2007年06月21日

歩兵の戦法

陸軍の歩兵の戦法が、どんなものであったかなどと、どうでもいいことなのかもしれません。けれど、新戦法に変わった、だけではなんかぴんときまから、少し細かいところまで・・・・

ところで、近代戦になっても、最後には歩兵が出てゆかないと決着はつかない、といわれます。
IT使用の機械の戦闘?になっても、やはりそうなのかもしれません。

で、前線に歩兵が到着して、まず散開をします。
映画などでもよく見かける、あたりにさっと広がる、あれですね。

従来は横一列散開で、横一文字に広がってそれぞれが何かの影に隠れて射撃姿勢に入る。さもなければ、その場にがばっと身を伏せて、射撃の構えに入る。

これは第一次大戦のドイツの戦法に、範をとっていました。つまり明治以来、ずっと続いてきたわけです。

その戦法が、このときに傘型散開というのに変わったのです。
敵に向かって傘を拡げかけたような形で、散開する。その傘の先端に、軽機関銃が進出するという陣形。
それと、新戦法では散開するとまず、自分のもぐる壕を掘る。

この辺からも、対ソ戦法だということがはっきりしてきます。
なぜなら、まさに当時のソ連歩兵の火力の中心は、重機関銃だったからです。それに対応するための戦法でした。

重機というのは曰く、「連続的にタマを撃ち込む機械」、だそうです。
つまり、パンパン、バリバリではなく、ドッド、ドッド、だと。
で、歩兵が横一線に散開したら、一薙ぎで全滅してしまいます。

それではどうするか?縦に散開して、身を避ける穴を掘って、重機の掃射をかわす。分隊の先頭に、軽機を置いて敵の火力に対抗する。それがつまり、対ソ戦法の傘型散開だったわけです。
従来は歩兵の間隔は4歩だったのが、6歩になつた、と。

ばらばらっと散ってるようでも、なんと歩数まで決まっていた。一度の被害を少しでも減らすために、より広く開くとか・・・・・

ところで従来の歩兵操典の、小隊の編成は6個分隊で、第1から第4までが小銃分隊で、第5,6が軽機関銃分隊。
小銃分隊は分隊長以下12人、軽機隊は分隊長と射手、小銃持つものが6人の8人編成。
つまりは、一小隊に軽機関銃は2丁だけ。中隊全体でたった6丁。あとは三八式歩兵銃だけでは、とても近代戦どころではない?

新操典では、小銃隊と軽機隊の区別をなくして、第1、2,3分隊が軽機と小銃、第4が擲弾筒分隊に変更された。
一分隊の兵員数は16人になった。
試しに、算数的計算をしてみたら、小隊の人数は64名で増減はありません。
軽機関銃が1つ増えて、あと擲弾筒という火力がふえました。
日本陸軍には、まだ迫撃砲は採用されてなかった?

歩兵の装備という点でも、早くから懸念されてたように、かなり遅れていたかもしれない気がします。
三八式歩兵銃というのも、とうとう昭和20年の終戦まで使われましたが、自動小銃をつくる技術がなかったわけじゃない。ただ、昔に大量にその銃の弾を作ってしまって、いわゆる弾のストックがたくさんあったから、とどこかで読んだ記憶があります。
弾にあわせて、銃を造っていたのかと、呆れたことが・・・・

それはともかく、昭和12年5月の時点、つまり盧溝橋事件の2ヶ月前の時点に、陸軍の歩兵操典が変わりました。
現場にしてみれば、下士官も兵たちも、いや上官にとっても、まさに革命的な変更になりますね。

サッカーやバスケットボールの、フォーメーションが変わったどころの騒ぎじゃない?当然、目の色変えて訓練をはじめます。

しかも、夜戦訓練で、歩兵の戦法は最後は白兵戦を想定してますから、激しさはいよいよ増します。
おまけに、都会っ子の新兵の体力増強が加わって、途中でしくじったら、また一からやり直しとか。


これを、河原の上から眺める中国軍としたら、この変化を日本軍がなにかたくらんでると、考えたとしても無理ないでしょうね。

相手の目に、どう映ってるかを考えていなかった?現地や内地の上官たちに、問題があったといえるかも。
こちらは、まったくこちらだけの思惑、事情で動いていたわけですけど。

戦法や操典の改訂をしていた、陸軍歩兵学校教官の千田大佐が、関東軍はじめ各地をまわって、対ソ戦法の説明や実地訓練をしたわけですが、シナ駐屯軍のところに来たのも、その一環。
同じ時期に、陸軍じゅうが新しい戦法に早く慣熟しようと、やっきになりはじめていたのですけどね。
傍目にどう映るかなどは、考える由もなかった?


タグ:戦法 射撃 想定
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2007年06月19日

誤解されても?

昭和12年3月1日に、新兵が到着して、同じ日に三年兵が帰国する。
あの秋田から来た二年兵は、交代がくるまで残ったから三年兵・・・

ところで普通、徴兵検査を受けるときは、本籍地にもどって入営するのが決まりでした。仲間意識とか郷土愛とか、いろいろあるでしょうが、それが日本陸軍の伝統的編成方法。
県民も郷土部隊を誇りにするところは、さしずめプロ野球やサッカーの本拠地球団に対するのと似ている?

ところが、ここにやってきた初年兵は、関東出身の者たちでした。
こういう編成配置は、軍中央で黙って決めますから理由などわかりませんが、どう考えても、前年の「二二六事件」がからんでいるようです。

東京近県の出身者は、本来東京に集められて第一師団入営がきまり。
ところが、麻布三連隊など叛乱軍の主流とされた第一師団は、すでに遠く満蒙の地に出されています。
ちなみに第一師団といえば、本来は首都東京防衛の部隊ですが、これ以後二度と帝都東京にもどることはありませんでした。
そして、最初で最後の戦闘があのレイテ島での戦いでした。
最強とうたわれた第一師団でしたが、実戦はこのレイテが初めてだったのです。考えてみると、8年にわたる寒冷地での猛訓練だったわけですが、熱帯に送られて全滅に近い激戦を強いられました。

余談になりましたが、二二六事件の影響はこの頃の陸軍では、想像する以上のものがあったようです。青森の連隊でも、福岡の連隊でも、若手将校の中にシンパはいたようですし・・・・
「一緒に呼応しようとしたが、あまりに遠くて、どうしょうもなかった」
そんな声もありました。軍中央でも秘かに要注意人物とか、マークしたりして、粛軍のなかみはそれなりに大変だったようです。
そうそう、前に触れた海軍の松田千秋少将も、二二六事件シンパの一人で、要注意人物にリストアップされてたとか・・・・・


で、シナにやってきた初年兵ですが、
「かなり気合は入っていたが、東北の人間と比べて、いかんせん身体が弱かった」
前年に、十九歳の志願兵できて、すでに上等兵に昇進した同年代の若者の証言です。
やはり都会っ子は、弱かった?それではということで、訓練はよりいっそう激しくなります。猛特訓で体力をつけさせようとするわけですから。

この日本軍の訓練振りを望見した中国兵は、どう思ったのか?
あらぬ想像をたくましくしだろうことは、間違いないでしょう。


陸軍の仮想敵はソ連なのですから、シナ駐屯軍の増派はある意味では関東軍を対ソ戦に専念させるためのものともいえます。
関東軍が対ソ戦の訓練をするのは当然ですが、実はシナ駐屯軍も対ソ戦訓練をしていたのです。
そのときの下士官や兵たちが、口をそろえていう事があります。
「お前たちがやっているのは、対ソ戦闘だぞ」
「われわれの仮想敵はシナではなく、あくまでソ連である。そのことを忘れるな」
上官たちから、口をすっぱくして言われた、と。
そのために、かれらは多少の侮りや嫌がらせを受けても、がまんしてたのかもしれません。どうも、目の前のシナ軍を友軍、味方と思っていた節すらあります。

ところで対ソ戦といっても、古くからの歩兵操典の戦法では通用しないことがわかってきます。そのことから、歩兵の教科書である操典が改正されます。はっきり対ソ戦戦法にかえられます。

で、明治以来の歩兵操典が変わるのですから、まさにこのタイミングで、歩兵の訓練が文字通り様相が一変して激化します。
新戦法の猛特訓、しかも夜戦が主になるため激しい夜間訓練として開始されます。

様子をうかがう中国軍にしてみれば、誤解するなというほうが無理?
それこそ、思いっきりに大誤解でも六階でもしちゃうでしょうね。






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2007年06月18日

不気味な嫌がらせ

北シ処理のことはシナ駐屯軍司令官のみに任せることを、くどいくらいに関東軍に釘をさして、そのために駐屯軍の人数を増やしました。

その結果として、生まれた第八中隊ですが、ふつう三個小隊で一個中隊が構成されます。ちなみに中隊長は大尉クラス。
小隊はさらに4分隊にわかれます。ですから、ひとつの中隊には12の分隊がある。分隊というのが最小戦闘単位になるわけ。
この、大隊→中隊→小隊→分隊という構成は、どこの国の軍隊も同じようですし、現在でもかわってない?
違うとすれば、人数とか隊数ですか。

日本陸軍では戦闘時の一個分隊は定員16人でしたが、この当時、駐屯軍は12人編成だったそうです。つまり、戦時編成ではなかった?
ですから第八中隊の人数は、将校を入れて約150人になりますか。

海軍でもそうですが、平時の兵隊の仕事はただひたすら訓練ですから、大変ですね。宿営地のほかに演習場が必要になる。
受け入れにどうぞといっていた、シナ側の動きが裏で変わってきていたのですが、その変化の真相は日本側にはずっと後になるまでわかりませんでした。
ソ連共産党やコミンテルンの力が、深く浸透し始めていたことに・・・・


ともかく兵士たちは、内地でやるのとまったく同じ訓練を、離れた広い河原のジャリ場にかよって行いました。
途中で中国軍兵舎の前を通るときなどに、さまざまな嫌がらせをされたらしい。
唾を吐く、大声を出す、聞こえよがしになにか言う、急に歌いだす。
悪態をつかれて、意味はわからないけど憎々しさはつたわる。
銃を向けて射つまねをする。銃をガチャガチャ言わせて威嚇する、等々。
最近の反日デモや、いろいろなニュースを見てもおよそ想像はつきますが・・・・・・・
手をださなかったのは、日本軍の威光?をおそれたからだったのか?

一人で街に出て、殴られて血まみれになった衛生兵などはいましたが。
北京や天津では、外出禁止なども下令されてたとか。

初年兵が歩哨のときに、中国兵が入れ替わり立ち代り、はしごで日本軍の宿舎を覗き込む、と。
なんか気味が悪いな、と思ったと述べてますが、注意することもできなかったようです。

先の、数々の嫌がらせにしても、兵隊同士仲間内では「なんだか変だなあ」「なにが起こっているんだろ」、と噂しながらも、それが中隊長や上のほうまで伝わるわけでもない。
ちょうど、子供が嫌がらせやいじめにあっても、親はまったく知らないという状況に似てませんか?
悪口言われました、ツバはかれましたと、一々報告できませんしね。
「なんていわれたんだ」「よくわかりません」では、逆に叱り飛ばされそうです。

いじめに似てるといったのは、北京にいる上層部に、まさにこの時期の空気を、「二十九軍(中国軍)とは、うまくいってた。むしろ好感を持っていた」などと証言した参謀長がいましたから、かなりのずれがありますね。

現地の様子を聞かれるのも、中央に報告するのも、兵隊ではなく彼ら佐官クラス以上ですから。

現代社会にも、学校や会社にもよくあることのような・・・・・・
いや、政治の世界にこそあてはまる?

ところで、年が改まると昭和12年。
あの二年兵が満期除隊で内地に、代わりに内地から初年兵がやってくることになります。

なんだか、二年制の学校の運動部みたいだと気づきました。
兵隊は軍隊そのものが兵隊学校?
内務班というのは、毎年新人教育するための学校だったわけですか!

ところで分隊というのは、戦闘時の分け方でした。陸軍での軍隊生活は、内務班単位で行われたそうです。いざというときには、内務班長が分隊長になる仕掛だとか。

で、新しい初年兵の訓練が、ある二つの事情で激しいものになるのですが、これはあくまで「こちらの事情」。シナとはまったく無関係だったのです。








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2007年06月17日

初年兵と二年兵

つい忘れてしまいがちですが、われわれは徴兵制度のない、幸せな国民です。考えてみれば、現在80歳以下の日本人は、軍隊経験はないことになります。
したがって、軍隊のことなど、なにがどうなのか漠然としかわからない。

で、たとえば盧溝橋事件を読んでいると、「シナ駐屯軍第一聯隊第三大隊第八中隊」がでて来ます。この部隊が事件に遭遇するわけです。まとめて日本軍でもいいけれど、歴史好きは歴史探偵?の楽しみがあるから、もっと細部も知りたくなります。

そもそも第三大隊が編成されたのは、実際には通州についてからだそうで、秋田聯隊第二中隊が第八中隊になります。
ほかに第七(青森)、第九(山形)があって、この歩兵3中隊で第三大隊が作られます。東北の3県から抽出して編成したわけですね。
ほかに機関銃中隊と、歩兵砲中隊がこれは混成でつくられて、5中隊で一個大隊が構成されるわけですね。

秋田聯隊の中で、シナ駐屯軍にと選抜されたのが、この中隊だったわけですが、その兵隊たちは初年兵と二年兵でした。

一般に初年兵は徴兵検査をとおって、正月に入営して新兵教育を受けるそうです。四月に検閲を受ける頃には、小銃射撃ができるようになって一人前。翌年、二年兵になって、二年間の勤務が済むと満期除隊。
つまり、日本の徴兵制による兵役期間は二年だったわけですね。

派遣されたのが、昭和11年5月ですから、初年兵も一応一人前になったばかり?
旧軍のこのシステムが、あとで翌年の盧溝橋事件に微妙にかかわってきますが・・・・・・

外地勤務になると、歩兵銃も新品になり、兵装も「一装」になるそうです。昭和の時代、子供でも「よそゆき」といって、外出着に着替える習慣がありましたが、兵隊さんもやはりお洒落?をした。
余談になりますが、北京には各国の外交官などもいるから、そんなところに馬匹はおけないと、軍馬は市内に置かなかったそうです。
ごく当たり前にしたのでしょうが、規律や礼儀、国の体面を大切にする日本人の心意気を感じてしまうのは、私だけですかね?

兵たちはみんな二十歳か二十一、なかには十九歳の志願兵も混じりますが、初めての外地勤務。それぞれに、わくわくするような気分であったようです。

新潟から船に乗って(当時、東北方面からシナに行くのは新潟港)、玄界灘にもまれて塘沽についた。
そこに出迎えた在留邦人の婦人会の歓迎ぶりに、いいところに来たなと感じたり、身の引き締まる思いで責任を感じた、とか。
若者らしい感性が読み取れますが、一方で在留邦人にしてみれば、もっと切実な思いがこめられていたでしょうね。


普通、初年兵教育は内地で行われるものだそうですが、今回は外地で。
でも、訓練は内地と同じように行われました。

                     (続く)





タグ:徴兵 中隊 新兵
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2007年06月16日

こちらの事情、あちらの見方


いわゆるシナ事変のはじまる前の、現地の状況などをみていると、現在伝えられる中国の姿に、あまりに似通っていて驚きます。

ところで昭和11年5月に、シナ駐屯軍が2倍に増強されました。
このことも今では、急に倍増して陸軍が戦争の準備をしたのだ、というような見方で片付けられています。

でもこれは、実は北支(今の中国東北部)に、関東軍に口出しさせないための処置だったのですね。

だいたい駐屯軍ですから、これは居留民の保護が目的。
シナに駐屯軍を置いていたのは、これは北清事変以来の取り決めで、各国ともに置いていました。
北清事変は、いまは義和団事件と呼ぶんですか。かって、「北京の55日」という映画になりましたね。

で、昭和11年5月の時点でも、日本以外に、英、米、仏、伊が駐屯しています。
居留民の数は国によって違います。英国、米国はそれぞれ千人ですが、駐屯兵は英千人、米千三百人。仏、伊に至っては居留民の2倍半の兵力です。
これはなにを物語るんでしょう?
つまり各国とも、居留民一人当たり一人以上の警備をつけないと、安心できなかった・・・・・・

ところで、日本人居留民は13800人。
日本人が多いのは、過去の交流と、なによりもその地政学的な宿命ですか。
これに対して、シナ駐屯軍は1874人。

この当時、各地で日本人が殺される事件が、それこそ頻発していました。よくこれだけ、日本人が殺されてと、不思議に思うほどで多発しています。
勝手に想像すると、これがアメリカやイギリスなら、すぐに全員を本国に引き上げさせたのではないか?


関東軍にしてみれば、そんな駐屯軍の応援のつもりか、事あるごとに北シナに容喙する。
ところで、このとき参謀本部と陸軍省は、シナとは事を構えないようにと方針を決めていたのですから、とにかく関東軍をおさえる必要があります。
その結果としての、シナ駐屯軍の増派だったのです。
これで、旅団規模になったわけですから、北支のことは駐屯軍に任せて、関東軍は満蒙の本来任務に専念しろ、というわけです。

これはまったく、こちらの事情ですが、それが向こうにどう見えたかということまでは、あまり考えてなかったようですね。














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2007年06月11日

五十六と千秋

戦艦「大和」の完成は、昭和16年12月16日。

そうです、真珠湾攻撃の8日後です。

間に合わなかった?
と思う人もいるようですが、もともと「大和」の速力では、空母と一緒は無理なので、最初から想定外。
機動部隊の援護は、高速戦艦「金剛」・「扶桑」らが務めました。

で、「武蔵」の完成は翌17年8月5日。
ミッドウエイ海戦は6月すでに終わっていました。

ところで、あれだけの巨大戦艦ですから、建艦には工期がかかります。まずその計画がたてられたのが、満州事変のあとで、しかも陸軍も参謀本部もまったく知らされてなかった。

総力戦といいながらこの始末、とは参謀本部のだれやらのぼやきにありました。

たしか昭和11年には、海軍軍縮条約の有効期限がきれるため、各国が建艦競争に入ると、予測されていましたね。
海軍は、それに乗り遅れまいとしたのでしょうね。

それにしても、軍事予算の組み方とか、それぞれの機密保持とか、いろいろ興味はつきませんが。現在だったら、あっという間にバレバレでしょうね。


ところで海軍内でも、意見はわかれて、山本五十六大将などは反対だったといいます。
それでも、「大和」級は生まれたのですから、かなりの力がはたらいた?

いつかどこかの座談会での、松田千秋少将の発言。
「『大和』はおれが造らせたんだ。だから、最後を看取ったんだ」
と、いうようなことを読んだことがありました。
オレがつくらせた、というのがすごく印象に残っていました。

松田少将は、捷一号作戦のとき、小澤機動部隊の第四航空戦隊司令長官。旗艦「日向」に乗って、「伊勢」「大淀」「多摩」を率いて、ハルゼー釣り上げに成功している。
栗田健男の反転を怒っている一人でもあります。

最後を看取ったというのは、あの昭和20年の「北号作戦」で、奇跡に近い内地回送任務を完遂して持ち帰った油のこと。

沖縄に出撃する「大和」の、伊藤聖一長官に頼まれて燃料を回したことをさしています。

その松田千秋は艦長としても、戦術家としてもかなりの海軍軍人のようですが、大艦巨砲主義者だった?
一時、軍令部にいたことがあるから、そのときにでも、「大和」をつくらせた?
しらべたら専門はやはり砲術でした。

若い人から、「彼は山本五十六を批判してますよ」といわれたことがあります。なにをどういっているのか、聞かなかったのですが・・・・

山本五十六は親米派、松田千秋は駐米武官経験者には珍しい反米派だったとか。

二人の考えは、事毎に反対だったかも。
例の南進論とやらも、山本反対、松田賛成だったかも知れませんね。

海兵32期と44期、だいぶ離れた二人ですが、開戦後山本長官の聯合艦隊司令部にいた黒島亀人は44期。
まったくかけ離れてるわけでもないですね。

だいぶ後になって、松田が山本を批判しても、死者は反論もできません。毀誉褒貶も時の運?

人の好悪って、ずっと尾を引くこともあるようですしね。

それにしても、その「大和」に座乗し、遺骨になって「武蔵」で還った山本長官の運命も、ちょっと不思議な気もします。


















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2007年06月08日

仮想敵国

なんとなく海軍のほうが好き、という人も少なくないようです。

戦艦大和とかの、軍艦好き?もふくめて、WEBサイトでも海軍にまつわるものの方が、多いような気がします。

で、真珠湾攻撃で始まる大東亜戦争(戦後の呼称は太平洋戦争)が始まったのが、昭和16年12月8日。
むかし、「行くよ一発真珠湾」と年号覚えた1941年、今の子供はなんて覚えるのかな?

その開戦前夜はどうだったのか、と遡ってゆくと「いくさ難儀な日華の変」で1937年(昭和12年)の支那事変(戦後は日華事変、さらに日中戦争と)にぶつかる。

私見ですが、この歴史上の呼称をさかのぼって変更するというのは、対中国の場合がきわだつのですが、これは何かの特別な事由があるのか、いつも不思議でした。というのは、一次資料とか根本資料なども改変して記述するものさえあるようですから。
時代劇の登場人物が、現代語で喋ったら感じる違和感、に近いですか。

話を戻しますが、この事変が有名な盧溝橋事件で始まりますが、さらにその前夜は?
前年(1936)に、二二六事件が起こっています。

この二二六事件を契機にして、軍部が前面に出てきて一気にあの時代の日本を壟断し始めた。というのが、戦後になって戦前を総括した史家の定説になってます。
事件を起こしたのは、陸軍の青年将校たちですし、参謀本部は陸軍ですから、その後のすべては陸軍主導の戦争だった。海軍はやむを得ずそれに協力したに過ぎない、と。

あらすじでいえば、そうなのかもしれませんが、ことはそれほど単純ではないから、歴史は奥が深いし面白いですね。

ところで、陸軍の仮想敵国はずっとソ連でした。
これは、ソ連に攻め込むということではなく、ソ連の南下政策を警戒してのことですが。

満州事変、満州建国なども対ソ戦の基地の要素が大きかった。

で、二二六事件前後の日本の国力では、万一の場合にソ連と戦うことはできないことを、実は参謀本部が気がついていました。

簡単にいってしまえば、陸軍はこの時点でまったく自から戦争をすることなど考えていなかったんですね。
支那との戦争などまったく、想定していない。
まして、米英を敵などとは夢にも考えていなかった・・・・・

南太平洋に進出して、石油資源を欲したのは、実は艦隊を持っている海軍でした。海軍の南進論というのは知ってましたが、この海軍の強い意向で、広田弘毅内閣の国策まで一変せざるをえなかったとは知りませんでした。
つまり、海軍が仮想敵国に米・英両国を加えてきたわけですから、外交方針から根本的に転換しなければならないことになります。

その時、参謀本部の組織改変をやったのが、石原莞爾大佐です。
第二課(戦争指導と情勢判断を主務)を新設して課長になります。
これが通称で「戦争指導課」とよばれましたが、実はこれ、海軍の南進論の歯止めでもあったのですね。
石原はあくまで、産業の拡充計画を推進するための課。戦争をせざる参謀本部、筋の通った国防国家をつくるための参謀本部を考えていた、と。まったく、ソ連に対抗できない戦力国力を知っていたからでしょうね。
で、この戦争指導課という言葉は、結構誤解をされています。

それと、広田内閣のときの「軍部大臣現役制」。
この言葉も、軍部が政権に強い影響力をもつ意図で、復活させたというのが、常識になってますね。
ただ、これも最初の目的は全然別のところにありました。

あの、二二六事件の責任をとるかたちで、ほとんどの大将・中将が予備役に編入されました。
もしも、それらの将軍たちが政党などにかつがれて、大臣になったりしたら困る。それを防ぐ意味の現役制だったのですが・・・

歴史も多分に、結果論で語られることがありますし、その人(国)の史観やスタンスによっても、大きく見方が変わります。


現代史などでは、後からメディアがつけた呼び名が、「いわゆる×××」などと定着して、しかも現今ではそれがグローバルに駆け巡ることすら少なくありません。言葉による誤解などが増幅されるわけですか・・・・・・


ところで、あの戦艦『武蔵』『大和』が、陸軍にはまったく内緒で作られていたとは、知りませんでした。
満州事変を口実に予算を取って、造ってしまったとか。
造艦計画は、陸軍にはまったく知らされなかったそうです。
極秘の壁は、想像以上に厚かったのですかね。


















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2007年06月06日

歴史を読む


歴史が好きだ、という人はたくさんいます。

それは言いかえれば、歴史に関する書物を読むことが好き、ということになりますかね。
歴史小説、時代小説から、ノンフィクションや史資料、専門書まで幅を広げれば、それこそ際限もないくらい多様な世界です。

世界各国史はおいといて、日本史(戦前は国史といいましたか)だけでも、政治経済だけでなくて文化史もとなると、われわれが触れることのできるのは、ほんのさわりに過ぎないなと悄然としてしまいます。

「どの時代に惚れ込むかで、だいたいその人間がわかる」
と言ったのは、『室町記』を書いた山崎正和でしたか?
わたしの場合は、近世のあとから中世の室町でした。

江戸といっても、寛政から天保ぐらいの限られた時代に深く入ってしまっていました。

いつか若い人に、「近世ですか、じゃ明治にお詳しいですね」といわれて、返事に困ったのを思い出します。きっと、近代とかん違いしたのでしょうね。
近現代史は、なぜか少し敬遠していました。

今、昭和史を振り返り始めて、これまで断片的に理解していたことが、次々に脈絡を持ってつながりだすと、ふとした興奮を覚えたりします。
歴史を読む醍醐味はこれかと、ひとりうなずいたりしてます。

たしかSF作家の光瀬龍さんの言葉に、「晩年は日本の歴史を趣味に生きる」、と。妙に心に残ってますが、歴史好きは一生歴史好きで終わるはずです。

たまたまいま、昭和前期史を読むのに、時間を遡行してゆく方法をとっていますが、これには別の喜びがあります。
まるで自分が、歴史探偵にでもなったような、推理して謎を解いているような・・・・・


学校で歴史を学ぶときは、だいたい時系列にそってというのが、普通でしようか。
でも、自分で歴史を調べるのは自由です。時には因果関係を逆にたどると、謎解きの面白さがあって、思わぬ整合性を見つけたりして、楽しくなります。

歴史にも「歴史の機微」があるような気がしたり・・・・・
ま、歴史を生み続けているのが、人間ですから当然と言えば当然。


ところで、あの昭和の戦争は、軍部それも陸軍が主導で引き起こしたというのが、定説だったはずですが?











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2007年06月05日

北の国から

先月だったか、サハリンから帰国した日本女性が、テレビに映ってるのを偶然に目にした。

サハリンという名は、例のサハリン2の問題で、ついこの間もニュースになっていたから、知ってる人もいるかもしれない。
この半島は、日本名は樺太といって、昭和20年までは南半分は日本領でした。ですから、当然住んでいるのは日本人、行政もインフラもすべて日本ですね。

昭和の戦争で、日本がポツダム宣言を受諾した日に、すべてが終わった。普通はそうなるはずですね。
樺太にいた日本軍は、もともと米軍が北から攻めてきたときの備えでしたから、すでに武装解除をしていました。

テレビの中で女性が、「あの樺太で戦争があったんですよ。そのことを知って下さい」と、笑顔で静かに訴えていました。
そこで起こった出来事を、歴史を日本の人に覚えていて欲しい、そういう切ない願いがこめられているようで、胸を衝かれました。

あのときのことを知る人は、今の日本人に何人いるでしょう?

サハリンに残された日本人が、はじめて一時帰国を果たしたのが、平成二年だったと聞いて、驚きました。
日本人であることを隠して、朝鮮語や中国語で暮らしていたと聞けば、苦労のほども偲ばれます。

その女性は、北海道の親戚に会うための、何度目かの帰国のようでしたが、日本に時々帰れるだけでも幸せという風情でした。
一緒に娘さんが同行してましたが、朝鮮語しか話せないとか・・・・

北の海で、日本の漁船が拿捕された。サハリン当局に連れて行かれたと、ニュースがながれた。

ロシアの外相が、初めて北方四島を視察したという。


テレビでは、食べ物の旅番組とかで、「日本の最北端の島、礼文島」などと、女子アナが何度も強調していました。最北端?・・・・・・

21世紀になっても、戦後はまだ終わっていないのではないのかな?


樺太の戦争を、エピソードまでふくめて、つぶさに知りたいと思った人は、『昭和史の天皇』第四巻を読んでごらんになると良いです。
この本は、多分たいていの図書館にはあると思いますけれども。


*ウイキペディアは、終戦直前のソ連軍の侵攻で・・・でしたが、終戦 後なんですがね。









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2007年06月04日

敷島のやまとの国の山桜

一昨日、ちょっと触れた、某大学教授のサイトで面白い解説?がありました。面白いというより、気になる記事。

例の海軍の最初の特攻隊の、部隊名のことなのです。
敷島、大和、朝日、・・・これを聞いただけで、往時の日本人にはすぐにピンと来ます。本居宣長の歌にちなんでいることは、誰でもわかったはずです。あらためて、本歌を示すほどもないほど、人口に膾炙していましたから。

ところがその教授は、その部隊名を決めるときに、参謀長とかがなんと、「愛国百人一首」の札をめくって決めたと。
まことしやかに、HP上で史実として書いていたのです。

戦時中に、そんな歌留多が作られたのは事実ですが、そんなものを引っ張り出さなくても歌は浮かぶはずですね。

日本の国花は、ソメイヨシノではなくて、白い山桜のことだよ。
これは子供が、親や先生から、あるいは上級生から聞かされること。
そのときに、引き合いに出されるのが、宣長の歌でした。
しきしまの、やまとごころを、ひととはば、あさひににおう、やまざくらばな。

ですから、命を散らす→桜→宣長の歌を連想するのに、なにも歌留多をだすまでもない。

おそらく、教授の教養の程度を露呈しているのか(自分がそこで歌を知って、結び付けた?)、いわゆる半可通のひとりよがり。でなければ、なにか為するための記述かもしれません。

問題は、曲がりなりにも現職の私大教授ですから、若者たちを教えているということ。

ところで、昨日の薫空挺隊の隊長は、中重男中尉という24歳の青年でした。記者のメモ帳によると、柔道剣道ともに4,5段で、いつも『良寛論語』という本を、愛読していたといいます。お兄さんも戦死していたとかで、いよいよ出撃のときにつくった辞世の歌は、「亡き兄の教え守りて吾もまた、往きて守らん武士の道」。

出発の前まで、一人部屋で雑誌を読んでいたとか。それが、当時の文芸春秋で、横光利一の「旅愁」の連載が始まったところだった。
その雑誌をパタンと閉じて、「生きて帰ったら、続きが読めるな」と、記者に笑顔を見せたそうです。
生還はありえないことは、本人が一番知っていたでしょうね。


物語の続きはついになかった・・・・・・・














posted by shuuin at 17:27| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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