってみれば総理大臣を任命するのが天皇ですから、総理大臣に任せたという意味で首相が決めたものを勅令と呼んだわけです。

後に行われた、どこどこの工場を軍需工場に指定するとか、金属の供出など、そんな細かいことを一々天皇が指示するなんて想像するほうが変ですね。

勅令とは、帝国憲法下では国務大臣の輔弼で首相が決める命令のこと。さすがに首相単独はダメだけれど、だれか国務大臣が一緒ならばよい、ということ。

ちょっと余談になりますが、戦後米軍が日本を占領していた何年かの間、GHQの命令を迅速に施行するために、この勅令を利用していたんですね。だれが呼んだか、ポツダム勅令といったとか。








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2007年07月07日

五ヶ年計画

昭和12年の近衛内閣の登場で、重要法案がいくつか成立します。
なかでも、国家総動員法案、電力管理法案などがよく取り上げられて、これらの法律の制定で一気に統制経済・戦時体制に突入した、というようなことが一般にいわれています。
歴史を、映画のパンフレットのあらすじのように表現すれば、結果論から言えばそうなるのかもしれませんが。

先の産業五ヶ年計画もそうですが、これは何も戦争のための準備をしたわけではなく、当時の日本の経済力・産業構造の弱点にやっと気づいた日本の政財官界が、つまりは日本のリーダーたちがだした結論だったのです。

誰でも知ってるように、現在の最先端技術や、かってのトランジスターからインターネットまでも、もともとは軍事や兵器開発から生まれましたね。
実は、これとよく似たことが、経済や産業をひっくるめた日本の国策の分野にも起こっていた。最初に国力が極端なまでに脆弱になっていることに気づいたのは、一部の軍人たちのようです。

軍人の習性に、最悪の場合を想定して作戦を練るというのがあります。
国防というのはある種の危機管理でしょうから、その意味では災害対策に似てますが、もし××が起こったらどうなるかを研究するわけです。
まえに、石原莞爾が参謀本部に入って、日本の真の姿を見て驚いた云々と書きましたが、彼はそこで日本の国力の実態を知ったわけですね。

この後に来る支那事変に際して、石原が「蹴飛ばされても、鞭で叩かれても、隠忍自重してひたすら我慢しろ」といってます。
余談ですが、よく満州事変の当事者がなにを今更戦争反対か、などと笑いますが、これは的外れな非難? 
というのは、石原莞爾はそれまでは外様?、軍中央とは無縁で外に出ていた。つまりは、出先にいれば、日本の国力は明治以来営々と伸張してると思っていたでしょう。満州事変で作戦能力を発揮したのが認められて、参謀本部に呼ばれた。そこで、諸種の統計数字を集めてみて初めて日本の国力の、真の姿を知って愕然としたわけですからね。

これは大変だということで、石原も陸軍の立場から考えて5ヵ年計画を云々してますが、この5カ年計画というのはいわば計画経済、全体主義国家の経済になりますが、この場合の手本はおもにソ連でした。
面白いですね、自由主義経済国の日本が、全体主義国家と同じ手法をとらざるを得ない。極北はあい似たり、は少し違うかな、日本は右翼国家だったわけではないですから。
当時ソ連は相次ぐ五カ年計画で国力や軍事力をつけていましたから、その効果の上がってる方法を見習った、と考えたほうが当たってるかもしれません。

国家総動員とか経済統制とかのことも、実は十年もまえから研究されていて、後に総理大臣になる小磯国昭などもてがけていたはずです。

ところで、この近衛文麿は支持政党を持っていなかったのですね。
与党第一党の党首が総理大臣になるという、いまの政界を考えるとちょっとちがう? 味方がいないから、法案がもめたときには淋しかったらしい。
当時代議士の数が一番多いのが民政党、第二党が政友会、これらはまず国家総動員法案に反対。ちなみにあの鳩山一郎も河野一郎も政友会、河野は一年生議員でした。
この法案に積極的に賛成して、政府与党的立場に立ったのがなんと社会大衆党でしたから、なんとなく驚きます。

この頃、共産党は非合法で地下にもぐっていたわけですから、社大党はいわば一番の左派? 党首安倍磯雄はあの幸徳秋水とも関係のあった人物です。
確か早大野球部のグラウンドに銅像があったはずですから、ハンカチ王子も頭を下げたかもしれない。
社会大衆党の掲げる三反主義というのは、反資本・反共・反ファシズムだったそうです。その幹事長西尾末廣が、法案成立に力を貸すのですが、浅沼稲次郎も一緒だったとか。ちなみにこの二人は、戦後日本社会党を結成しています。

ところで西尾が近衛文麿を励ます演説に、五箇条の御誓文を引用したあとに、
「もっと大胆率直に日本の進むべき道はこれであると、ヒトラーの如く、ムッソリーニの如く、あるいはスターリンの如く大胆に、・・・・・」と、ハッパをかけているのにはまたまた驚きます。
議場はもちろん騒然としたようですが、スターリンとは何ごとかということで、確か懲罰になったはず。

ただ国家総動員法案は、結果的にはほぼ満場一致で成立します。

これこれの法律ができた、国家統制が始まった、これでは味も素っ気もありませんが、裏のドラマも知ってみれば興味深いものがあります。
意外にいまの政治の流れが、見えてきたりもしたりして・・・・

帝国議会も、現在の国会も、委員会と本会議のやり方などはほとんど変わってないみたいですね。
貴族院が参議院にかわっただけ?

そうそう、統制という言葉の意味も、一義的に戦時統制で考えてしまうと、だいぶ的外れの勝手読みになりそうですが?


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2007年07月06日

原爆と長崎と

後継の防衛大臣小池百合子が、初登庁で儀杖隊の栄誉礼を受けている写真がでていた。
キューマ氏よりも、様になっているようでした。小池は国防なんて詳しいの?元アナなのにというブログに出くわしたが、総理の安全保障担当補佐官として、つとに訪米して大統領補佐官と会談もしています。
まあ、いまの政府では最適任かもしれません。

記者団の質問に対して、「ジョセフ氏は前から言っているので、目新しさはないが、日本の見解とは異なる」、と述べたといいます。
とっさに、こういうしゃきっとした物言いができることが、大臣には必要だな、そんな気がしました。
それにしても、ロバート・ジョセフ核不拡散問題特使(前国務次官)がここにきて、「原爆が終戦をもたらし、何百万人もの日本人の命を救った」と発言してたんですか。

ということは、久間発言もなにかこれに関連していた?
まえにちらっと、この発言はなにか様子見のアドバルーンかもしれない、日本人がいまどういう反応を示すのかを確かめるための、なんてバカな想像をしたものですから。

最近どうもおかしな歴史認識が、洋の東西を問わずに現出し始めてると感じていましたが、これはどうも世代の問題がからんでいる気がしてなりません。
現実を動かしたり、考えたりする政治家も学者も戦後世代ですから、まったく知らない時代の解釈を、平気で決め付けます。

多くの者が、「黒かった」といい続けると、それを引用して定説になってるといってみたり、よく検証もしないで「黒であったらしい」と認めてしまったりする。

きりがないので話題を戻します。
あの、広島、長崎への原爆投下ですが、あれには画期的な新兵器の人体や建物への『実験』の要素があったのでは、ないかと思っています。
とにかく実際に使ってみないと、新兵器の威力や効果はわからないですからね。

もうひとつ、スターリンのソ連に対する示威、つまりデモンストレーションの意図があったのでは?
これはある意味では恐ろしい疑義ですが、まったくの荒唐無稽ではない気がします。

そして、いまの長崎ですが、怒るのもいいけど地域代表に選出したのはどこの誰なのか、パフォーマンス以外に何もしないプロレスラーをおくったのも、怒ってるのは国民全体?
キー?が滑りましたが、美輪明宏さんも長崎とか?
コンサートの挨拶で、「日本の男はみっともない。どこの戦場で女をぞろぞろ連れまわす国がありますか」と、説いてまわっているとか。
これなどは、従軍慰安婦(これもマスコミ造語)を既定の事実として、説教しているわけで、冗談ではすみません。

そんなことより、対馬の無人島を韓国人に別荘地としてどんどん売り渡していることを、奨励していていいのですか?対馬の日が現実になったらどうしますか。

いま長崎が熱いので、大好きな長崎のことをつい・・・・・

それにしても、昭和戦後はまだつづいてますね。

ふと、昭和九年ごろの資料眺めてたら、八月の東京は連日30度を越す猛暑だったとか。男性に開襟シャツにノーネクタイ、女性に簡単服にノーストッキングが流行。純白の涼しげで上品なモガ、モボの写真が・・・・・さしずめクールビズの嚆矢。うーム、モテ度は昭和戦前にとてもかなわないかも。









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2007年07月04日

キューマ危機?

マスコミのネーミングにも、時々感心するようなものが登場する。

今回のこれも、後世の政治史に名を残すかどうかはわからない?
「しょうがない」大臣といっても、普通名詞みたいにたくさんの該当者がいらっしゃるでしょうしね。

「しかし、バとマは通音だし、うまいこという」と感心したら、JFK のキューバ危機を知らない世代には、ただの駄洒落以下だよ、といわれてしまった。
「JFKはいま、JKFだよ」と阪神ファンから横槍が入った。意味違うんだけど?
かくして現代はいよいよ、混迷の度合いを深めていきます。

たまたま、読んでいたものの中に、「統制派、皇道派というのは報道陣が勝手につけた呼び名です。当人たちは、まったくそんなこと、思ってもいなかった」という証言がありました。
相沢事件から226事件の前後で、昭和史を語る上の歴史用語として定着してる言葉が、当時のマスコミ、多分新聞記者の作り出したものだとするとちょっと驚きます。いや、案外そんな例はたくさんあるのかもしれません。

この元防衛大臣はもともと重量不足で、就任挨拶からひどく違和感を覚えた人物でしたから、今更驚きません。
ただ、歴史をまったく知らない、半可通の発言にちょっと腹がたちます。

昭和20年の、ヤルタ会談からポツダム会談にいたるあたりのことを、少しでも知っていれば、こんな浅薄な講演ができるはずがない。

人道的見地から、原水爆の使用そのものを問うのはこの際別にしますが・・・・・

ソ連を対日参戦させようと、懸命に誘いかけたのはそもそもアメリカだったはず。
ヤルタ会談に集まった三巨頭、これも今考えるとずいぶん思い上がったものに思えますが、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三人が集まったのは、大戦後の獲物の分捕り合戦?といえば言葉が過ぎますが、実体はまさにそれ。
このときの秘密協定で、千島樺太を餌にソ連参戦を頼んだのがルーズベルト米大統領です。これが確か20年2月。

その年の7月17日から8月2日にかけて、ポツダムで米英ソの三巨頭が再び会談します。ベルリン郊外のポツダムでということは、すでにドイツが降伏していたからで、日本ではこの会談で決まったポツダム宣言=日本の無条件降伏だったことから、対日戦終結のための会談と捉えますが、比重の大半はドイツ、ポーランドの戦後処理の問題にあったといわれます。

ところで、ヤルタからポツダムの間に、ルーズベルト大統領が亡くなって、米大統領は副大統領のトルーマンが昇格します。トルーマンは初めての、対外会議でかなりの緊張をしていたといいます。英首相チャーチルが頼りだったようです。そして、この会談では一人スターリンが上機嫌で主役だったといわれます。
ドイツ、ポーランドに対する賠償や領土欲の強さに、チャーチルが警戒感を深めてスターリンを牽制したのもこのときです。
そのチャーチルも、英国選挙で保守党が破れたため、会談の途中で労働党の新首相アトリーと交代しています。

こんなドラマがあったことなど、無論日本側はまさに「神ならぬ身の知る由もなし」でした。

ところでアメリカ側はルーズベルトが、米軍の人的損害をこれ以上増やさないために、戦後鹵獲するはずの領土を割いても、ソ連の対日参戦を希求したのでした。
ところが、たしかトルーマンがポツダムにむかう船上でか、着いてからかに、かねて開発中の新型爆弾=原爆の完成が知らされます。
つまりその時点で急に、わざわざソ連に頼まなくても、日本に勝てることがはっきりしたのでしたが・・・・・・・・

スターリンはなんとなくそれを悟って、あるいは情報網もあったかもしれませんが、分け前にありつけなくなってはまずいと、あわてて参戦して日本がポツダム宣言受諾した後で、樺太はじめ北方領土の島々に攻め込んだわけです。


米軍は、ソ連占領から日本を守るために、やむを得ず原爆を落としたわけでは、決してない。それだけは、はっきりしています。
ただ、結果論として、占領軍が米軍であったことで、ともかくいまの日本が残ったとはいえるでしょう。


日本人はお人よしですから、たとえば京都や奈良の古都は、空襲されないだろうなどと当時思っていました。原爆の標的にされてた都市がどこであったかを知ったら、今でもびっくりするはずです。標的候補はいくつもあったのですから。

たしか、長崎なども上空の雲のかげんで選ばれてしまった、不幸な都市だったわけですよね。あの日、長崎はこよなく晴れた青空だった・・・・・
いろいろな意味で、原爆はわれわれ日本人全員の、頭の上に投下されたともいえるかもしれません。


ところで、ポツダムに集まった首脳たちはだれも、天皇の戦争責任などは口にしなかったそうです。
天皇の戦争責任を言ったのは、連合国では中国の蒋介石だけだったのです。







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2007年07月02日

歴史の因縁

日本の周りの全方位で、日々さまざまなことが起こり続けています。その多くが、好むと好まざるとにかかわらず日本にからんでくるのですから、現代世界の中で一国が生存してゆくことは、大変なことだなとつくづく思います。

かねてから、いろいろな意味で日本の戦後は終わっていないというのが持論でしたが、この頃とみにその感を深くします。

いわゆる特亜とかいわれる地域がらみのことは、すべてがそうだといっても過言ではないでしょう。
他方では、いまわれわれが頼らざるを得ないアメリカが、発信してくる下院議決とか、南京事件映画のようなものまであります。
硫黄島の読み方まで、日本が歴史を書き換えたとFOXニュースが報じたとか、ばかばかしいニュースばかりがはしります。

日本の周りで、勝手に日本の歴史を、書き換えている気さえするほどです。


こんなときだからこそ、より一層、日本人が日本の昭和史をしっかりと細部まで知っておくことが、大切なのではないかなどと思います。


ところで、昭和11年の226事件で岡田啓介内閣が倒れた後を、広田弘毅、林銑十郎を挟んで、昭和12年6月4日には近衛文麿内閣が誕生します。

この近衛内閣の誕生は、国民の熱狂的な歓迎を受けるわけですけれど、その人気のほどは小泉純一郎など足元にもおよばいほどだったといったら、わかりやすいでしょうね。
47歳の青年宰相は、実は前年に岡田内閣の後継として組閣の大命が降下したのを辞退しています。それだけに待望久しい、公爵宰相というわけでした。
ちなみに、この内閣の外相には元首相広田弘毅が就きます。

この近衛内閣の時に、支那事変(日華事変)が起きるのです。
現在では、まとめて日中戦争と大雑把な?表現になっていますが、当時は軍部もふくめて、事件、事変、戦争というものの概念がわかれていますから、シナ事変と歴史上の呼び方をしておきます。
一例を挙げますと、戦時予算などの法令を事変にも適用するか否かが、国会で議論されたりしますが、これなども事変と戦争が別のものと認識されていた証拠になりそうです。

承久の乱、壬申の乱、正中の変、本能寺の変のように、変と乱とを使い分ける、日本人の微妙な感覚というのと似ていますか。

ところで、近衛内閣は6月15日の閣議で「産業五ヶ年計画」を決定するわけですけれど、これは簡単に言えば日本の経済力の根本的な弱さを実感して、何とか早期に国力をつけようという主旨だったのです。

「持てるもの」と「持たざるもの」の対立をなくすこと、それが近衛の世界観、社会観の根本にあった理想のようですが、この考え方はいまの國際格差、社会格差の論にあまりに似通っているので驚きます。ちなみに日本は、資源を輸入しないと生きてゆけないから、いうまでもなく「持たざる国」です。
時代は変わっても、人間社会の対立相克は同じなのかもしれません。

で、ここで興味深いのは、わずか4日後の「ニューヨーク・タイムズ」が、早速牽制記事をだしていること。
「すべての産業を準戦時状態の基礎の上に置き、これによって国防を充実しようとするのは、支那に対する弾圧政策を結果するであろう」

ほかのところでも、朝日新聞、同盟通信、NYタイムズという流れを目にしましたが、これってなにか昔もいまも変わってない?


ところで、ちょっと飛びますが近衛首相の後が平沼騏一郎ですけれど、この人の養子があの平沼赳夫議員。
近衛内閣の議会には、河野洋平の父親や、鳩山由紀夫の祖父などもでてきて、政府を攻撃するわけですから因縁しらがみは連綿とつながっている?
二人の父親の名前が、ともに一郎なのはまったくの偶然で、これは因縁ではないでしょう。冗談はともかく、ずっと昔のことと思っている戦前戦中が、知らないでいることが恥ずかしいほど、すぐそこの出来事だったということにあらためて気づかされます。











posted by shuuin at 18:56| 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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