2007年04月10日

時代の子

人間は自由だ、自由であることが人間らしいことだ。

よくそう言われますし、そのことに何の異議もありませんが。

ただ、われわれが逃れることのできない拘束が、二つありますね。
時代拘束性と地域拘束性、この二つの頸枷から自由であることはまず不可能でしょうか。

地域は地理的とおきかえてもいいですが、民族とか人種といったほうが正確かもしれませんね。

たとえばわたしは、今という現代を生きている日本人、ということになります。

個人的嗜好でいいますと、江戸時代に生まれたかったと、よく思います。それも、寛政以降、文化文政あたりの江戸に・・・・・


ところで、今日は「大和」のいわゆる沖縄特攻のときの第二艦隊司令長官、伊藤聖一中将にからんだエピソード。

映画「男たちの大和YAMATO」で、渡哲也が扮した姿を思い浮かべる人も多いかも知れません。

レイテ沖海戦で、謎の反転をして栗田健男第二艦隊司令長官が帰ったのが、11月下旬。
19年12月23日、伊藤聖一中将が軍令部次長から二艦長官に補填されています。
ちなみに、伊藤は栗田の海兵1期下でした。そして、同期にはあのレイテ沖海戦の西村祥治(西村艦隊)、志摩清英(志摩艦隊)の両中将がいます。

20年4月7日、伊藤聖一中将は「大和」と運命をともにします。

ところで、この伊藤聖一司令長官の長男伊藤叡大尉が、筑波空で特攻隊の戦闘機訓練をしていたことを、昨日初めて知りました。

しかも、くしくもあの海兵72期、猪口「武蔵」艦長の長男智中尉と同窓であったとは・・・・・

20年4月28日、伊藤叡大尉は、沖縄伊江島附近で乗機零戦と運命をともにしました。
敵艦に特攻攻撃中、迎撃してきた敵戦闘機群と交戦した、と。

この一人息子は、父の死を知っていたのでしょうか?
聞かされていたとすれば、沖縄の海を飛んでなにを思ったのか?
とてもその胸中を忖度できるものではありませんが・・・・

伊藤中将は、出撃前日、候補生70余名を総員退艦させています。
若い彼らを後の世のために残す、と有賀艦長らときめた、と。

三田尻沖で「大和」に最後の給油をしていた駆逐艦「花月」の、航海長がまた海兵72期でした。この「花月」が、候補生たちを連れて帰ります。
特攻隊の息子と同年代の候補生に対するそのときの気持ちは、どんなであったろうか?と、航海長が同窓生の父親の胸のうちを思いやっておられます。

彼らはまさに、みんな昭和という「時代の子」、時代の親子ということになりますか。


伊藤叡大尉の妹さんの、兄の思い出を語る手記にも出会えました。妹自慢、妹思いのお兄さんだった姿が彷彿としました。
きらりと光る一瞬の光芒のような、昭和の青春・・・・・
23年後に書かれたこの手記を読んで、思わずウッと声がでてしまい自分で驚きました。


 >かっての慟哭をもって、兄を泣くことはもはやありません。
  しかし妻も残さず、ただ妹の胸の中のみに生きる兄を愛おしい
  ことは、さらに切なるものがあります。


昭和20年4月、日本の桜は例年のように咲いてくれました。
若者たちはみな、せめてもの飾りに桜をかざして、死地に赴いたようです。
海軍兵学校72期生に限っても、この終戦の年の春4月だけで、なんと61名もが戦死しています。調べてみたら、ほとんどが航空隊でした。まさに、先に猪口中尉が叔父に報告した通りでした。


この頃、海軍士官に嫁がれて、四日市の海軍の官舎におられた妹さんのもとに、父伊藤聖一中将の訃が報らされたのは4月28日だったそうです。まさに、お兄さんの戦死の当日だったのですね。


桜の季節には、いつも浮かんでくる詩の一節があります。
「年々歳々花あい似たり、年々歳々人同じからず」


靖国の桜の花の数が、亡くなった人たちの数に足りるのだろうかと、埒もないことが胸をよぎりました。
















ラベル:時代 拘束
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2007年04月04日

南も北も

沖縄の集団自殺のことが云々されています。

日本軍が、自国の民間人にたいして、自殺をどうこうするなどということは、まずありえないのでは?

なぜなら、軍の考え方は実戦部隊においては、民間人は足手まといだったからです。一般人のいるところでは、うまく戦えないというのが、指揮官から兵隊たちにいたるまでの考え方でした。

かれらは、ごく普通に当然のこととして、そう考えていた。
このことは、沖縄に限らず満州や樺太でも同じです。
それは残された様々な証言や、戦史戦記の言葉の端々にみられます。
「まず、女子供は先に早く内地に帰りなさい」
それが、「軍」の考え方でした。

沖縄戦でも、九州へ避難する様に再三すすめています。
ただ、すでに船の便がままならなかったり、様々な理由で島に残った人たちも多かったことから、あんな悲劇が起こったのです。

樺太は、終戦後にソ連軍が攻め込んできて戦場になったのですが、北海道に送ろうと苦労しています。

「手榴弾をわたされて・・・」
そういう証言がとり沙汰されてるようですが、手榴弾は実は兵たちにとっても貴重品?だったはずです。

自身の自決用の最後の一発さえ、ままならなかったこともあったとか。

一方で、日本人の民族性とか文化にかかわることも、忘れてはならないはずです。倫理観とか道徳観が、現代とはくらべものにならないほど厳しかった。
これは、なにも軍国主義のせいで強制されたものでもなんでもない。軍国主義とたいそうにいっても、せいぜい何年か何十年のものです。
それよりはるかむかしから、日本人の自分たちを律するものさしが、明確で純粋だったのですね。

一例をあげれば、貞操観念がまるでちがいます。

現代では、「貞操」は死語だそうですから、わからない人にはわからないままでしょうが・・・・・

大正生まれでも、由緒正しい家の娘の嫁入り道具には、懐剣が入ってました。
貞操の危機が迫ったときには、その短刀で喉を突くためのものです。

武士の女房の作法ですが、日本女性一般がほぼ同じ考え方をしていた時代です。
歌舞伎から村芝居にいたるまで、また本や講談浪曲などで、耳目にふれていましたから。
「操を守る」ために自害することは、日本女性にとってごくふつうのことでした。ひとつの美学でさえあった、といったら叱られますか。

いずれにしても集団自決というものも、その延長線上にあったと考えたほうが、真相に近いような気がします。

辱めを受けたくない、辱めを受けては可愛そうだ、そんな思いがひとつになった・・・・・
手榴弾を渡すというのは、そういうことだったはずです。
そこに強制などあるはずがない、そう思います。


自害、自決、自栽、あるいは切腹にしても、特攻もふくめて、さまざまな表現が日本にはあります。
アメリカでは、suicide で一括しますけれど、日本人独特のこういう民族的考え方は、かれらには理解しがたいでしょうね。


もうひとつ、アメリカ兵に対する恐怖心も、相当のものがあったことも忘れてはいけないですね。

銃弾や爆撃によるものは、戦争ですから日本人もわかっていますが、火炎放射器で人を焼き殺すことは、想像を絶するおぞましさだったのです。

沈没した艦の漂流者を、魚雷艇や航空機でわざわざ銃撃するというのも、日本人には卑怯な振る舞いとしか見えなかったですしね。

終戦直後、いよいよ占領軍が上陸するというとき、横浜から伊豆の山奥に疎開しました。当時の六大都市では、ほかでもあったかも知れません。
若い女性は、坊主になれとか、顔を炭で汚せとか、大人たちが真剣に相談したようです。さもなければ、伝手をたどってでも疎開して避難したのです。
後になれば笑い話でも、渦中の人間にとっては、それこそ何をされるかわからない恐怖があったはずです。
そういう時代の空気をよむことは、いろいろな歴史を理解する上で大切なことだと思っています。
いまの尺度だけで、過去を判断してはいけない、と。


あの時点で、二千年近い歴史を持つ国と、わずかに百六十年あまりの歴史しかない国とですから、考え方に大差があるのもしかたないですが・・・・・

すべてが、アメリカスタンダードになった、いまの日本ですけれど、歴史の検証には「時代の目」をあわせもって見ないと、とんだ見当違いをしかねませんね。

それにしても、教科書にああいう表現が採用されたのが、いつからだったのか?
そのことのほうが、知りたいですね。ご存知の方教えてくださいませんか?












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2007年04月01日

ものの見方

「人は、おのれの見たいものだけしか見ない」

だれの言葉であったでしょうか?
もちろんテレビのチャンネル選びのこと、ではないですが。

同じ一つのものをみても、人によってそれぞれとらえ方がちがいます。これはわれわれが日常的に、しばしば体験することです。

ときには、正反対に見えることすらある。
結局、人は自分に都合のいいものだけを見るのかもしれません。

ものを見るということは、そこに自分を投影してるのかもしれないです。つまるところ、分相応のものしか見えないということ。

見れども、見えず・・・・目明き千人に、めくら千人、とか。
むかしの人は、うまいこと言いますね。


ところで、沈没した乗員の救助をどうやったのか?

カッター(端艇)をおろして救助するのは、自力で泳ぎつけぬ負傷者でしょうか?
何百人も助けを求めて待っているときは、それだけでは間に合わないはずです。

数十本のロープを外舷のハンドレールに結んでたらして、乗組員各自が先端を輪にしたロープを持って、舷側に泳ぎついた遭難者に投げてやるそうです。
心得のある人は、片足を輪に入れて両手でロープを握る。そうすれば、上から引き揚げることができる。

あの駆逐艦「濱風」は、11月16日、ブルネイを出発して内地に回航する栗田艦隊の残存部隊の中にいました。

戦艦「大和」「長門」「金剛」、重巡「矢矧」、駆逐艦「浦風」「磯風」「雪風」「濱風」の八隻です。

「島風」のように、他任務で残ったのもありますが、それにしても三十二隻で出撃したのが、内地に帰るときにはこれだけですから。悄然たる気分ではなかったでしょうか。
しかも、帰路もまた戦場。

11月21日 03:06 台湾基隆沖まで来た時。
米潜水艦の雷撃で、「金剛」に4本、「浦風」に2本、被雷してしまいます。
「浦風」は一瞬のうちに艦影が消えたそうですから、轟沈。
さすがに「金剛」は、それでもなお16ノットで航行をつづけるのですが・・・・・
04:00 突然、大爆発を起こして急速に沈没してしまいます。

「濱風」「磯風」は、この二艦の救助を命じられて、現場に急行します。
「大和」「長門」は、「矢矧」「雪風」が護衛して内地に向かう。

この日の海上は大時化で、波が駆逐艦の艦橋をこえるほどだった、といいます。
(この、「金剛」のくだりはまた別のところで)


救助した人々を「矢矧」に移してから、三隻の駆逐艦は「長門」を護衛して、母港横須賀にかえります。それが、11月25日。

で母港に帰るやいなや、この第17駆逐隊の三隻を待っていたのが、空母「信濃」を瀬戸内海に回航する任務でした。

気がつきましたか、レイテ出撃のときから、いやその前のリンガでの訓練から、彼らはほとんど休んでいないですね。

常に戦闘航海を続けているわけです。
まさに海の男の艦隊勤務、月月火水木金金ですか。
今の若者だったら、・・・・?

「信濃」は戦艦「大和」の三番艦ですが、建造途中で空母に改装されています。
この19日に引き渡されたばかりの、できたてほやほやの巨大空母でした。つまりこの日に軍艦旗をあげて、海軍籍に入ったということです。
5年の歳月と建造費をかけて、工廠の技術と心血を注いだフネでしたが、わずか十日後に・・・・・

11月28日 13:30、出港して呉に向かいます。
11月29日 11:57、潮岬沖にて敵潜魚雷で沈没。
死者791名、駆逐艦に救出された者1080名。

ほとんどの、国民の耳目に触れることなく海に消えたために、幻の空母といわれました。

このときの三隻の駆逐艦の、決死の救出作業を、戦後中傷したものがいて雑誌の記事にまでなったといいます。

「信濃」の生存者が救出されるとき、手荒な扱いを受け、略奪行為があったと・・・

「信濃」には試験や未完作業のために、民間人・工員が200名ほど乗ってたといいます。


ところで、遭難者は長時間荒天の海(風速20メートル)に漂流して、救助されると気がゆるんで息をひきとる者が多いそうです。そのため、頬を叩いたり怒鳴ったりして、活を入れることが必要だったわけですね。

重油でどろどろの衣服を、全部剥ぎ取ってから居住区に入らせる。着たまま艦内に入ろうとするものは強制的に脱がせる。
そうしないと、艦内が油まみれになって、あとで大変ですよね。

しかし、軍隊はひどいところで、いやなところだということで、非難することで自分を正当化する人が、やはりいるわけです。

まさに、ものの見方はひとそれぞれ、といってしまえばそれまでですが。

ただ、印刷物などに残ると、後世それを読んだ人がそれを事実と思い込む場合がありますから、こわいし困りますね。






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2007年03月31日

過去の歴史


救助された「武蔵」の乗員はどうなったか?

駆逐艦「濱風」「清霜」によって25日13:53に、コロンに入港。

マニラ湾外に、傷ついて自力で引き返した重巡「妙高」がたまたま泊まっているの見つけて、被服などをすこし貰ったとか・・・

重油の海で泳いだら、脱ぎ捨てるしかないですよね。
「濱風」の甲板で、裸足で太陽に照らされると熱いので、みんなで日陰の側に移る。小さな駆逐艦でそれをやったら艦が傾いてしまって危険です。とうとう最後には駆逐艦長の厳重注意でやっと収まったとか。
海の男たちの子供みたいな、でも笑えないエピソードですね。

マニラに千数百人が上陸したら、軍機のこともさりながら、宿舎も大変ですね。
で、負傷兵だけマニラ病院に収容して、残りはコレヒドール島にあがれと命令されます。

このことについても、戦後、「武蔵」が沈んだことを隠すためにひどいことをしたなどといわれてます。
当人たちは、別に冷たいあしらいともなんとも思ってなかったようです。

敗戦後の一時期は、手のひら返しに、軍を非難するのが流行りました。
軍に関することは、すべて非難攻撃することが正しいとされてた時期があったのです。

きたない表現ですが、ミソもクソもいっしょにして、とにかく日本軍が悪い。悪いことは全部軍のせいにする、とかね。
真実を知ってる人や、心ある人は口をつぐむしかなかったことも多かった。
そのことが、いまごろになって歴史問題だ、教科書問題だに尾を引いてることも多々あります・・・・・

ちょっと、わき道にそれてしまいましたが、話をもとに戻します。

あの難攻不落のコレヒドール攻略は、『昭和史の天皇』に詳しいですが、陥落させてからはそのまま空っぽだったみたいです。

ですから「武蔵」の生き残りは、加藤副長のもとで加藤部隊として、何もすることがなかったそうです。しばしの休憩?
それで毎日、シブヤン海戦の戦訓を検討しあったのだそうです。
口々にでた敵機来襲の時間やなにかの証言を、加藤大佐がメモしていた、と。


「濱風」の乗組員は乗組員で、26日13:53にコレヒドール島に揚陸するまで、気の休まるときはなかったそうです。
24日の朝から、ずっとだったんでしょうね。


ところで沖縄戦でのことが昨日今日報道されてますね。
沖縄の戦いがどんなものだったか、若い人たちはほとんど知らないでしょうね。
その詳細を知るには、『昭和史の天皇』の沖縄の章を読まれるといいですね。
イデオロギーとか、左右の思想とかに関係のない、ありのままの史実をまず読まれることです。そこから自分で考えればいい。

過去の昭和史を捨ててきたから、いま様々な問題が起きて困惑してるわけです。

そのつどきちっと自信を持って反論したり、説明するだけの知識を持っておかないと、はなしになりませんから。





ラベル:歴史 教科書 沖縄
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2007年03月30日

不条理な死

カミユを引き合いにだすまでもなく、人間の死は不条理なものですね。

必死の戦場では、その不条理さはなおさらであったかもしれない。

運命の岐れめは、誰にもわかりはしないですから。


あの緒戦に潜水艦の奇襲をうけて、一弾も撃つことなく轟沈した悲運の重巡「摩耶」。
当たりどころが悪くて、爆発してあっというまに沈んだのですが、そのわりに救出された生存者も数百人いました。

約300とも400とも記録によって違いますが、4本も被雷して瞬時に沈没した状況下では、かなりの数では?
ちなみに「摩耶」の定員は996名。

前に書いた東郷元帥の孫の東郷中尉は、戦闘部署が中甲板の前部でした。その場所の下で爆発したわけですね。

「『愛宕』雷撃された!」で、「戦闘配置につけッ」がかかったとき、上甲板から駆け下りたといいます。
私室から上甲板に駆け上がる主計長の大尉が、ラッタルですれ違った、と。
「オス!」「オス!」

戦場の男たちの会話に、これ以上のものはないかも・・・
海軍兵学校の挨拶がこれですね。

それ以後東郷中尉の姿を見たものはなかった、とこれは生き残った海兵の後輩が語っています。
戦闘部署が一発目の爆発したところで、即死だったであろう、と。

助かった者が、比較的多かったのは、おそらく戦闘配置で甲板の砲座などにあがっていたからでしょうね。そのまま、海に放り出されたわけ・・・・・

もっとも、機関や機械の担当で下にいた人たちは、犠牲になりました。

秒単位で艦が傾く中でも、「摩耶」艦長大江賢治大佐は「総員退去」を下令しています。
そして、自らは艦と運命をともにしました。

その朝七時ごろ、スクリューをゆっくり空転させながら、真紅の軍艦旗をはためかせながら、「摩耶」は海に消えたそうです。

軍艦旗を下ろすまもない、倉卒のことですね。
フネに命があるのなら、重巡「摩耶」にとっても不条理な死かも。


ともかく、あたりの艦が救助したものは全員、「武蔵」に移されました。
そしてその「武蔵」沈没の前に、「島風」に移乗しましたがその後どうなったか?
このときの移乗者はある書物には607名とあります。「武蔵」の負傷者も含まれているのかもしれません。

とにかく、その後「島風」は艦隊復帰を命じられたから、かれらはそのままレイテ湾口近くまでいって、海戦に参加してるはずですね。

幸い「島風」は、その後「大和」らとともに無事ブルネイに帰投しています。

サマール沖海戦と呼ばれるその戦いでは、味方の救助を果たした駆逐艦までが沈められて、文字どうりもろともに海に消えて生存者なしのフネもありました。

さまざまな運命、死はやはりどこまでも不条理なもの、なのかも知れません。


ところで、ふと見たウイキペディアの「摩耶」の項に、一分で轟沈し、生存者は2名、とありますが、一体どういうことなのですかね。

まあ、辞書といいながらも、いい加減な記述に再三出くわしていますけれど・・・・・








ラベル:不条理
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2007年03月29日

被害担任艦

戦艦「武蔵」が被害担当艦であったか?

そのことについて、いくつかこれはと思わせる事実があるので、それについて書いておきたい。

そもそも日本海軍に、そのようなものがあったのかということになると、正式にそんな決まりがあるわけもない。

しかし、駆逐艦が「楯になれ」というようなことは当然あったっし、そもそも艦隊の諸陣形はまわりのもので大将を守るようになっている。


で、「武蔵」の場合だが、やはり特別な理由があったような気がする。

それはやはり、艦体のずばぬけた大きさと関係がある。
つまり、敵の標的にされるのは「大和」、「武蔵」の二艦だけといっても過言ではない。

案の定、敵はその時(最初の空襲)、「武蔵」だけに的をしぼってきた、と。

シブヤン海での栗田艦隊の輪形陣を描いてみるとよくわかる。

時計の長針のえがく円の上に7隻の駆逐艦、短針の円の上に4隻の巡洋艦と二隻の戦艦「武蔵」「長門」。
針の中心の上に「大和」。

中心艦というのは、攻撃するのがむずかしいそうである。

なぜなら、中心艦の頭上に至るまでに、一番外側の駆逐艦とか、二番めの輪の戦艦や重巡と交戦しなければならない。
中心艦より外側にいて、しかも「大和」と同じ勢力をもった「武蔵」を狙うのが理にかなった戦法になる。

で、このことは当然、出撃前からわかっていた。

そこで輪形陣の艦の位置なのだが、「武蔵」は「大和」の右後方で、これはリンガ泊地にいたときから、決まっていたはずである。

しかも艦隊の進む方向からいえば、敵機のやってくる側に占位してたのではないかとさえ思う。
敵は必ず、太陽を背にしてやってくる・・・・

艦隊司令部と「武蔵」艦長は、それを承知していたのではなかったか?

艦長の遺書の最初に、「なんとなく被害担任艦になりえたる感ありて云々」とあるのは、そのことではないだろうか。
これは、偶然そうなれてせめてもの慰めになる、というふうにも取れるが・・・
その任務だけはかろうじて果たせたようだ、という報告のような気がしないでもない。

「濱風」の兵長の手記にこんなことが書かれていた。

捷一号作戦発令の10月17日のリンガ泊地でのことである。

第一遊撃部隊(いわゆる栗田艦隊)の各艦は直ちに出撃準備にとりかかった。
各艦が不急品や可燃物の陸揚げと燃料補給に、あわただしく働いているときのこと。「武蔵」だけが外舷の塗装作業をしてるのが見えたそうである。
「濱風」乗組員たちは、ふしぎに思いながら、何のために今頃あんなことをしているのだろうと話し合った、と。

21日夜までに準備を完了して、ブルネイで夜明けの出撃を待つ各艦は、長い間の猛訓練(のちにリンガ百日の猛訓練と語り草になった)で、艦がよごれてくたびれて見えたそうである。

その中で、「武蔵」一艦だけ新造艦のようにきわだっていたのは、異様であった、という。

猪口艦長が単に、自艦の門出に晴れ着をきせただけなのだろうか?


ここで、旗艦「愛宕」が沈まなければ中心艦は「愛宕」になるわけだが、その場合「大和」は左後ろの「長門」の位置につくはずである。
二艦が並んだとき、「武蔵」が目立つ必要があったのではないかという気がしてならないのだが・・・

さらに、「大和」に将旗二本立てるのは異例というなら、「武蔵」を選ぶほうが普通である。通信設備は「武蔵」も同じなのだからなおさらだ。

どうも栗田司令長官の交代艦は最初から「大和」に決まっていたようである。
したがって、「武蔵」が矢表に立つたわけである。
この兄弟艦の役割は、つとにきまっていた。人間ならさしずめ、弟が兄の使命のために犠牲になるということになる。


ところで、猪口艦長の「武蔵」での勤務の日の浅さを取り上げて、操艦を云々するむきもあるが、それはまったくの的外れという気がする。




 * このブログを読んでくれる方が、いるのだろうかと
   不安になってます。コメントでも書いてくださいま
   せんか?お願いします。












ラベル:標的
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2007年03月28日

同期の桜

10月30日、セブ基地。

米軍のレイテ島タクロバン上陸後10日目。
陸では守備隊が奮戦してるときである。

レイテ湾に群がる敵艦船をねらって、つぎつぎに特攻隊が出撃していた。
猪口力平大佐は、その指揮のためマニラから、セブ島の前線基地に来ていたのである。

その日の夕方、6機の戦闘機が到着したのを、ピスト(指揮所)から見ていた。
整列して隊長に申告してる者をみたら、それが大佐の甥であった、と。
つまり彼は、「武蔵」艦長猪口敏平大佐の長男、智中尉である。

懐かしい叔父の姿を見つけて、そばに来て報告したという。

「岩国から今日クラーク(飛行場)に着いたら、すぐにセブに進出しろといわれて、いま着いたところなんです」

海兵72期、卒業して大半が航空隊に、促成修業で半年で少尉任官、この10月に進級して中尉。第二航空艦隊所属の戦闘百六十五飛行隊。

そんな話をしたあとで、
「おやじは、どうなったかな」
と、ぽつりといったそうである。
「そりゃ、艦と運命をともにしたろうよ」
「そうかな」と、やや力を落とした声でいった、と。

そういえば、「武蔵」が沈んだシブヤン海の上を、彼は今日飛んできたはずだ、と叔父はそのとき思ったそうだ。

暗くなったので、宿舎につれて帰ったが、どうせ二人とも長くないいのち・・・
だが、叔父は甥に特攻隊になれともなるなとも、いわなかったそうである。
特攻隊は志願が建前、こんなときにそれに触れるのはよくないと思ったからである。

二人は何も触れていないようだが、この日は兄であり父である猪口艦長の初七日にあたっている。


数日後、タクロバン飛行場に敵機が80機ほど集まっているとの報告が入る。

11月3日未明を期して、百六十五飛行隊の12機出撃決定。

猪口大佐は暗いうちからピストに出ていたが、少し遅れて智中尉がやって来たという。急いで飛行服に着かえると、始動している戦闘機にむかって走った。まもなく、機は暗闇の中を次々に離陸して行く・・・

出発したはずの、分隊下士官が帰ってきて報告した。
「分隊士が、『俺が行くから替われ』といわれましたので、私は残りました」

この分隊士官こそ、智中尉である。
叔父の力平大佐は、このとき初めて、この日の出撃メンバーに智中尉が入ってなかったことを知ったという。

これは映画のシナリオではない。紛れもない歴史のひとこまなのである。

運命のドラマはまだ終わらない。

敵の防御放火の曳光弾があがると、暗ければセブから見えたという。それを見て、奇襲がうまくいったんだなと思ったが・・・

山を越えたとたん、待ち伏せの対空砲火で全滅したと、血まみれで帰った一機の報告で判明する。

「兄の死後、ちょうど十日目、父の死に場所にそう遠くないところで、彼は二十歳の生涯を閉じたことになります」

おやじの弔い合戦だと思っただろうか、などと猪口中尉の胸中を忖度することなどとてもできない。

その出撃の朝、叔父甥は言葉を交わすこともなかったのだろうと思う。私事は半句もなし、であったのだろう。


この猪口智中尉と、あの「摩耶」で死んだ東郷良平中尉が、同じ海兵72期であることに気がついた。


二人は靖国の桜の同じ一枝に、咲いているのかもしれない・・・
ふっと、そんなことを思った。

今年は靖国神社にいって、花を見上げてみようかな。





















ラベル:戦闘機
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2007年03月27日

散る桜 残る桜


「武蔵」の猪口敏平艦長が、薄暗い艦橋で遺書を書いていた時、
悪天候で艦隊援護の特攻機を発進させられず切歯扼腕していた人がいた。

その第一航空艦隊先任参謀、猪口力平大佐は猪口艦長の実弟であった。
ルソン島マバラカットの基地は、地図の上ならシブヤン海のすぐそこにある。

余談だが、海兵ではチョコビン、チョコリキの愛称をもらった兄弟だそうである。

無論ともに互いの部署で、最善を尽そうとしていただけだからお互いのことを知る由もなかったであろう。

同じ戦場に親子、兄弟が云々の例も実は枚挙にいとまがないかもしれない。

それでもなお、運命のドラマを見る思いがする。

翌25日になって、「武蔵」の沈没を知ったという。

 
 兄は、ふだんがふだんだから、艦と運命をともにしたな、
 とは思ったけれど、とくになにも感じませんでしたね。
 それよりなによりも、わたしには責任を持たねばならない
 特攻隊の指導があったし、当面の戦況が戦況だし、
 われわれも間もなく死ぬんだと思っていた。
 まあ、兄のほうがひと足先に行っただけだというふうな
 感じ方でした。


「散る桜、残る桜も、散る桜」の心境とはこのことか?

兄弟が最後に会ったのが、シンガポールでの捷一号作戦打ち合わせのとき、甲板上での5分ぐらいの立ち話だったそうである。

遺書の手帳は、後にマニラで見せてもらったという。
そして手帳は、海軍省に渡って、江田島の教育参考館に納められたのだが、戦後に行方がわからなくなった、とか。

終戦の時の、海軍兵学校の校長は栗田健男中将だった。江田島で一体なにがあったのだろうか?
あるいは占領軍が、どうかしたのだろうか?

実は、猪口兄弟の運命のドラマにはまだ続きがあるのである。

昭和19年10月30日のセブ島で・・・・・ 






ラベル: 手帳
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2007年03月25日

男の勇気

艦長に託された手帳を、油紙に包んで胸ポケットに納めてから副長加藤大佐は軍艦旗などの始末をさせた。

そして、上甲板の三番砲塔に総員を集めて退艦のことを話す。

 「皆よく頑張ってくれたが、もはや武蔵を救うことはできぬ。
 退艦して、各員自由行動をとれ」


左傾した艦の、右舷から逃れたものが助からなかった、と。
艦側にびっしりついた牡蠣のせいで、滑ったり足を傷つけると泳げないという。
左舷に、跳びこんでも巨艦が転覆したため、渦に巻かれて海中に没したものが多かったと。

転覆して沈没するのはあっという間だったそうである。

見守っていた駆逐艦「濱風」が、あわてて避退するほどの大渦巻きだったと、救助にあったった乗組員が語っている。

「武蔵」は、やはり巨大な戦艦だったのだ。
造船所の船台を滑りおりる進水式で、海水がちょっとした津波をおこして、付近の民家が浸水したという秘話を思い出す。
たぶん予測をこえる出来事だったのだろう。
当時、「武蔵」のことは極秘であるから、話が広まらないように苦心があったのだとか・・・


実は、沈没のまえの19:09に「濱風」は、猪口艦長から、
「至急左舷に横付けせよ」の、命令を受けている。
なんとか、横付けをしようとしたが、海上はすでに闇でしかも「武蔵」の傾斜も加わって、果たせなかった、と。

重油の海にもがく仲間を助けようと、二隻の駆逐艦の奮闘は八時間続いたそうである。

夜になって風波がたかまって、漂流者たちが散らばって余計に困難がくわわっている。(曇天、風向北、風速9〜13メートル)
潜水艦警戒で移動しながらの救助作業。曇り空では星明りすらない。

「濱風」艦長前川萬衛中佐は、果敢にも探照灯照射を決断している。海戦で傷ついた艦を処理するために、敵潜が集結してるはずの海面である。
人命救助のために、自己犠牲をかえりみない男の勇気に、脱帽する。

「濱風」は副長以下准士官以上44名、下士官兵860名を収容。

定員の3倍の人員で、艦内は超満員。居住区を遭難者に明け渡して、砲塔内でゴロ寝したとあとで乗組員が語っている。

「清霜」でも、同じような状態であったろう。

かれらは皆、日本海軍という運命共同体の一人一人であったのだな、とふと思う。

海の藻屑と消えた人たちは、今年も靖国の桜の下で祖国の春を見ているだろうか。












ラベル:勇気 靖国
posted by shuuin at 18:48| ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月22日

猪口艦長の遺書

その全文を書き留めておきたい誘惑にかられる。

私情にわたるものは、微塵もないのに驚かされる。

 
  十月二十四日
  予期の如く敵機の触接を受く。・・・・
  遂に不徳の為、海軍はもとより全国民に絶大な期待を
  かけられたる本艦を失ふこと誠に申し訳なし。

この言葉につづくのが、

  唯本海戦に於いて他の諸艦に被害殆んどなかりし事は
  誠に嬉しく何となく被害担任艦となり得たる感ありて
  この点幾分慰めとなる。

つまり、敵の襲撃が「武蔵」に集中したことで、艦隊全体の被害が少なかったことを、せめてもの慰めだと・・・

続いて本海戦(米側呼称シブヤン海海戦)の、対空射撃の威力発揮が不十分であったことを、「各艦とも下手の如く感ぜられ自責の念に堪へず」、申し訳なし、と謝っている。
猪口艦長が、海軍きっての砲術の大家として、多くの教え子を育てたことから出た言葉であろう。
教え子たちの拙きは、師である自分の責任である、と。

  どうも乱射がひどすぎるからかえって目標を失する不利
  大である。遠距離よりの射撃並みに追い撃ち射撃が多い。

被害大となると、どうも口やかましくなるが、それも不徳の致すところで慙愧に耐えない、と謝っている。が、これらのことは次にはこのことに注意せよという、砲術の先生としての教訓であろうか。
艦長が遺書を書くときの状況を考えれば、驚嘆に値する。

そして、最初に主方位盤が使用不能になったことは大打撃であったと述べて、
  
  主方位盤はどうも僅かの衝撃にて故障になり易いことは
  今後の建造に注意を要する点なり。

なお、これから先の海軍の建艦への留意点を、書き残しているそのプロフェッショナル魂に敬服するのほかない。
航空魚雷のこと、敵機の戦法など戦訓を簡潔に綴ったあと、

  最後迄頑張り通すつもりなるも今の処駄目らしい。
  一八五五。
  
暗がりで思うように書けないと・・・

  最悪の場合の処置として御真影を奉還すること、軍艦旗
  を卸すこと、乗員を退去せしむること、之は我兵力を維
  持したき為生存者は退艦せしむる事に始めから念願。
  悪い処は全部小官が負ふべきものなることは当然であり、
  誠に相済まず。
  我斃れるも必勝の信念に何等損する処なし。
  我が国は必ず永遠に栄え行くべき国なり。
  皆様が大いに奮闘してください。最後の戦捷をあげられ
  る事を確信す。

そのあと戦死した英霊を慰めてやりたいこと、「武蔵」の損失が大きいことで、味方の士気への影響まで気にかけている。
そして、これまでの恩顧を謝し、私ほど恵まれた者はないと日ごろから感謝に満ち満ちていた、と。

  始めは相当ざわつきたるも、夜に入りて皆静かになり
  仕事もよくはこびだした。
  今機械室より総員志気旺盛を報告し来たれり。一九〇五
  
「武蔵」沈没の三十分前・・・
乗組員たちの様子が髣髴として、胸を衝かれる。


私事は半句もない。

加藤副長の写しを引用した記者がそう書いている。

猪口艦長の遺書の手帳の運命は・・・






ラベル:責任
posted by shuuin at 18:10| ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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